昨日の《(1)2012年日本敗戦日放送NHKSP「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」全文文字化- 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》の続きです。
前回の終わりは陸軍省軍務課長永井八津次の録音音声発言となっていましたが、メモ用紙の途中で私自身の注釈を加えておいたために、終わりだと勘違いして最後のところを書き漏らしてしまいました。その全発言を改めて記載、書き漏らした個所を青文字で書き加えておきます。以下のとおりです。
陸軍省軍務課長永井八津次(録音音声)「阿南さんの中は講和だったんですよねえ。初めっから講和なんです。阿南さんはね、ところが部下のものが非常に強く言うし、無条件降伏したときに天皇さんがどうなるのかっちゅう、ことがその当時から非常に大きな問題。
天皇様、縛り首になるぞと。こういうわけだ。
それでも尚且つ、お前らは無条件降伏を言うのかと。
誰もそれに対しては、『いや、それでもやるんだ』っちゅう奴は誰もおりませんよ。
その点がね、僕は、その、阿南さんの心境というものが非常にね、お辛かったと思うんですよ」
以上です。
余分なことかもしれませんが、そのとき私が用紙にメモした注釈を参考までに記載して起きます。
〈軍トップの頭の中には日本が戦争継続能力を失った状況を前提とした戦争継続の場合の国民や一般兵士の生命(いのち)、その犠牲は一顧だになく、国体護持(=天皇制維持)しか頭になかった。
徹底抗戦派の本土決戦で一撃を加えてから対米交渉に臨むと言うのは、制海権も制空権も失っている上に、軍用機を飛ばす満足な燃料さえ保持していなかった日本側に対してアメリカの圧倒的物量を前に一撃を加えることができる軍事力の具体的根拠は持ちようがなかったにも関わらず、天皇の軍隊と誇示してきた手前、徹底抗戦の有効な策も軍事力も失っていたことを素直に認めることができない単なる強がりがつくり出した希望的観測に過ぎなかったはずだ。
このことは一撃派が、本土侵攻米軍を中国大陸に配置した部隊とも連携して迎え撃つを策としていたこと自体が証明している。制海権・制空権を失った状況下で中国大陸から日本本土への部隊単位の移動を可能だと考えて言っていたとしたら、見上げた判断能力としか言い様がない。
強がりが可能とした合理的判断の喪失であろう。強がりは時として、一般常識さえ失わせる。
一億総動員の赤紙一枚で召集した俄仕立ての兵士を中国やその他に送るべく艦船に乗せたはいいが、目的地に上陸する前にアメリカ軍によってその多くが撃沈されているのである。
軍トップがもし国民や一般兵士の生命(いのち)を少しでも考える頭があったなら、講和派なら、講和派としてのリーダーシップ(=指導力)を何らか発揮していたはずだ。国体護持付きの準無条件降伏案とかを創造して、対内的には軍隊、対外的にはアメリカの承認を得るといった動きに奔走すべきリーダーとしての責任を負っていたはずだが、その責任遂行意志を示すどころか、逆に責任不作為に陥っていた。責任の機能不全を来していた。
国体護持を条件としなければ、軍内部の暴発を招きかねないと正直に訴えても良かった。だが、軍トップとして、軍内部の暴発といった危険性の提示は責任上からもメンツから言ってもできなかったとしたら、自己保身と責任回避意識に凝り固まっていたことになる。
このことは随所から窺うことができる。
責任不作為と責任の機能不全は自己保身を出発点とした資質であって、このことを可能としたのは一にも二にもなく、国民や一般兵士の生命(いのち)、その犠牲を些かも頭に置いていなかったからであって、その想像性欠如が終戦終結の先送りへと繋がっていたはずだ。〉
以下から、後半部分。
ナレーション(女性)「この頃、海軍にヨーロッパの駐在武官から重大な情報がもたらされた。(昭和20年)6月7日の高木(惣吉)の記録」
記録した用紙と文字が画面に映し出される。
ナレーション(女性)「スイスの駐在武官が極秘にアメリカ側と接触しを続けた結果、驚くべきことを伝えてきた。
アメリカ大統領と直接つながる交渉のパイプができそうだというのです。アメリカの言う無条件降伏は厳密なものではない。今なら、戦争の早期終結のため交渉に応じるだろうという報告であった。
これを千載の一遇の機会と見た高木(惣吉)は米内(海軍大臣)を訪れた。ソビエトに頼るのではなく、アメリカと直接交渉すべきだというのが、高木の考えだった」
高木惣吉と米内海軍大臣の写真を用いて模したテーブルを挟んで会話するシーン。
海軍少将高木惣吉(構成シーン)「直接、アメリカ側と条件を探るチャンスです。この際、このルートを採用すべきです」
海軍少将高木惣吉(録音音声)「私は米内さんに、もし私でよかったら、(スイスに)やってくださいと」
ナレーション(女性)「しかし米内の返答は高木を失望させるものだった」
海軍大臣米内光政(構成シーン)「謀略の疑いがあるのではないのか」
海軍少将高木惣吉(録音音声)「これは陸軍と海軍を内部分裂させる謀略だと、こういうわけなんです」
ナレーション(女性)「米内はこの交渉から海軍は手を引き、処理を外務省に任せるよう指示した。
もしアメリカの謀略なら、日本は弱みを曝すことになり、その責任を海軍が負わされることになると恐れたのだ。
米内が手を引くよう指示したアメリカとの交渉ルート。このとき相手側にいたのはのちにCIA長官となるアレン・ダレスだった。最新の研究によると、アメリカ国内では当時ソビエトの影響力拡大への警戒感が高まっていた。ソビエトが介入してくる前に速やかに戦争を終結させるため、日本に早めに天皇制維持を伝えるべきとする考え方が生まれていた。
ダレスを通じた交渉ルートは進め方によっては日本に早期終戦の可能性をもたらすシャンスだった」
海軍少将高木惣吉(録音音声)「私はね、スイスの工作なんか、もっと積極的にやってよかったんじゃないかと思うんですよ。日本はもうこれ以上悪くなりっこないじゃないかと。
内部だってね、もうバラバラじゃないかと。だから、落ちたって、騙されたってね、もうこれ以上悪くならないんだから、藁をも掴むでね。もしそれからね、ヒョウタンからコマが出れば拾い物じゃないかと」
ナレーション(女性)「一方、ダレスの情報を海軍から持ち込まれた外務省が当時模索していたのはソビエトを通じた和平交渉だった。
スイスのルートは正式な外交ルートから外れたものとして、その可能性を真剣には検討しなかった」
外務次官松本俊一(録音音声)「例のアレン・ダレス辺りね、あんなもの無意味ですから。僕ら情報持っていたけど、そんなものは相手にしたくもない。謀略だと思うね」
再び加藤陽子と岡本行夫、姜尚中の3人の検証シーン。
加藤陽子「宮崎参謀作戦部長など、本当にもう本土決戦は無理だと、極めて困難だと。しかしそれを言えないっていうことを言ってました。
ただ、沖縄でも、組織的な抵抗、敗退する。そしたら、本土だけになって、まあ、状況が決定的に変わったにも関わらず、なぜ、やはり4月に、5月に、6月に取れた情報、ソビエトが必ずやってくるということが分からないのか」
岡本行夫「もう本当にタコツボに入っちゃうと、周りのことが一切見えなくなるっていうのは、悲しい限りですねえ。
今最後のVTRでね、松本俊一外務次官が言ったね、ダレス機関なんて言うのは、あれは信用できないとかね、そんなこと言ったら、新しい話はすぐに信用できないで片付けられる。
だから、基本的には武官からの情報だから、ダメだって言うわけでしょ。これは高木惣吉さんが残念がるのは無理もない話しですねえ。
あれで本当にね、動き始めたかもしれないですねえ。だけど、外務省が取ってきた情報じゃないってことで、切って捨てるわけでしょ」
加藤陽子「例え切り捨てでしたら、情報などと統合する、何て言うんでしょうか、帝国防衛委員会というようなプライオリティ、ランクなんですよ。何が重要なのか。それを決める会議があって、それで様々な、10万とかたくさんの情報を処理することが、その会議とのフィルターを通じてできる。
で、アメリカも、国家安全保障委員とかもある。だから、日本も、日本にとって、じゃあ何が大事なのか」
姜尚中「やっぱり国務大臣は各独立して天皇に対して輔弼の責任を負うと。で、独立してっていう言葉の所に非常に大きな意味があるし、ところがいつの間にか輔弼ってところが我々ば普通考える政党政治のリーダーシップとまるっきり違うものに――」
姜尚中の発言中に――
大日本帝国憲法下の国務大臣の権限は互いに独立・平等
輔弼 天皇の行為に進言し、その責任を負うこととキャプション。
加藤陽子「政策を統合して陛下に上げるという、そういうことではないという――」
姜尚中「なくなっているということでしょうね。だから、どこかでやっぱり天皇にすべてのことを結局、具申していないし、まあ、現状そのものを追認するだけでいいし。
だから、外側からは局面転換はモメンタム(きっかけ)をね、まあ、期待するという、ある種の待機主義、待っているという――」
加藤陽子「なる程――」
竹野内豊「近い将来、敗北を受け入れなければならないことはリーダーたちは分かっていた。しかしその覚悟は表には現れない。刻々と過ぎていく決定的な時。
そうした中、カギを握る陸軍のリーダーが動き出す」
ナレーション(女性)「徹底抗戦の国策が決定された直後の6月11日、異例の報告が陸軍トップによって天皇になされた。中国の前線視察に出かけていた(陸軍)参謀総長の梅津美治郎が側近にも打ち明けていない深刻な事実を奏上した。
陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後の戦闘は不可能とご承知願います」
ナレーション(女性)「陸軍の核を握っている精鋭部隊にすぐに徹底抗戦は愚か、一撃すら期待できない程弱体化しているというものだった」
中国戦線なのだろう。日本兵の一塊となって隙間もなく累々と横たわった死者が映し出される。
ナレーション(女性)「日頃は冷静だった梅津の告白に天皇は大きな衝撃を受けた。
天皇から直接その様子を聞いたのが内大臣の木戸幸一」
内大臣木戸幸一(録音音声)「要するに往年の素晴らしい関東軍もなきゃ、支那総軍もないわけなんだと。
碌なものはないという状況。艦隊はなくなっちゃってるだろう。それで戦(いくさ)を続けよというのは無理だよね。
要するに意地でやってるようなもんだから、(天皇も)大変なんだよとおっしゃっていたよ」
明治大学講師山本智之「支那派遣軍の壊滅状態を天皇に報告すれば、天皇も気づくと思うんですよね。これは本土決戦できないということは。
天皇にそういう報告をしたって言うことは、梅津が天皇に対しまして、戦争はできないって言っていることと同じなんですね」
ナレーション(女性)「予想を遥かに超える陸軍の弱体化。一撃後の講和という日本のベストシナリオは根底から崩れようとしていた。
梅津の上奏から間もない6月22日、天皇が国家のトップの6人を招集した。天皇自らによる会議の開催は極めて異例の事態。
支配していたのはリーダーたちに国策の思い切った転換、戦争終結に向けての考え方が問いかけられた」
天皇(構成シーン)「戦争を継続すべきなのは尤もだが、時局の収拾も考慮すべきではないか。皆の意見を聞かせて欲しい」
海軍大臣米内光政(構成シーン)「速やかにソ連への仲介依頼交渉を進めることを考えております」
ナレーション(女性)「東郷外務大臣もこれに同意を示した。
決戦部隊の弱体化とソビエトの参戦が近いという情報。国家に迫る危機の大きさを全員が共有するチャンスがこのとき訪れていた。
ここで(天皇は)梅津参謀総長に問いかける」
天皇(構成シーン)「参謀総長はどのように考えるか」
陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重に行った方がよいと思います」
ナレーション(女性)「梅津は見てきたはずの陸軍の実態に触れなかった」
明治大学講師山本智之「梅津、阿南が戦争終結を願いながらも、主戦派の排除に、主戦派を排除し切れないっていうね、そういった背景でそういう発言をするのではないかと。
排除し切れていないんですよね。結構不安もある」
ナレーション(女性)「しかし天皇は異例にも梅津に問いかけを続けた」
天皇(構成シーン)「慎重にし過ぎた結果、機会を失する恐れがあるのではないのか」
小谷防衛研究所調査官「天皇の意図としては自分がこうやって臣下の者たちと腹を割って話し合おうという態度を見せているわけですから、おそらく、天皇としては本当に梅津や阿南が主戦派なのか、もしくは心の奥底では実は和平を望んでいるのかと、そういうところを確認したかったんだろうと思います」
ナレーション(女性)「しかし梅津も阿南も重大な事実は口を噤んだままだった」
陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「仲介依頼は速やかなるものを要します」
ナレーション(女性)「 天皇は梅津に詰め寄る」
天皇(構成シーン)「よもや一撃の後でと言うのではあるまいね」
陸軍参謀総長梅津美治郎(構成シーン)「必ずしも一撃の後とは限りません」
ナレーション(女性)「軍の最高幹部が一撃後の講和というベストシナリオに拘らないという姿勢を初めて表した瞬間だった。
しかしこの段階になっても、軍の実態とソビエトの参戦が近づいているという重要な事実はリーダーの間で共有されることはなかった。
宮中に於ける政治動向分析の第一人者、茶谷誠一成蹊大学文学部助教授。
この会議が早期に終戦に持ち込む最大のチャンスだったと把えている」
成蹊大学文学部助教授茶谷誠一「一撃を加えられない。じゃあ、どうしようかというふうなことを6人の中でもっと真剣に22日にやっておけなかったのかという言うのは、ちょっと現代人の我々から見れば、それは責任というか、もうちょっとある程度真剣に最後の引き際をもうちょっと早く考えられなかったのかと。
事態が事態なわけで、双方から上がってきた情報というものを少なくとも最高戦争指導会議の構成員である6人が共有するようなシステムにしていれば、事態がもっと早く動いていた可能性もあるわけなんですけども――」
ナレーション(女性)「 水面下の工作に奔走していた高木惣吉海軍少将。破局を前に決断をためらうリーダーたちに失望を露にしていた」
海軍少将高木惣吉(録音音声)「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのはね、腹とね、公式の会議に於ける発言と、そういう表裏が違っていいものかと。
一体(苦笑)、国家の命運を握った人がね、責任ある人がね、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったら、どうするのか。
職責がどうだとか、ああだとか、言われるんですよ。それはご尤もなんですよ。
だけど、平時にはそれでいい。だけど、まさにね、そのー、祖国が滅びるかとうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、そういう平時のね、公的なね、解釈論をやっている時期じゃないじゃないかと。
自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは、その、平時の習慣を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」
ナレーション(女性)「 天皇招集の異例の会議から3日後、沖縄戦は敗北に終わった。軍人と民間人、合わせて18万人が犠牲となった」
再度、加藤陽子、岡本行夫、姜尚中が登場。なぜ方針転換を決断できないのかのキャプション。
加藤陽子「今回のVTRや調査で明らかになった6月22日、これは天皇がかなりリーダーシップ取っておりますね。
だから、私も非常に不明だったんですが、8月の二度のいわゆる天皇による聖断ですね。あれでガッと動いたと思ったんですが、その前に(6月)22日の意思がある。一撃しなくても、講和はあり得るでしょうねってことが天皇が確認したことが一件あった。
なーんで組織内調整、じゃあ6人の会議の中に天皇が参加したときの組織内調整ができないのかっていうのが、どうでしょうか。仲間意識とか、そういうことで言うと、姜さんは」
姜尚中「6人ともやっぱ官僚ですよね。必ずしも官僚は悪いとは思わないけど、やっぱり矩(のり)を超えずっていうところにね、とどまったんじゃないかと。自分の与えられた権限だけにね、
だからそこに逃避していれば、火中の栗を拾わなくても済むと。それはやっぱり優秀であるがゆえに逆に。
で、これは今でも僕は教訓だと思うんです」
岡本行夫「それにしてもねえ、ヤルタでの対日ソ連参戦の秘密合意についての情報が天皇にまで伝わっていれば、それは歴史変わっていたと思いますね。
6月22日の御前会議のもっと早い段階で天皇は非常に強い聖断、指示をしていたのではないかと。
そうするとね、沖縄戦に間に合っていたかどうか分かりませんが、少なくとも広島、長崎、そしてソ連の参戦という舞台は避けられていた可能性はありますねえ」
加藤陽子「だけど、本当のところで、終戦の意志を示す責任はあるというのは内閣なんだろうってことを、自分が背負っている職務って言うんでしょうか、一人、こんな私が日本を背負っているはずがないというような首相なり、あの、謙遜とか、非常に謙虚な気持で思っているかもしれない。
でも、そうは言っても外交なんで、内閣が輔弼する、つまり外務大臣と内閣総理大臣、首相なんですよね」
姜尚中「やっぱ減点主義で、だから、何か積極的な与えられた権限以上のことをやるリスクを誰も負いたくないわけ。
その代わりとして、兎に角会議を長引かせる。たくさんの会議をやる。(笑いながら)で、会議の名称を一杯つくるわけですよね。
で、結局、何も決まらない。いたずらに時間が過ぎていくという。会議だけは好きなんですね。みんな」
加藤陽子「日本人はそうかもしれない」
姜尚中「たくさん会議をつくる」
岡本行夫「戦争の総括をまだしていないんですよねえ。日本人自身の手で、誰が戦争の責任を問うべきか、どういう処断をすべきかってことは決めなかった。
そして日本人は1億総ザンゲ、国民なんて悪くないのに、お前たちも全員で反省しろ。
で、我々はもうああいうことは二度としませんと。だから、これからは平和国家になります。一切武器にも手をかけません。
そういうことでずうっと来ているわけです。本来は守るべき価値、国土、自由っていうのがあるんですねえ。財政状況だって、あれ、戦争末期と今とおんなじで、財政赤字、国の債務のレベルになると、GDPの、戦争の時200%、今230%ですよね。
それは本当にね、我々は勇気を持って、戦争を題材に考えるべきことだと思います」
姜尚中「岡本さんのとことにもし付け加えるとすると、やっぱり統治構造の問題ですね。
で、やっぱり原発事故、ある種やっぱり、その戦争のときの所為とその後の、ま、ある種の無責任というか、それはちょっとやや似ている。
それで、やっぱり現場と官邸中枢との乖離とか、それから情報が一元化されていない。
で、どことどこの誰が主要な役割を果たしたのかもしっかりと分からない。それから、議事録も殆ど取られていない。
で、そういうような統治構造の問題ですね、これをやっぱりもう一度考え直さないといけない。で、まあ、そういう点でも、変えるべきものは変えないといけないんじゃないかなあと、気は致しますね」
竹野内豊「この頃、東郷外務大臣宛にヨーロッパの駐在外交官から悲痛な思いを訴えた電文が届いている」
「昭和20年7月21日 在チューリッヒ総領事神田穣太郎電文」のキャプション。
竹野内豊「『私達は重大な岐路に差し掛かっている。この機を逃せば、悪しき日として歴史に残るだろう。
確固たる決意を持って、戦争を終結に導き、和平への交渉に乗り出して欲しいと、切に願う』
決定的な瞬間にも方針転換に踏み出せなかった指導者たち。必要だったのは現実を直視する勇気ではなかっただろうか。
終戦の歴史はいよいよ最終盤を迎える」
「昭和20年7月16日 アメリカ・ニューメキシコ州」のキャプション
原子爆弾の巨大なキノコ雲が噴き上がる瞬間を撮影した古いフィルの映像。
ナレーション(女性)「7月中旬アメリカは原子爆弾の実験に成功した。
日本の関東軍に忍び寄る極東ソビエト軍。刻々と増強の報告が入っていた。
そして米英ソの首脳の間で間もなく日本の終戦処理について話し合いが行われるとの情報が届く。
トップ6人はソビエトとの交渉の糸口が掴めないまま虚しく時間を費やしていた。
こうした中、ある人物が政府に呼ばれる。元首相近衛文麿。緊急の特使としてソビエトに赴き、交渉の突破口をつくって貰おうという案が浮上した。
近衛特使にどのような交換条件を持たせるべきか、6人の間で再び議論が始まった」
外務大臣東郷茂徳(構成シーン)「米英ソの会談が間もなく開催される。その前に戦争終結の意志を伝えなくてはいけない。
無条件では困るが、それに近いような条件で纏める外(ほか)はない」
ナレーション(女性)「東郷外務大臣は思い切った譲歩の必要を説き続けた」
陸軍大臣阿南惟幾「そこまで譲ることは反対である」
外務大臣東郷茂徳「しかし日本が具体的な譲歩を示さない限り、先に進むことはできない」
海軍大臣米内光政「東郷さん、その辺りで纏めておきましょう。陸軍も事情があるでしょうから」
ナレーション(女性)「会議は交渉条件を一本化するには至らなかった。具体化した条件を各組織に持ち帰り、部下を説得するメドがこの段階でも立たなかった。
小谷防衛研究所調査官「御前会議ですとか、政府連絡会議、もしくは最高戦争指導会議、まあ色んな会議をやっていますけども、会議が決めることができないんですよ。要は決める人がいないわけですね。
首相も外務大臣も、陸海軍大臣、参謀総長、軍令部総長にしろ、みんな平等に天皇に仕える身分なわけでありながら、誰か勝手にイニシアチブを取ってですね、決めることができない構造になってるわけです」
ナレーション(女性)「一方特使派遣の交渉を指示されたモスクワの佐藤尚武大使からは危機感に満ちた電報が繰返し届いた。
駐ソビエト日本大使佐藤尚武(構成シーン)「ソ連は今更に近衛特使が何をしに来るのか疑念を持っている。日本側が条件を決めて来ない限りソ連は特使を受け入れるつもりはない」
ナレーション(女性)「これに対して東郷外務大臣は苦しい説得を続けた」
外務大臣東郷茂徳「現在の日本は条件を決めることはできない。そこはデリケートな問題だからだ。条件は現地で近衛特使に決めて貰うしかないのだ」
ナレーション(女性)「国内の調整をすることを諦め、外交交渉の既成事実で事態を打開をしようという苦渋の一手だった。
しかし近衛特使派遣という策は手遅れとなった。派遣を打診して2週間。ソビエト首脳はドイツ・ポツダムのイギリスとの会談に出発してしまった。
日本のチャンスは失われた」
キャプション
昭和20年7月26日 ポツダム宣言発表
日本に無条件降伏を勧告
米英粗首脳が握手するシーンが流される。
キャプション
昭和20年8月6日 広島に原爆投下
死者14万人
8月9日 長崎に原爆投下
死者7万人
同日、ソ連が中立条約を破棄
対日宣戦布告
死者30万人以上
シベリア抑留者57万人以上
破局的な形できっかけがもたらされるまで、国家のリーダーたちが終戦の決断を下すことはなかった。
内大臣木戸幸一(録音音声)「日本にとっちゃあ、もう最悪の状況がバタバタッと起こったわけですよ。遮二無二これ、終戦に持っていかなきゃいかんと。
もうむしろ天佑だな」
外務省政務局曽祢益(録音音声)「ソ連の参戦という一つの悲劇。しかしそこ(終戦)に到達したということは結果的に見れば、不幸中の幸いではなかったか」
外務省政務局長安東義良(録音音声)「言葉の遊戯ではあるけど、降伏という代わりに終戦という字を使ったてね(えへへと笑う)、あれは僕が考えた(再度笑う)。
終戦、終戦で押し通した。降伏と言えば、軍部を偉く刺激してしまうし、日本国民も相当反響があるから、事実誤魔化そうと思ったんだもん。
言葉の伝える印象をね、和らげようというところから、まあ、そういうふうに考えた」
8月15日、玉音放送。直立不動の姿勢で、あるいは正座し、両手を地面に突いて深く頭を垂れ、深刻な面持ちで聞く、あるいは泣きながら聞く皇居での国民、あるいは各場所の国民を映し出す。
ナレーション(女性)「厳しい現実を覚悟し、自らの意志でもっと早く戦争を終えることができなかったのか。
空襲、原爆、シベリア抑留による犠牲者、最後の3カ月だけでも、日本人の死者は60万人を超えていた」
極東国際軍事裁判所
ナレーション(女性)「終戦に関わったリーダーたちはそれぞれの結末を迎えた。陸軍大臣阿南惟幾、昭和20年8月15日自決。参謀総長梅津美治郎、関東軍司令官時代の責任を問われ、終身刑。獄中にて昭和24年病死。外務大臣東郷茂徳 開戦時の外務大臣を務めていた責任を問われ、禁錮20年。昭和25年。服役中病死。
一方、内閣総理大臣鈴木貫太郎、海軍大臣米内光政、軍令部総長豊田副武(そえむ)は開戦に直接関与していなかったとして、責任を問われることはなかった。
東郷の遺族の元からある資料が見つかった」
東郷和彦「これが(赤い表紙の手帳)1945年の東郷茂徳が書いていた日誌のような手帳ですね」
ナレーション(女性)「 東郷外務大臣が終戦に奔走した昭和20年につけていた手帳。孫の和彦さんの心に強く残った言葉があった」
東郷和彦「軍がやろうとしていたことができなくて、もう勝つ方法は全くないような意味なんだと思うんです。
これは一言なんですけどね、あの、非常に緊迫感があります」
ナレーション(女性)「『国民の危急 全面的に』
この言葉が書かれたのは6月22日。天皇が自ら6人を呼び、国策の方針転換を問いかけた日である。
このとき(この日に)、ソビエトの参戦情報を把握できなかったことを東郷は戦後悔やみ続けた」
東郷和彦(東郷茂徳が著した単行本らしきものを開いて)「ヤルタで(ソ連が)戦争ということを決めていたことに、その、『そういうことを想像しなかったのは、甚だ迂闊の次第であった』と。
もう本当に恥ずかしいというか、迂闊だったと。
こうしてここに書かざるを得ない程、辛いことだった――」
ナレーション(女性)「 そしてもう一人、最後まで終戦工作に奔走した高木惣吉の親族の元から未発表の資料が見つかった。
高木が戦争を振り返って、記した文章である」
『六とう新論』の題名のついた昔風の書物。
(「とう」は「偉」の右側の旁(つくり)を篇とし、「稲」の旁(つくり)を旁とした漢字。「袋」の意味で、変じて「包み隠す」という意味もあるとのこと。想像するに、六つの袋に隠した当時の事実(=真実)といった意味を持たせているのかもしれない。)
ナレーション(男性)(読み)「現実に太平洋戦争の経過を熟視して感ぜられることは戦争指導の 最高責任の将に当たった人々の無為・無策であり、意志の薄弱であり、感覚の愚鈍さの驚くべきものであったことです。反省を回避し、過去を忘却するならば、いつまで経っても同じ過去を繰返す危険がある。
勇敢に真実を省み、批判することが新しい時代の建設に役立つものと考えられるのです」
竹野内豊「310万の日本人、多くのアジアの人々。この犠牲は一体何だったのか。
もっと早く戦争を終える決断はできなかったのか。そして日本は過去から何を学んだのか。
この問いは私たちにも突きつけられているように思う」
(以上)