橋下大阪市長の「慰安婦が(日本)軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられたという証拠はない」の事実性

2012-08-22 12:11:41 | Weblog

 李明博(イ・ミョンバク)韓国大統領が日本の強い反対にも関わらず8月10日、日韓両国領有権主張の竹島に上陸・訪問したのは旧日本軍の従軍慰安婦問題の対応に関わる日本政府への不満が背景の一つにあったと報じられていた。

 この背景について、橋下徹大阪市長が“見識ある”発言を行なっている。8月21日(2012年)の大阪市役所記者会見。

 《「慰安婦、強制連行の証拠ない」 橋下大阪市長が言及》MSN産経/2012.8.21 14:26)

 橋下徹大阪市長慰安婦が(日本)軍に暴行、脅迫を受けて連れてこられたという証拠はない。そういうものがあったのなら、韓国にも(証拠を)出してもらいたい。

 (慰安婦の)強制連行の事実があったのか、確たる証拠はないというのが日本の考え方で、僕はその見解に立っている。

 (竹島問題は)近現代史についての日本の教育に問題があったんじゃないか。国と国の利害が対立したときにどのように解決策を導くのか、基礎となる教育的な知識が不十分だ」 

 李明博大統領の竹島上陸・訪問の背景に慰安婦問題があったとしても、領有権問題と慰安婦問題は全く別個の問題である。教育の問題と言うよりも、日本政府の対応の問題であろう。

 8月19日日曜日NHK日曜討論『尖閣・竹島 日本外交を問う』でも高村正彦自民党議員が橋本市長と同じ趣旨の発言を行なっていた。

 高村議員「李明博さんのね、大統領の言葉をそのまま受け止めればですよ、それは日本政府が慰安婦に対して誠実な態度を取ってこなかったからだと。こういうことを言ってるわけですよね。

 ただ、この問題は日韓基本条約で法的には完全に解決したと。そしてただ、気の毒な面もあるから、えー、強制連行なんていう事実はないんだけれども、気の毒なものがあるから、えー、世界、えー、アジア、えー、女性基金、ですか、あれをつくって、それなりの措置をしたと。

 それから1998年に、イー、金大中大統領が日本に来られたときに、『20世紀に起きたことは全て20世紀に終わらせようじゃないか。一度文書で過去について謝ってくれれば、それは韓国政府としては二度と問題にしない』と。『だから、一度謝ってくれ』と。

 で、小渕総理はそれを良として、文書で謝ったんですよ。そこで過去については法的に日韓基本条約で、政治的には完全に決着したんですよ。

 決着したことをね、政府同士でね、蒸し返しちゃいけないんですよ。それは当たり前のことでね、このことはちゃんとしないと。日本政府も蒸し返してもいいのか如くの態度を取ったことが一部民主党政権にあったんですね。

 それが呼び込んだんじゃないかということですね」(以上)

 金大中の約束は、それが外国との約束であっても、政権が代われば反故にされる例は多々あるはずだし、あるいは約束に大きな影響を及ぼす新たな事実が判明した場合、あるいは重大な事実を隠して約束を結んだことが露見した場合等々、変更されたり、約束自体が成り立たなくなるケースもあるはずだ。

 一例を挙げると、あとでも触れるが、オランダ領インドネシアを舞台に戦ったオランダと日本は1956年に「日蘭議定書」を締結。オランダ政府は以後の賠償請求権放棄を謳った。

 だが、この締結に反して2001年に「アジア女性基金」のような形でオランダ人女性に対して合計2億5500万円の償いを行なっているが、このことも国家間の約束の変更に入るはずだ。
 
 また日韓基本条約締結(1965年6月22日)時点に於いて、いわゆる韓国人女性の従軍慰安婦問題は外に現れていなかった、話題とされていなかった出来事であって、このことが念頭になかった、対象外とした締結であったという指摘もある。

 だが、ここでは従軍慰安婦の「強制連行なんていう事実」はあったのかなかったのかに焦点を当てる。

 先ず当時の大日本帝国軍隊及び軍人自身が特別の強圧性・強制性を備えていたことを前提としなければならない。天皇陛下の軍隊として大日本帝国憲法に規定した天皇の絶対性を自ら体現していたのである。

 大日本帝国軍隊内に於いて上官の命令は絶対だとして、どんな無理も通ったと言われているが、対外的にも自らを絶対的存在と見做して国民に君臨していた。

 例を挙げてみる。《比で敗走中の旧日本軍 日本人の子21人殺害》朝日新聞/1993年8月14日)

 〈【マニラ13日=共同】第二次大戦末期の1945年にフィリッピン中部セブ島で、旧日本軍部隊が敗走中、同行していた日本の民間人の子ども少なくとも21人を足手まといになるとして虐殺したことが明らかになった。フィリッピン国立公文書館に保存されていた太平洋米軍司令部戦争犯罪局による終戦直後の調査記録による。

 記録によると、虐殺を行ったのは南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊。虐殺は4月15日ごろにセブ市に近いティエンサンと5月26日ごろその北方の山間部で二度にわたって行われた。

 一回目は10歳以下の子ども11人が対象となり兵士が野営近くの洞穴に子どもだけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。二回目は対象を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。部隊司令官らは「子どもたちに泣き声を上げられたりすると敵に所在地を知られるため」などと殺害理由について供述している。

 犠牲者の親は、戦前に九州や沖縄などからセブ島や南パラオ諸島に移り住み、当時セブ市に集まっていた人たち。長女ら子ども3人を殺された福岡県出身の手島初子さん(当時35)は米軍の調べに対し「子どもを殺せとの命令に、とっさに子どもを隠そうとしたが間に合わなかった」などと証言。他の親たちも「(指揮官を)殺してほしい」などの思いを伝えている。〉――

 天皇の威光を背景として軍が身に纏い、軍全体で上から下に伝えていた絶対的権威主義性が国民観とすることとなった軍の体質が可能とした民間人の命よりも軍人の命のかくまでもの絶対性である。

 《ルポ沖縄戦 語り部の50年 集団自決 家族も手にかけ・・・・》朝日新聞朝刊/1994年6月27日)

 〈「赤ん坊の声が敵に聞こえると居場所が分かる。殺せ」と命令された、などの悲惨な話もある。アメリカ側の従軍記者は「歴史上最も残酷で見難い戦闘」と恐怖を込めて報告している。〉――

 《落日の満州3 教え子探し、帰国に尽力》朝日新聞/1994年10月9日)

 ソ連の侵攻を受けて日本人開拓団は満州から撤退することになった。

 〈旧満州東部の哈達河(ハタホ)開拓団は、豪雨を突いて夜通し歩き、麻山(まさん)というなだらかな丘にたどり着いた。前方にはソ連軍が迫っていた。敗走する関東軍に護衛を頼んだが、「任務ではない」と冷たく突き放された。根こそぎ動員で男はわずかしかいない。

 「自決の道を選ぶのが、最も手近な祖国復帰だ」

 団長の提案が通り目隠しの布が配られた。家族ごと輪になり、夕日に染まる陸に座った。

 仲間の銃口が火を噴き、数時間の間に、四百数十人の命が奪われた。>

 いわゆる麻山事件である。

 ここにも軍人の絶対性、軍人の命の絶対性を見て取ることができる。国民は止むを得ずそれを許容していた。天皇の権威を背負い、天皇の軍隊・天皇の兵士だったのである。軍隊・軍人は自分たちを絶対的場所に置いていた。そのことを忘れてはならない。国民の命よりも先ず自分たちの命だったのである。

 現在の自衛隊に対するのと同じ認識でかつての大日本帝国軍隊と軍人を解釈したのでは何も見えてこない。

 沖縄の集団自決を可能としたのも日本の軍隊の絶対性であったはずである。自分たちを絶対的場所に置き、県民を非絶対的場所に置いていたからこそ可能として集団自決の強制であろう。

 集団自決者にしても、天皇及び大日本帝国軍隊の絶対性を受けて自決を受け入れたはずだ。

 上記記事――《ルポ沖縄戦 語り部の50年 集団自決 家族も手にかけ・・・・》を見てみる。

 上陸してきた米軍の圧倒的な猛攻にさらされ、(渡嘉敷)島全体がたちまち玉砕の危機に追い込まれていた。軍陣地近くに終結せよと日本軍から命令が出され、「自決せよ」と命令が出たと情報が伝えられ、軍からあらかじめ渡されていた手りゅう弾を握り締める。家族が固まりを作る。幼い子に因果を含める声。むずかる赤ん坊を必死でなだめる押し殺した声が聞こえる。一瞬の静寂。そして突然手りゅう弾の爆発。人間の断末魔の悲鳴。

 〈金城少年も手りゅう弾を手にした。母親、妹、弟がにじり寄る。教わった通り、爆発させる。が、発火しない。方法を誤ったのか不発弾だったのか、とにかく爆死は失敗に終わった。

 ぼうぜんと立ちつくす少年は不思議な光景に目を奪われた。一人の男がすごい形相で木の枝を折っている。そして次の瞬間、折り取った木を頭上に振り上げ、そばにうずくまる妻や子をむちゃくちゃに殴り始めた。

 それが導火線になった。爆死に失敗した人々は、かまで、こん棒で石で、肉親を撲殺していった。〉

 軍人の命の絶対性から見たら、何と粗末な扱われ方をしたのだろうか。

 次に日本軍と強制的関与についての記述に移る。

 《日本軍と業者一体徴集・慰安婦派遣・中国に公文書》朝日新聞朝刊/1993年3月30日)

○文書は1944年から45年にかけて、日本軍の完全な支配下にあった天津特別市政府警察局で作
 成された報告書が中心で約400枚。

○日本人や朝鮮人が経営する売春宿の他に中国人が経営する「妓院」は登録されただけでも300
 軒以上あり、約3000人の公娼がいた。

○日本軍天津防衛司令部から警察局保安科への命令
  
 1河南へ軍人慰労のために「妓女」を150人を出す。期限は1カ月。
 2金などはすべて取消して、自由の身にする。
 3速やかに事を進めて、二、三日以内に出発せよ

○指示を受けた警察保安科は売春業者団体の「天津特別市楽戸連合会」を招集し、勧誘させ、22
 9人が「自発的に応募」(とカッコ付きで記事は書いている)。性病検査

 後、12人が塀を乗り越え逃亡。残ったうちから86人が選ばれ、防衛司令部の曹長が兵士10人と共にトラック4台で迎えに来る。

○その後の6月24日付の保安科長の報告書は86人のうち半数の42人の逃亡を伝えているとのこ
 と。

○1945年7月31日の警察局長宛て保安科の報告書添付文書

 「軍方待遇説明」には、徴集人数は25人、「身体が健康、容貌が秀麗であることをもって合格とする」とし、期間は「8月1日から3ヶ月間」

○日本軍からの派遣の指示が出たのは7月28日で、準備期間は4日しかなかった。

○待遇――本人に1カ月ごとに麦粉2袋。家族に月ごとに雑穀30キロ。慰安婦の衣食住・医薬品・化粧
 品は軍の無料配給。

○花代――兵士「一回十元」・下士官「二十元」・将校「三十元」

○「この報告書には、山東地方の日本軍責任者と業者、警察局の三者が7月30日に会議を開き
 『万難を払いのけ、一致協力して妓女を二十五人と監督二人を選抜することを決めた』と記述。

 また、防衛司令部の副官が『日本軍慰労のための派遣は大東亜全面聖戦の成功に協力するもので、一地域にこだわってはいけない。すみやかに進めよ』と業者に対して訓示したことも記録されている」――

 日本軍の完全な支配下にあった地域で、期限は1カ月以内で、150人を出せ、集まり次第、2、3日以内に出発せよ――

 大日本帝国軍隊と大日本帝国軍兵士が体現していた権威主義的強制性・強圧性と併せ考えて、以上の期限を短く切った命令に何ら強制性はなかったと果たして言えるだろうか。

 229人が「自発的に応募」とは書いてあるが、時代劇の水戸黄門でよくやる悪代官の無体な命令に逆らうことができずに泣く泣く言うことを聞く村人といった構図がここにあったはずで、抵抗不可能と観念した状況が前提の「自発的」と見なければならない。

 このことは「自発的に応募」した229人のうち、12人が塀を乗り越え逃亡、残ったうちから86人を選抜、軍用トラック移動中に86人のうち半数の42人が逃亡していることでも、「自発的に応募」が自発的ではない、相手の意思に反した強制性・強圧性を担っていた命令だったののである。

 軍の命令を受けた売春業者団体「天津特別市楽戸連合会」はその命令に逆らえなかったのであり、「天津特別市楽戸連合会」から軍の命令だとして伝えられた妓女にしても、その命令に逆らうことができなかった構図があったはずだ。

 ソ連の侵攻を逃れて撤退する民間人が日本軍の集団自決の命令に逆らうことができなかったように、あるいはセブ島から日本軍と共に撤退する民間人が子どもは足手纏いだとして日本軍に虐殺されるに任せて抵抗することができなかったように、同じ強制的・強圧的力学が働いていたのである。

 大日本帝国軍隊と大日本帝国軍人は絶対者であった。絶対者であることの強制性・強圧性はあるまい。

 この強制性・強圧性が如何なく発揮されたもう一つの顕著な例が日本がインドネシアを植民地としていたオランダと戦闘、制圧・占領して捕虜としたオランダ人女性を、1944年2月、その収容所から拉致、慰安婦とした強制性(橋下市長が高村議員が云う「強制連行」)であろう。

 オランダ政府のHP「日欄歴史調査研究 アンバラワ抑留所「強制慰安」のページの最初に次の日記が記載されている。(久しぶりにアクセスしてみたが、削除されている。)

 〈モドー

 1944年2月23日

 今日の午後3時一杯の日本兵を乗せて二台の車がやって来た。全バラックリーダー達が歩哨の所に来させられ、そこで18歳から28歳までの全女子と女性は即申し出なければならいと聞いた。この人達に質問されたのは、何歳か、そして結婚しているか子供達は居るかという事だった。その間彼女達は大変きわどく見られた。今又それはどういう意味を持つのだろう?又17歳の二人の女子達が紳士達のリストの中に18歳として記述されていた為率いられた。私達は忌まわしい憶測をしている」――

 そもそもからして大日本帝国軍とその日本軍人は敗者のオランダ側に対して勝者としての強制性・強圧性を表現していた。

 目的を告げられていなかったとしたら、不安と怪訝を感じながらも、選別を受けるままに従ったろうが、目的を隠していること自体が日本軍側が本来的な強制性・強圧性の上にさらなる強制性・強圧性を既に持たせていたこと意味する

 目的を告げられていた上での選別・拉致であるなら、本来的な強制性・強圧性に何層倍もする強制性・強圧性を持って事をなしたことになる。

 大体が17歳の2人の女性を18歳偽って連行したこと自体、表面は何気ない仕業であっても、そこに強制性・強圧性を隠していなければ可能とならない“戦争犯罪”であろう。

 幾つかのオランダ人収容所から女性を強制連行しているが、この事件を日本軍上層部の方針に逆らった末端将兵の勝手な犯行であり、首謀者たちは既にオランダの軍事法廷で死刑を含む厳刑に処されているからと、そのことを以てして日本軍全体の慰安婦強制連行を免罪とする主張が流布しているが、末端将兵の犯行であったとしても、その強制性と強圧性は天皇の軍隊としての大日本帝国軍隊の威光を背景とした確信犯行であろう

 これでも橋本市長にしても高村議員にしても、「強制連行はなかった」と言えるだろうか。

 言うことができるとしたら、戦前の大日本帝国軍隊とその軍人たちを性善説で把えた場合のみであろう。

 日本はオランダとの間で1956年に「日蘭議定書」を締結。日本側は当時の金額で1千万ドルを(1ドル360円の時代で、36億円にものぼる)「見舞金」名目で元捕虜や民間人へ支払っている。

 日蘭議定書第3条「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」

 「日蘭議定書」を以って、個人賠償請求も含めて以後の賠償請求の放棄を謳った。

 以下「Wikipedia」記事より。

 ところが、1990年にオランダで「対日道義的債務基金(JES)」をが結成されて、日本政府に対して法的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償を求める運動が開始され、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施し、2001年オランダ人女性に対する「償い事業」をと、日本は国民的な償いの気持という形で2億5500万円を支払い、2001年に「償い事業」を終了させている


 さらに2007年、オランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされた。2008年に訪日したマキシム・フェルハーヘン外相は「法的には解決済みだが、被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しい。オランダ議会・政府は日本当局に追加的な意思表示を求める」と述べ、日本側の償い事業の継続を求めたという。

 2007年、一元オランダ人慰安婦が米国議会での慰安婦聴聞会で証言している。

 ジャン・ラフ・オハーン「当時19歳だった42年、日本軍占領後、収容所に入れられ、日本式の花の名前が入った名前を付けられ、髪が薄い日本軍将校が待つ部屋に連れて行かれた。 彼は刀を抜いて‘殺す’と脅した後、服を破り、最も残忍に私を強姦した。その夜は何度強姦されたか分からない。

 一緒に連行されたオランダ人少女らと3年半、毎日こうした蛮行に遭い、飢えて苦しみ、獣のような生活をした。

 日本は95年にアジア慰安婦財団を作って私的な補償をしたというが、これは慰安婦に対する侮辱である。日本は政府レベルで残虐行為を認め、行動で謝罪を立証しなければならず、後世に正しい歴史を教えなければならない。

 日本人は私たちが死ぬのを待っているが、私は死なない」(同Wikipedia

 従軍慰安婦の強制連行を否定する立場の日本人及び日本政府は、この発言を証拠のない個人の証言だと言うに違いない。

 だが、言っていることは大日本帝国軍隊とその軍人が体現していた強制性・強圧性に合致する描写となっている。

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