タレント・パックンの日本の教育論・文化論から見た暗記教育と「和の精神」の関連性

2012-09-05 10:47:13 | Weblog

 日本でタレントとして広い分野で活躍しているハーバード出のアメリカ人、パトリック・ハーランこと芸名パックンがインタビューに応えて日本の教育と文化について一言づつ述べている紹介記事がある。

 《【転機 話しましょう】(74)タレント パトリック・ハーランさん いろんな挑戦が好機呼ぶ ローン返済のため来日、相方や伴侶に巡り合う》MSN産経/2012.9.1 07:00 )
   
 パックンが8月10日(2012年)日本テレビ放送「ネプ&イモトの世界番付」で日本の教育について述べた核心的な一言を、8月28日(2012年)当ブログ記事――《野田首相の竹島・尖閣日本固有領土学校教育は自律性排除の短絡的全体主義発想 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で取り上げた。

 上記「MSN産経」記事の発言と関連しているゆえに、予めブログの一言を再度掲載してみる。

 パックン(ハーバード卒)「アメリカはやっぱり自分の考えていることをうまく表現しなければいけない。アメリカの試験はそういうのがメインですよ。色々なことを知っているのじゃなくて、あなたはどう思っているのか。

 これができると、後々凄い有利になるんですよ。日本の教育はたしかにデータは一杯習得するんだけど、自己主張ができない、交渉ができない、議論ができない。

 だから、日本はいつも外交で圧倒されちゃうんですよ

 番組解説がこのことの結果が世界に於ける日本の存在感の希薄性、日本の首相の外交舞台での影の薄さを招いているといったことを言っていた。

 「色々なことを知る」知識の集積は主として記憶力で事足りる。だが、「どう思うか・どう考えるか」の自己主張術・議論能力は記憶力のみでは事足りず、断るまでもなく思考能力の分野に入る。

 自身の思考能力を介在させない、他者から与えられた知識・情報を記憶力のみに頼って行う自己主張・議論は他人の知識・情報の受け売りで終わり、当然、そこに自己を表現させることも、自己表現が可能とする自己の存在性を証明することもできない。

 自分が自分であるという自己を表現するには「どう思うか・どう考えるか」の自身に独自な思い・考えを表現する思考能力こそが必要条件になるということなのだろう。

 このことが自己の存在感を高め、それが一国の首相の場合は国の存在感につながっていくということであるはずだ。

 だが、そうなっていない。その原因は日本の学校教育自体が「どう思うか・どう考えるか」の思考プロセスを置いていないからなのは言を俟(ま)たない。 

 学校教師が与える知識・情報は生徒の思考作用を介在させることで初めて、教師の知識・情報を拡大・変化、もしくは新規発想へ転換可能とすることができるが、思考プロセスを介在させていないために単に記憶作用のみの受容となって、単なる知識・情報(データ)の暗記で終わり、知識・情報の拡大・変化、もしくは新規発想への転換は望みにくくなる。

 要するにパックンが言っていることは、「日本の教育はたしかにデータは一杯習得する」暗記教育に過ぎないとの指摘であるはずだ。

 では、パックンが日本の教育と文化についてインタビューにどう答えているか。

 日本の教育に関する一言は「ネプ&イモトの世界番付」での発言とほぼ共通している。

 ――日本で子育てしていますが、日本と米国の教育の違いは?

 パックン「日本の教育は、言われたことを忠実に行う要素を重視していると思います。平均的に高い知識レベルの人を育てられる一方、米国に比べて議論の機会が少なく、自分の考えを発信する力が身につかない問題があると感じます」

 ――日本文化の好きなところは?

 パックン「調和を大切にする『和の精神』は大好き。ただ、若い人にはもっとハングリー精神もほしいですね。他人を蹴落とさずに個人の向上心も強い新しい形の社会を作ってほしいです」

 パックンは「暗記教育」という言葉を直接的には使っていないが、「日本の教育は、言われたことを忠実に行う要素を重視していると思います」という言葉遣いで、間接的に日本の教育が暗記教育だと、その構造を指摘している。

 まさに教師が伝える知識・情報を児童・生徒が自分たちの思考能力を介在させずに丸のまま受け止めて(暗記して)自身の知識・情報とする暗記構造の忠実性を指している、「言われたことを忠実に行う」の指摘であろう。

 授業で教師が教える知識・情報を忠実に暗記しておけば、テストの設問に困ることなく答えることができ、高い点のテスト結果を得ることができる。

 勿論、この忠実性は日本人が思考様式・行動様式としている権威主義から発している。ここで言う権威主義とは上が下を従わせ、下が上に従う上下の関係力学で殆どすべてを律する日本人の相互的な存在性を言う。

 この上下関係が人間関係に於ける相互の自律性(自立性)を阻んでいる。

 このような権威主義性が学校教育にも反映されて、教師が発信する知識・情報を発信する形のままに児童・生徒が自分たちの知識・情報とする暗記教育となって現れている。

 知識・情報の点で、児童・生徒が他律性に頼って、自律(自立)できていない姿を取っていると言い替えることもできる。

 このような暗記教育は、教師と児童・生徒間の知識・情報の授受の場に「どう思うか・どう考えるか」の思考プロセスを省略していることによって可能となる。

 いわば暗記教育に於いて忠実性と思考性は相反する価値観をなす。

 「どう思うか・どう考えるか」、児童・生徒が自分なりの思考性を身に着けて初めて、知識・情報の点で他律性を離れて自律(自立)可能の姿を取ることができる。

 日本の学校教育が暗記教育を構造としている以上、「平均的に高い知識レベルの人を育てられる」と言っている、「高い知識」にしても、自身の思考能力を介在させない、他者から与えられ、暗記した、思考的に自律(自立)していない他律性の「高い知識」ということになる。

 自身の思考能力を介在させない、他者から与えられ、暗記した「高い知識」を思考原理・行動原理としているからこそ、マニュアル人間が存在することになる。

 マニュアルに従わなければ、思考も行動も満足にできないというのは、そこに「どう思うか・どう考えるか」の自身の自律(自立)した思考性を介在させることができない代わりに、マニュアルが指示している考え方・行動の仕方を他律的に自らの忠実な思考原理・行動原理とするということであって、当然、そこには手本とするマニュアルに忠実に従う権威主義性を働かせていることになる。

 よく言われる前例主義についても、同じことが言える。権威主義性を思考力学・行動力学としているからこそ、前例主義が成り立つ。

 いくら「高い知識」を身に着けていても、他者から与えられ、暗記した他律的知識であるからこそ、「自分の考えを発信する力が身につかない」ということが起こる。

 「自分の考えを発信する力」は他者から与えられた借り着の知識・情報ではなく、自律(自立)した思考能力を得て初めて可能となるということである。

 パックンは日本の文化について、「調和を大切にする『和の精神』は大好き」と言って、価値観を置いているが、日本人は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義を思考原理・行動原理としているのである。当然、その「和の精神」とは、上下の人間関係力学に影響を受けた「和」であるはずである。

 いわば日本の「和」は下に位置する者が上に位置する者に対して忠実に従うことによって成り立つ。
 
 この顕著な現れが下の地方が上の中央に従う中央集権であり、企業やその他の組織に於ける上司・部下の上下関係であり、学校や部活、あるいは芸能界に於ける先輩・後輩の関係であろう。

 あるいは学歴の上下で人間を上下に価値づける学歴主義を挙げることができる。

 日本人には白人コンプレックスがある。白人をより優秀だと価値づけ、日本人を下に置いた権威主義性からの心理現象であるのは断るまでもない。

 多分、パックンは周囲の日本人が白人コンプレックスから彼を上に置いて大事にする人間関係の調和を「和の精神」の発揮だと勘違いしているのではないだろうか。

 相互に自律(自立)し、そのような存在として認め合う、対等な相互性を持った「和の精神」であるなら、権威主義性を思考原理とすることもなく、行動原理とすることもないはずだ。

 学校教育は教師と児童・生徒が相互に意見を言い、相互に知識・情報を発信し合うこととなり、暗記教育を構造とすることもないだろう。
 
 部下が上司にペコペコと頭を下げることもないし、地方役人が中央の役人を上に置いて、中央集権体制とする国の統治の形を取ることもないだろう。

 「和の精神」は悪くすると、ときに慣れ合いの精神となって現れる。下の者が上の者に慣れ合って平和を保つ慣れ合いである。

 あるいは上の者が自身の無能と無責任を隠すために下の者に慣れ合う形を取る場合もある。

 どちらも自律(自立)的な場所にまで自己存在を進めることができずに他律的存在で終わっているからこその慣れ合いの形を取った「和の精神」ということなのだろう。

 「和の精神」が上が下を従わせ、下が上に従う、自律(自立)とは無縁の上下関係から発している精神性であるからこそ、権威主義に駆られて下の者に位置する者が上の位置を目指す向上心はあっても、「新しい形の社会」を目指す向上心はなかなか生まれない。

 「新しい形の社会」とは、相互に自律(自立)した存在性と思考性・行動性を備えて活動する社会でなければならない。

 だが、そういった社会を目指すどころか、上が下を従わせ、下が上に従う上下の人間関係で律した権威主義性を存在原理とした、あるいは活動原理とした旧態依然の社会に浸ったまま満足している。

 結果として、外国人よりも劣る「自己主張ができない、交渉ができない、議論ができない」日本人的存在性を引きずることになっている。
 
 記事は最後にパックンの経歴を次のように紹介している。

 〈Patrick Harlan〉 1970年、米コロラド州出身。米ハーバード大比較宗教学部卒。同大卒業後の平成5年に来日し、福井市の英会話学校で講師として勤務しながら、アマチュア劇団で俳優として活躍。俳優活動を本格化させるために上京し、エキストラなどの仕事をしていた9年に吉田真さんとお笑いコンビ「パックンマックン」を結成した。NHKEテレ「テレビで基礎英語」、TBSラジオ「パックンマックン・海保知里の英語にThank you!」などに出演し、英会話などの本も手がける。

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