9月26日(2012年)の自民党総裁選で第1回投票で2位につけた安倍晋三が第2回投票で第1回1位の石破氏を逆転、自民党新総裁に選出された。
次の首相に一番近い位置につけることが予想されている。
予想が事実となったら、また安倍かあ、である。首相になったら日本の大悲劇の予感がする。
菅無能の外交デビューは2010年6月25日から開催のカナダ・トロントG8(主要国首脳会議)。首脳宣言は韓国哨戒艦沈没事件(2010年3月26日)を引き起こした北朝鮮非難を盛り込んだ。
6月26日午後(日本時間27日朝)、トロント市内で記者団に次のように語った。
菅首相「私がリードスピーチを行い、非難すべきは非難するよう申し上げ、宣言に盛り込まれた」(The Wall Street Journal)
菅主導の首脳宣言北朝鮮非難であったというわけである。鮮やかな外交デビューだった。
次の日の6月27日午後(日本時間28日朝)の同じカナダ・トロント市での記者会見。
菅首相「G8の正式な宣言の中で、北朝鮮の行為を強く批判したことの意味は非常に大きい。今、進行している国連の議論にも何らかの形で反映されると思う」(YOMIURI ONLINE)
先を見通す目――先見性には鋭いものがある。
安全保障理事会では韓国哨戒艦沈没事件の北朝鮮関与に関わる討議が行われていた。日米韓が主導して模索した拘束力のある安保理決議が中露の協力を得ることができずに月が変わって7月9日(日本時間同日深夜)、一段格下の拘束力のない、しかも直接北朝鮮の犯行と断定したわけではない議長声明で幕を閉じた。
いわば菅が言っているように、自らがリードして首脳宣言に盛り込んだ北朝鮮批判は何ら国連の議論に反映されず、尻切れトンボに終わった。
だが、このようになることの先見性は備えていなければならなかったはずだ。安保理での北朝鮮に対する実質的制裁に関わる中露の反対、もしくは非協力等々の北朝鮮擁護は安保理に於ける常套的カードとして繰返されてきたからだ。
中露のこのような動きを見通す目を持たず、外交デビューに舞い上がったのか、何ら役に立つわけではなく、形式で終わることは見えていたにも関わらず、「私がリードスピーチを行い、非難すべきは非難するよう申し上げ、宣言に盛り込まれた」とか、G8首脳宣言に盛り込んだ北朝鮮非難が「今、進行している国連の議論にも何らかの形で反映されると思う」などと安請合いしたことを言った。
物事を全体的展望に立って見通す客観的判断能力を欠いているからこその自画自賛の発言であろう。
一方安倍晋三は拉致問題に10年近くも関わってきながら、被害者5人帰国以降、何ら進展を果たすことができなかった。この間ずうっと、対北朝鮮圧力政策を掲げて今日に至っている。
このことは見事なパラドックスをなしている。圧力政策が何ら成果を上げなかったにも関わらず、なお圧力政策を掲げるパラドックスである。
ここには拉致解決政策に関わる客観的判断能力も創造性も見ることはできない。
安倍晋三は金正日から金正恩に体制が移行したことに期待し、拉致首謀者は金正日であって、金正恩ではないことに根拠を置いて、「日本が要求している拉致の問題について答を出さなければ、あなたの政権、あなたの国は崩壊しますよ」(8月30日フジテレビ「知りたがり」)と言葉の圧力をかければ交渉が可能となるようなことを言っているが、このことも全体的展望に立って見通す客観的判断能力を欠いた主張としか言いようがない。
前にもブログで書いたが、北朝鮮の体制危機の決定的なところで中露が支援に乗り出すからである。
ロシアが旧ソ連から引き継いだ北朝鮮110億ドル債務のうち、約100億ドルを帳消しとする政府間協定を北朝鮮との間で結んだことと、ロシアがシベリア鉄道や天然ガスのパイプラインを朝鮮半島に延長する計画などの投資プロジェクトを持っていることを9月18日の「NHK NEWS WEB」が伝えていたことは既にブログに書いた。
北朝鮮は中国と9月25日(2012年)までに中国が北朝鮮の鉱業分野への投資を目的とした30億元(約370億円)規模の基金を設立することで合意している。(MSN産経)
さらに朝鮮の外資誘致窓口である合営投資委員会が中国の官営企業に対し、北朝鮮全地域の地下資源を探査できる独占権を与えることで8月に両者が合意したと9月25日に韓国の消息筋が伝えている。(時事ドットコム)
またロシアが9月25日までにロシア政府と世界食糧計画(WFP)の覚書に基づく北朝鮮向け人道支援の小麦粉4100とン超を海路で送っている。(MSN産経)
日本の経済的圧力が入り込む隙があるのだろうか。その隙がなければ、言葉の圧力の効き目は出てこない。
にも関わらず、相も変わらず圧力を口にしている判断能力の無さである。
一事が万事、菅無能と似た客観的判断能力や創造性を欠いた頭では満足な外交も内政も期待できない。まさに首相になったら、日本の大悲劇である。
9月26日、新総裁選出を受けて行った挨拶からも、客観的判断能力欠如や創造性欠如を見て取ることができる。《安倍氏のあいさつ要旨=自民総裁選》(時事ドットコム/2012/09/26-16:43)
記事紹介の結びの発言のみを取り上げて、検証してみる。
安倍晋三「政権奪還は私たちのためではない。自民党のためでもない。それは強い日本をつくる、豊かな日本をつくる、日本人がこの日本に生まれたことに幸せを感じる、そして、子どもたちが日本に生まれたことを誇りに持てる、そういう日本をつくっていくためだ。私も全力を尽くす」――
「日本人が日本に生まれたことを幸せと感じ、子供たちが誇りを持てる日本を作っていく」と、人よりも日本という国の形を主体に置き、それを最初に持ってきている。いわば、“初めに国ありき”となっていて、“初めに人ありき”とはなっていない。
国家主義者だから、当然と言えば当然だが、国を形づくる中身の日本人がしっかりしなくて、しっかりとした「誇りを持てる日本を作っていく」ことが果たして出来るのだろうか。
勿論、「誇りを持てる」か否かは政治家がつくる国の制度・国の形も影響するが、それでも政治家という人間の関与が初めにあるのであって、国の形が最初にあるのではなく、人間関与の結果であろう。
中身の人間自体を最初に問題にしなければならないということである。
最初からしてズレた客観的判断能力となっている。
中身は国民である。国民一人ひとりが自分自身に「誇り」を持つことができなくて、何がゆえに国に「誇りを持てる」だろうか。自分自身に「誇り」を持つことができない空疎な人間が国に「誇り」を持ち、自身の無い誇りを国の誇りを持ってきて埋め合わせて偽りの自己存在証明としたとき、国の誇りで自己の誇りを表現することになって、必然的に国の優越性の誇示に走りかねず、非常に危険である。
国の優越性を誇れば誇る程、自身の無い誇りを身代わりさせることができるからである。
だから空疎な人間程、愛国心だとか天皇だとかの言葉を振り回す。
何らかの才能を得る努力をしない人間が活躍する有名人の才能に大騒ぎすることを以って自らの活躍とするケースが多く見られるが、その存在を知っていること、詳しいことを以って自身の評価を高める栄光浴から、必然的にその有名人を必要以上に優越的存在とするようにである。
必要以上に優越的存在とすることによって、その才能に大騒ぎする自己自身の才能を正当化できるからである。
いわば、教育にしても何にしても、“初めに国ありき”ではなく、“初めに人ありき”でなければならない。
だが、安倍の国家観、教育観は全て“初めに国ありき”の国家至上主義となっている。
例え象徴と名がつこうと、天皇制を頭に頂いた国をタペストリーだ何だと最初に持ってきているところにも“初めに国ありき”の思想となっていて、創造性の欠如、客観的判断能力の欠如を如何なく表出している。
いくら天皇を中心に据えた国に重きを置いていたとしても、国の政治を担う首相、それ以下の政治家が無為・無策では国は形ばかりのものとなる。
戦前に於いても天皇が国を動かしていたのではなく、ましてや戦後の象徴天皇制に於いては天皇が国を動かすことができるわけではない。“初めに人ありき”で、国を動かす政治家一人ひとりが自らに誇りを持つことのできる見掛け倒しではない政治的才能を有しているかどうかが問題となる。
だが、そういったことに目を向ける視野はなく、中身の人間を問題としないハコモノの国の形にばかり目を向けている。
創造性の欠如、客観的判断能力の欠如という点で共通点を抱えているのである。菅無能に国を任せたのが日本の大悲劇であったように安倍晋三に国を任せたとしても、日本の大悲劇となる予感が限りなく高い。
安倍晋三は愛国心ということを頻繁に口にする。
愛国心は教えるものではなく、それぞれが自他に対する批判的精神を持った、誇ることができる程の自律性(自立性)を育み得たとき、誇りとするその自律性(自立性)自体がそれぞれの立場で国を支えることになって、結果的に国のために役立っていく。
このような役立ちこそが愛国心と言えるものであって、君が代を斉唱したり、日の丸に敬意の頭を下げることを以てして愛国心の程度を測ることができるわけではない。
安倍晋三は教育改革にも力を入れると広言しているが、天皇を頭に戴いた“初めに国ありき”の国家至上主義では満足な人間教育は期待できまい。