野田首相が9月26日(2012年)昼(日本時間27日未明)、ニューヨークの国連本部で一般討論演説を行った。テレビで聞いていて、なかなか格調高い、感動的な力強い言葉で、世界の姿のあるべき理想を訴える内容となっていた。
多分、多くの聞く者をして感動を与えたに違いない。
だが、世界の姿のあるべき理想を格調高い、感動的な言葉で描けば描く程、現実世界の在り様、現実政治の効用性との落差が生じて、学者が訴える“であるべき論”の色彩を濃くする。
例えば東日本大震災の教訓は「どんな自然災害にも負けない強靭な社会を築くための心得」であって、「未曽有の大震災と巨大津波がもたらした大自然からの警告は、文明の持続的なあり方自体を根源から問い直すものでもありました」と、哲学的とすら言うことのできる格調高い言葉となっているが、「どんな自然災害にも負けない強靭な社会」とは、いつ襲ってくるかは分からないが、自然災害が襲って来る前と襲ってきた場合でも、国民の生活の安心を日常的に保証して初めて可能とする社会の“強靭性”であって、そういった社会の構築は、勿論個人の負担もあり、負担を可能としたり、不可能としたりする現実も無視できないが、基本的な全体的大枠としては政府財政にかかっていて、その範囲内を否応もなしに制限としなければならないはずだ。
いわば無制限・無限大に政府のカネをかけることを不可能としている以上、「どんな自然災害にも負けない強靭な社会を築く」とは聞こえはいいが、政治家としては現実を率直に話さない、学者の“であるべき論”を展開したに過ぎないことになる。
また、「未曽有の大震災と巨大津波がもたらした大自然からの警告は、文明の持続的なあり方自体を根源から問い直すものでもありました」と東日本大震災の黙示的意味を格調高く哲学的に把えているが、被災地・被災者が真に望んでいることは「文明の持続的なあり方を問い直す」ことでも何でもなく、確実な一歩一歩の復興=生活の確実な原状回復を現実社会に刻んでいくことであるはずだ。
勿論、同じような自然災害に二度と襲われても、生活の安心を日常的に保証可能とする社会を望んでもいるだろうが、野田首相自身が「ひとたび大自然が猛威を振るえば、人間は、依然としてか弱く儚い存在でしかないことを我々は思い知りました」と言っているようにそういった理想的な社会は望むべくもないことを誰も、特に今回の災害に襲われた被災者は知っているはずだ。
この知識の反映として自然災害に対する物理的な危機管理が「防災」から「減災」の思想に軸足を移すことを余儀なくした。
だが、野田首相の「どんな自然災害にも負けない強靭な社会」は完璧な「防災」が可能とする社会でもあって、この点にも現実との乖離を窺うことができる。
演説の全てが学者の“であるべき論”だとは言わない。だが、学者の“であるべき論”となっている、もう一つ例をあげよう。
野田首相「人類という種が地球上に存続し、平和と繁栄を享受し続けるには、何が求められるのでしょうか。その答えは明確です。人類は、より賢くならなければならない。その一言に尽きます。
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この未知なる時代を生き抜いていくために、今試されているのは、知識や情報の量ではありません。人類が培ってきた数々の『叡智』の真価が問われていると私は考えます」――
だが、現実の政治は進歩と言える進歩を見せることができず、殆どの問題を原因療法ではなく、対処療法の弥縫策で乗り切り、それも叶わず、停滞、逡巡、後退、迂回、変質等々の限界を常に抱えた姿を曝している。
その結果の各種格差や差別、矛盾であろう。
先ず第一番に政治こそが「より賢くならなければならない」はずだが、単に高邁な、あるいは格調高く訴えた学者の“であるべき論”となっているだけだから、「より賢くならなければならない」足許の対象に気づきさえしない。
学者の“であるべき論”は領土問題で発言した件(くだり)からも見て取ることができる。
野田首相「人類は、『力』に頼る欲望だけを肥大化させてきたわけではありません。同時に、理性によって冷静に紛争を解決する術(すべ)も育み続けてきました。それが『法の支配』です。
平和を守り、国民の安全を保障すること、国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務であります。日本も、そのような責務を、国際法に則って、果たしてまいります。
一方、グローバル化が進む今、国際社会の直面する問題はますます複雑化し、国家間の関係が緊張する事態も生じています。こうした時代においてこそ、世界の平和と安定、そして繁栄の基礎となる『法の支配』を確立すべきです。『法の支配』は、紛争の予防と平和的解決を実現するとともに、安定した予見可能な社会の基盤として不可欠であり、より一層、強化されるべきです。
自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものではありません。国際法の更なる発展に努めるとともに、その実効性を担保する制度をより有効に活用することが重要です。未来の世代に、より平和で安定した国際社会を残すためにも、私は、「法の支配」の強化を強く訴えます」――
「国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務」であることは言を俟たない。
だが、この権利は日本だけが有している特権ではなく、他の国も有して、「当然の責務」としている普遍的権利である。
また、領土その他に対する「自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものでは」ないことも殊更言うまでもないことである。
だが、一国が「自国固有の領土だ」と主張している領土に対して第三国が「自国固有の領土」だと主張したとき、双方が「国の主権、そして領土、領海を守ることは国家としての当然の責務」とすることに対して、いわば「責務」と「責務」の衝突を前にして、日本政府が取る公式的な立場は機会あることに野田首相が言及し、この国連演説の後の記者会見でも繰返し発言しているものとなっている。
野田首相「尖閣諸島については歴史上も国際上も我が国固有の領土であることは、明々白々である。領有権の問題は存在しないというのが基本であるから、そこから後退をする妥協はあり得ない」
いわば「領有権の問題は存在しない」の一点張りで、自国の責務を押し通して、相手の「責務」を何事もなくかわすことができるのだろうか。
かわすことができるとしているなら、9月11日(2012年)に地権者側と契約書を取り交わした尖閣国有化前の8月末に山口外務副大臣に野田首相の親書を持たせて中国を訪問させ、国有化の説明を行ったり、様々なレベルで中国との意思疎通を図ったり、なぜしなければならなかっただろうか。
国連では、「自らの主義主張を一方的な力や威嚇を用いて実現しようとする試みは、国連憲章の基本的精神に合致せず、人類の叡智に反するもので、決して受け入れられるものではありません」と立派なことを言い、尖閣諸島に関して「領有権の問題は存在しない」と断固としたところを見せながら、中国に尖閣国有化の了解を取り付けるべく様々な働きかけを行なっていた。
一見格調高く耳に響きはするが、まさしくその多くが学者の“であるべき論”で覆われていたに過ぎなかったことの正体を否応もなしに露にした国連総会演説としか言いようがない。
藤村官房長官は尖閣諸島について9月27日の記者会見で記者から、「国際法を重視する立場から、島根県の竹島のように、尖閣諸島についても国際司法裁判所を活用する考えはないのか」と質問を受けたのに対して次のように発言している。
藤村官房長官「尖閣諸島は歴史的にも国際法上も疑いのない我が国固有の領土で、現に有効に支配している。この点に一片の疑いもなく、国際司法機関で争いをする必要性は全く感じない」(NHK NEWS WEB)
正式な形では誰も上陸させず、どのような施設の建造も許さずでは、単に手付かずの状態で置いておくというタテマエ上の領土の意味しかなく、真の意味で「現に有効に支配している」とは言えないはずであるにも関わらず、抜け抜けと「現に有効に支配している」と誤魔化しを言う。
国連総会で学者の“であるべき論”の御託を並べるよりも、「日本固有の領土」と言うなら、あるいは「領有権の問題は存在しない」と言うなら、周辺海域にイラクと同等の埋蔵が見込まれると言われている石油資源を開発し、財政再建や日本の経済等に役立てる、国益に利する方策を創造し、真の意味で有効な支配を証明すべきだろう。
そのためにも中国と同じテーブルに着き、真正面から向き合って、様々な証拠や文献を用いて歴史的に日本固有の領土であることを論破する使命を担っているはずだ。
「国民の生活が第一」小沢一郎代表が、「合意形成が難しいことは事実だが、日中両国が客観的に歴史的事実を検証して解決すべきだ」と言っているようにである。