――生徒の自殺を隠蔽して、不慮の事故と偽ろうとする、学校教育者にあるまじき卑劣な責任回避――
いじめについてブログ記事を書こうとすると、いつの似たことを書くことになる。
9月2日夜、兵庫県川西市で高2男子生徒が自宅で首を吊って自殺した。遺書はなかったという。
学校は先ず教師や同じクラスの生徒、自殺した生徒の親などからの聞き取り等を行なって、自殺の原因を探るべきだろう。学校という場でいじめを受けて自殺する児童・生徒が跡を絶たない状況にあるし、もしいじめが原因なら、学校教育に関係することとなって、学校は学校教育に於ける生徒管理の責任を負わなければならない。
生徒によるいじめが原因でなくても、担任教師の不当な扱いを受けて、怒りと絶望から自殺を選ぶといったことも、学校教育に於ける生徒管理の範疇に入る。
いわば学校は学校教育上の責任が自らにあるのかないのか、明らかにしなければならないし、そうである以上、調査の実施自体に学校は責任を負っていることになる。
《自殺高2、あだ名「ムシ」…いじめに相当と学校》(YOMIURI ONLINE/2012年9月15日14時39分)
高2男子の自殺の翌日の9月3日、校長等が自宅を訪問。
校長「学校生活に問題はなかった」
学校教育に於ける生徒管理に何ら問題はなかったと言っているが、発言した事実は詳細な調査の結果でなければならない。9月2日夜に自殺して、その翌日の何時頃か分からないが、自殺生徒の家庭を訪問。詳細な調査にかける時間がどれ程あったのだろうか。
9月3日校長等自宅訪問翌日の9月4日、葬儀が営まれた。
両親が同級生らが書いた追悼の手紙の中にいじめ行為があったことを窺わせる記述の存在に気づいた。学校は両親の連絡を受けて、アンケートや聞き取り調査を実施。
では、9月3日自宅訪問時の校長の「学校生活に問題はなかった」はどのような調査にも基づいた発言ではなかったことになる。根拠もなく口にした自分たちのみの事実に過ぎなかった。
自分たちのみの事実とは、そうすることが自分たちに都合がいい事実ということであろう。調査もせずに自分たちに都合が悪いことを言うはずはない。
さらに言うと、調査によって明らかになった自殺した生徒の事実を説明した言葉でもなかった。
ここに学校教育者としての責任感は一片足りとも窺うことはできない。
9月14日夜、アンケートや聞き取り調査を終え、結果を得たからだろう、両親に報告。記事は主語を「学校」としていて、校長が直接報告したのかどうかは分からない。
高校「複数の生徒が今春以降、男子生徒をあだ名で『ムシ』と呼び、体がぶつかりそうになった時に『ばい菌がつく』と言っていた。あだ名については同級生の半数が知っていた。
いじめに相当する。ただ、自殺と関連するかは判断できない」
同級生の半数が「虫」というあだ名を知っていながら、「学校生活に問題はなかった」と自分たちに都合のいい事実を述べる学校教育者としての責任感は見事である。
自殺生徒は「ムシ」と呼ばれ、「ばい菌がつく」と言われていた。いじめ側の生徒はからかい半分にバカにしていたと受け止めていたとしても、そのように表現される側の生徒が受けるべき人間としての扱いではなく、卑小な汚らしい虫という劣った存在としての扱いを受けていると感受していた場合、どれ程に傷ついていただろうか。
常日頃から、お前は人間ではない、虫だ、劣った存在だと心理的に強迫され、そこから逃れられなくなったとしてもあり得る話である。
実際にも自殺した生徒は夏頃から夜中に虫の幻覚に悩まされ、突然起き出して居もしない虫に怯えたりする情緒不安定に陥っていたと他の記事が伝えている。
学校教育者なら、あだ名からも読み取るべき情報はあるはずだが、何ら調査もせずに自分たちに都合のいい情報を並べ立てる責任感、責任回避意識からして、期待できない学校教育者の資質ということになる。
校長の責任回避の態度は以上のことだけではなかった。《兵庫 いじめ通報も事情聞かず》(NHK NEWS WEB/2012年9月16日 19時49分)
自殺3か月前の今年6月、同級生の1人が、男子生徒が机を教室の隅に勝手に移動させられるなどのいじめを受けていると学校に情報を寄せた。だが、高校は加害生徒からのみ事情を聞き、被害生徒から事情を聞かなかった。
高校「男子生徒本人からの申し出ではなかったので、心理的に追い詰めないようにという配慮から聞き取りをしなかった。机を移動させた生徒たちについては指導を行った」
先ず第一にいじめ情報提供がありながら、自宅訪問の校長が「学校生活に問題はなかった」と言うことができた責任感である。
尤も、担任から何ら報告がなかったとすることができるが、それでも担任から何ら聞き取り調査しなかった校長の学校教育者としての責任不履行は残る。
この責任不履行は自分の都合のいい事実のみを情報とする責任感からして、責任回避に立った責任不履行と言うことができるはずだ。
「男子生徒本人からの申し出ではなかったので、心理的に追い詰めないようにという配慮から聞き取りをしなかった」・・・・・
この教育的配慮は素晴らしい。さすが学校教育者だけのことはある。いじめを誰にも相談できずに悩みを一人で抱えるといった事例はこれまでも相当数あったし、誰にも相談できずに、逆に自分から自分を「心理的に追い詰め」、自殺に追い込まれた生徒も存在するし、学校教育者なら、そういった事例を学習していなければならない。
当然、悩みを自分一人で抱えるタイプの生徒に対しては「本人からの申し出」は期待不可能と見做して、学校の方からそれとなく聞き取る教育上の「配慮」こそが必要だったはずだ。
そのような「配慮」が「心理的に追い詰め」ることになるとしたら、校長や教師の学校教育者としての存在意義はどこにあるのだろうか。
加害生徒からのみの聞き取りとなり、被害生徒を聞き取りから排除することになったのは、そもそもからして調査の正確さを期すという態度、あるいは提供される情報を一方向のものではなく、双方向のものとして正確さを期すという態度がなかったからこそ可能とすることができた自己都合の「配慮」であって、このような「配慮」には、いじめではないとしたい心理が働いていたはずだ。
このことは加害生徒がいじめではなく、単なる悪ふざけだと申告して罪逃れを謀る場合もあるし、あるいはいじめだと認めても、往々にして加害者というものは限りなく罪を軽くすべく過少申告する傾向にあることも無視している加害生徒のみの聞き取りとなっていることも証明してあまりある心理であろう。
要するにいじめの問題が浮上することを恐れていた、あるいは「学校生活に問題はなかった」ことにしたい平穏無事を祈る思いに駆られていたからこその片一方だけの聞き取りであった。
その延長にあった9月3日自宅訪問時の校長の「学校生活に問題はなかった」であった。
校長の平穏無事だけを願う姿勢は次の記事からも証明できる。《校長“自殺は不慮の事故に”と打診》(NHK NEWS WEB/2012年9月17日 13時10分)
この記事には自殺した生徒が同級生に死んだ虫を食べるよう迫られたりしていたことも調査によって明らかになったと書いてある。
あくまでも虫としての扱い、劣った存在としての扱いを受けていた。
高2男子生徒が自殺した9月2日の翌日の9月3日。校長が男子生徒の両親に電話を入れた。
校長「第2、第3の自殺者が出ないように学年集会で説明する際には、自殺ではなく不慮の事故だったことにできないか」
両親への取材で判明した事実だという。
両親は拒否。結果、〈高校の緊急の学年集会では「みずから命を絶った」という表現で男子生徒の自殺が伝えられた〉――
学校の釈明。
学校「ほかの生徒への心理的な影響に配慮したためだった」
両親「今後同じことが繰り返されないよう、事実は事実として自殺だときちんと公表してほしいとの思いから打診を断った」
一人の生徒の自殺というショッキングな事件と生徒それぞれが真正面から向き合い、人間や人間関係について何かを学ぶことができたなら、その事実を明らかにすることは人間が成長していく上で必要な教育上の配慮となる。
あるいは自殺に至らしめた真相を追及することから何かを学ぶことができたなら、他者理解等の社会に生きる参考ともなるはずである。
だが、自殺を不慮の事故と偽る事実隠蔽に人間が成長していく上で必要などのような教育上の配慮があると言うのだろうか。
事実隠蔽を「第2、第3の自殺者が出ないように」するためだと口実を設けているが、一人の生徒の自殺という事実を真正に踏まえた上で学校教育者が自らが持つ人間教育に関わる能力のすべてを使って配慮すべき自殺防止であって、自殺を不慮の死と事実歪曲してまで、いわばウソまでついて行っていい自殺防止教育ではないはずである。
ウソの事実と向き合わせて、生徒たちが逞しく人間的に成長していくとでも考えているのだろうか。
平穏無事にその場を遣り過ごそうとする事勿れな姿が目につくばかりで、どこを探しても、学校教育者としての姿を窺うことができない。
学校教育者とは名ばかりで、実質的に学校教育者ではない学校教育者が学校教育を行なっている。
要するに学年集会で自殺だと告げた場合、自殺3か月前の今年6月、同級生の1人からいじめられているという情報提供が高校側にあり、被害生徒からは事情を聞かず、加害生徒からのみ事情を聞き、約半年後の9月2日、高2男子生徒が自殺という経緯を踏んでいる状況にある以上、当然、自殺といじめを結びつける噂が出てくることは完全には否定できないことになる。
いじめと自殺が結びつけられた場合の不都合は、それが事実と証明されたとき、校長以下の教師たちのいじめだけでは済まない責任を学校教育者として負わなければならないということであろう。
予想されるこのような責任履行を回避するためには生徒たちに死因の隠蔽が必要となった。隠蔽することによっていじめと自殺の関連性を何としても断ち切らなければならなかった。
このような企みが成功した場合の最大メリットは、責任回避と相互対応して保証される、学校の名声を傷つけないことをも含めて、学校教育責任者としての校長の経歴を傷つけずに遣り過すことができることに尽きる。
自殺の隠蔽、いじめの隠蔽、あるいは自殺といじめの関連性の曖昧化、否定、責任回避はすべて校長が学校の評判も相互関連する自らの経歴を傷つけたくない事勿れ主義、平穏無事を願う姿勢から発している教育上の配慮だということである。
こういった事実隠蔽体質、責任回避体質は多くの学校に見ることができる蔓延した現象であって、この高校だけが特別ではないことは誰の目にも明らかである。
自らの経歴を汚したくないばっかりに事実隠蔽と責任回避に走る学校教育者が学校の多くを支配し、児童・生徒の学校教育に携わっている。