7月6日コメントへの返信/安倍晋三が党首討論で言った「憲法に国の姿を書き込む」と言っていることの意味

2013-07-07 09:13:58 | Weblog



 次のようなコメントを頂いた。

 ご存知でしたか? (みいさん)
 2013-07-06 23:38:22

 「総理大臣が立憲主義からの離脱を表明しても問題にならない国@ビデオニュース・ドットコム
・・・
 9党党首による討論会が日本記者クラブで開かれ、 福島社民党党首からの「私は憲法は国家権力を縛るものだと思っています。立憲主義です。総理はこれに同意をされますか。もし同意をされるとすれば、自民党の憲法改正案はこれに則ったものでしょうか」との問いに、安倍首相は、「まず、立憲主義については、『憲法というのは権力を縛るものだ』と、確かにそういう側面があります。しかし、いわば全て権力を縛るものであるという考え方としては、王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方であってですね、今は民主主義の国家であります。その民主主義の国家である以上ですね、同時に、権力を縛るものであると同時に国の姿についてそれを書き込んでいくものなのだろうと私達は考えております」と答えたのだ。

 コメントとして返信を考えたが、ブログ記事に代えて返信することにした。

 みいさんへ。

 コメント有難うございます。あなたが言っている遣り取りがあったことは覚えています。憲法に「国の姿」を書き込んでも、書き込んだ「国の姿」を守るよう、国家権力を規制する(=縛る)立憲主義の原則に変わりはないはずです。

 現在の日本国憲法も、国の姿を書き込んであります。あくまでも国民主権(=国民主体)を基本とし、国民の自由と権利を保障した国の姿であって、国家を主体とした国の姿ではありません。断るまでもなく、国家を主体としていたなら、国民主権と相矛盾することになります。

 それが国家主体を思想とした憲法であるなら、いくら国民主権を謳っていようと、自由と権利の擁護を謳っていようと、国家主体をカモフラージュするための便宜的正義に置き換えられていることになるはずです。

 当然、安倍晋三が考えている「国の姿」が問題となります。国家主体の「国の姿」であって、国民主体の「国の姿」とはなっていません。

 ご存知かと思いますが、自民党憲法草案は戦後の国体護持の姿勢に立った「松本私案」に似ています。

 松本私案と自由民主党憲法草案と日本国憲法の基本的人権に関わる条文を列記しておきます。 

 松本国務相「憲法改正私案」

第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

第三十一条 日本臣民ハ前数条ニ掲ケタル外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナシ

 自民党憲法草案

第三章 国民の権利及び義務

(日本国民)
第十条 日本国民の要件は、法律で定める。

(基本的人権の享有)
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 日本国憲法

第三章 国民の権利及び義務

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 

 読んでお分かりのように松本私案は信教の自由を保障していますが、「安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ」と国家権力の側からの規制を行なっています。そのような文脈である以上、当然、その「安寧秩序」たるや国家権力の価値感が決める「安寧秩序」ということになって、「安寧秩序」に関わる国民の価値感は排除、もしくは無視される危険性を常に抱えることになります。

 いわば国家主体の「信教の自由」というわけです。

 自民党憲法草案も基本的人権を認めていますが、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」、あるいは「公益益及び公の秩序に反しない限り」と、やはり国家権力の側から規制を行なっています。この「公益及び公の秩序」にしても、国家権力の価値感一つで変えることができ、国家主体の基本的人権となっていると言うことができます。

 日本国憲法は自由と権利の濫用を戒め、「公共の福祉に反しない限り」と規制しています。この規制が国家主体の規制なのか、国民主体の規制なのかどうかです。

 「公共の福祉」の意味を『大辞林』(三省堂)から見てみます。

 【公共の福祉】「社会一般に共通する幸福や利益。個人の利益や権利に対立ないしは矛盾する場合があり、相互の調和が問題とされる」――

 戦前の日本は国家が強要して国民が全体的に受け入れて「天皇陛下のために・お国のために」を「社会一般に共通する幸福や利益」としましたが、個人の利益や権利を犠牲にした国民主体ではない、国家主体の「幸福や利益」となっていました。

 例え「公共の福祉」と「個人の利益や権利」が対立ないしは矛盾した場合には相互の調和は必要であっても、個人の利益と権利擁護の思想を常に背景とした調和であって、国家の利益と権利擁護を背景とした調和ではないはずです。

 また、「公共の福祉」と「個人の利益や権利」が対立ないしは矛盾した場合の相互の調和は国家権力の役目ではなく、司法を含めた社会の役割であるはずです。

 法令や社会の同意によって、それが「社会一般に共通する幸福や利益」となって認知されていくのであって、国家権力の関与を仕組みとはしていません。

 勿論、法律の制定は国が行いますが、その法律を国民が受け入れ、社会に根付くためには「公共の福祉」に適うか否か、「社会一般に共通する幸福や利益」となるのか否かの国民の同意をあくまでも必要とします。

 言ってみれば、「公共の福祉」とは国民主体の思想でなければならず、国家主体の思想を無縁としなければならないということです。

 当然、日本国憲法の国民の権利に関わる「公共の福祉に反しない限り」という規制は国家権力の側からの規制を意味しているのではなく、あくまでも国民主体に立った規制であって、そういう構造を取っている以上、国家権力を規制するという憲法の原則に則っていると見ることができます。

 だが、以上見てきたように自民党憲法草案は国家権力による国民に対する規制を忍ばせた国家主体の憲法草案となっている。

 みどりの風代表の谷岡郁子女史が党首討論で、「日本国憲法の前文は『日本国民』で始まっているが、自民党憲法草案の前文は『日本国』で始まっている」と指摘していましたが、前文からして国民主体ではなく、国家主体になっているということです。

 だから、「日本国は」に始まって、「国民統合の象徴である」と断っているものの、「天皇を戴(いただ)く国家であって」と、そのような国家を先に持ってきて、続いて「国民主権の下」と国民の在り様を後に置く国家主体とすることができるのです。

 安倍晋三の「国の姿」が国家主義者らしく国家主体の姿を取っている以上、国家の恣意的権力行使の規制を役割づける憲法の原則を破ることになります。

 以上、ミイさんのコメントに私なりに考えてみました。妥当性は判断してみてください。

 実は、《安倍晋三改憲思想と松本私案との近親性》と題したブログを書く予定でいましたが、そのままとなっていました。大体のことはここで書いたことになります。機会があったなら、いつになるか分かりませんが、日を改めて、書いてみたいと思います。

コメント (2)
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