安倍晋三の国家主体の国民主権を構造とした改憲思想と松本試案との近親性

2013-07-18 09:58:45 | 政治



 ――自民党草案の「国民主権」は国家の枠をはめた、国家主体の国民主権となっている――

 これまで戦後GHQに提出して拒否された松本国務相「憲法改正私案」や自民党「日本国憲法改正草案」、日本国憲法について、2013年7月7日記事―― 《7月6日コメントへの返信/安倍晋三が党首討論で言った「憲法に国の姿を書き込む」と言っていることの意味 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》、2013年4月10日記事――《国民の基本的人権を制約する意思が露わな自民党日本国憲法改正草案の危険性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》、2013年4月8日記事―― 《安倍晋三が「占領軍が作った憲法」だと言うなら、日本国民にとってそれが正解だった日本国憲法 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》、2013年4月9日記事―― 《日本維新の会党綱領の「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め」云々の憲法観の筋違いな責任転嫁 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》等で様々に比較してきたが、この記事を書くことによって重複する箇所も出てくるかもしれないし、以前書いていたことと認識が多少違う箇所も出てくるかもしれないが、今回は自民党の憲法草案と松本国務相「憲法改正私案」の近親性にテーマを絞って、その近親性を記憶にとどめておきたいがために、大したことは書けないが、書いてみたいと思う。

 先ず最初に自民党草案の「国民主権」が国家の枠をはめた、国家主体の国民主権となっていることを既にブログで取り上げた安倍発言から見てみる。

 2013年4月5日衆院予算委での細野豪志の質問に対する安倍晋三の答弁である。

 安倍晋三「先ずですね、勝手に私がですね、(笑って)あたかも自由や民主主義や基本的人権を否定しているが如くにですね、発言されるのは極めて迷惑な話でありまして、自民党案に於いても明確に(日本国憲法の三原則である)平和主義・民主主義、基本的人権、この基本的な考え方、いわば国民主権ですね、そうしたものは受け継いでいくということを予めですね、宣言をしているわけでございます。

 そこは誤解のないようにして頂きたいと思いますが、憲法制定過程に於ける、問題点についてですね、私は申し上げているわけでありまして、しかし問題点は決して小さなものではないということは申し上げておきたいと、思うわけであります。

 そして同時にですね、憲法って言うものについては、権力を持っている、ま、権力者側、に対してですね、かつては王権でありますが、王権に対して様々な制約を国民が課す、という、そういう存在でありました。

 しかし今ですね、自由や民主主義が定着していて、国民主権ということが明らかである中にあって、果たしてそれだけでどうかということなんですね。いわば、どういう国にしていくか、ということもやはり憲法には、これは込めていくべきなんだろうと、このように私は考えているわけであります」――

 憲法はかつては「王権に対して様々な制約を国民が課す」存在であったが、現在では「自由や民主主義が定着していて、国民主権ということが明らかである」と言っていることは、王権の時代と違って現在では三原則が定着しているから、国家権力の側の権力行使に間違いはない、国家の恣意的権力の行使はあり得ないことを前提としての発言となる。

 王権の時代どころか、長い歴史から見たら、すぐそこの戦前の時代に大日本帝国は国民の基本的人権と民主主義と平和主義を無視した権力の恣意的行使を恣(ほしいまま)にした。

 いわば安倍晋三は、基本的人権や平和主義、国民主権が定着しているからと、日本国憲法は勿論のこと、憲法というものが基本的原則としている国民の側からの国家の恣意的権力行使に対する制約を、「果たしてそれだけでどうかということなんですね」と言って、他と並立する一つの役割に貶め、そこに「どういう国にしていくか」と、当然、国家権力があるべきとする、具体的に言うと安倍晋三があるべきとする国家の形を並立させようと欲している。

 勿論、「どういう国にしていくか」、新たに国の姿を書き込んでも、その国の姿が国民の側からの国家の恣意的権力行使に対する制約という憲法が持つ基本的原則に縛られる構造であるなら問題はないが、発言の趣旨はあくまでも国家権力に対する制約と国家の姿を並立させたニュアンスとなっている。

 このことは7月3日日本記者クラブ9党党首討論での安倍晋三の発言からも証明できる。

 福島社民党党首「私は憲法は国家権力を縛るものだと思っています。立憲主義です。総理はこれに同意をされますか。もし同意をされるとすれば、自民党の憲法改正案はこれに則ったものでしょうか」

 安倍晋三「先ず、立憲主義については、『憲法というのは権力を縛るものだ』と、確かにそういう側面があります。しかし、いわば全て権力を縛るものであるという考え方としては、王権の時代、専制主義的な政府に対する憲法という考え方であってですね、今は民主主義の国家であります。その民主主義の国家である以上ですね、同時に、権力を縛るものであると同時に国の姿についてそれを書き込んでいくものなのだろうと私達は考えております」(読者指摘の文章からの採録)

 当たり前のことだが、憲法が国家の姿を描くことを原則の一つとして国民の側からの国家の恣意的権力行使に対する制約という憲法の基本的原則と並立させた場合、本来的に国家権力は国民を縛る方向のメカニズムを備えるゆえに、だからこそ、憲法で国家権力を「縛る」必要性が生じることになったのだが、国家権力が常に常に無害であるなら、そういった必要性は生じないわけで、特に安倍晋三にはそういった衝動を精神的メカにムズとしているゆえに、後者の制約を薄める危険性を抱えることになる。

 憲法が国家重視の姿を取ったとき、いくら国民主権を謳おうと、国家主体の国民主権を構造とすることになる。あるいは国家主体の枠をはめた国民主権となって、国家権力に対して国民主権は従の関係に置かれることになる。

 果たして「自民党日本国憲法改正草案」がそうなっているかどうか見なければならない。

 その前に2013年7月9日のTBSテレビ「NEWS23」の党首討論で、谷岡郁子みどりの風代表が「自民党日本国憲法改正草案」に対する国家主体の疑いを指摘した発言を取り上げてみる。

 谷岡郁子みどりの風代表「今の憲法議論で基本的なことを考えなければならない。『日本国民は』で始まる私たちの憲法。これは日本国民が憲法の制定をしている。この憲法の制定によって、国家という概念が初めて生まれる。従って、国民のための国家である。

 ところが自民党の今の案というのは『日本国家』で始まっている。つまり、この国民が制定者ではなくて、日本国という今までにはない概念がそこに入ってきてしまう。

 先進国、殆どが『何々国民は』という形でつくられている。そうでないのは、例えば『国が』という形でつくられているのは中華人民共和国の憲法です。やはりそういうところに近づけるような、そういう基本的な考え方、立憲主義というもの、ここにについての柱の建て方というものを非常に大きな問題だと思っています」――

 いわば日本国憲法は国民主体の国家の姿を描いているが、「自民党日本国憲法改正草案」は国家主体の国民の姿となっていないかという疑いを提示している。

 日本国憲法が『日本国民は』で始まっているのは国民が主人公だということであろう。だが、多くの国家権力者は、あるいは国家権力層に属する政治家は、国家が主人公だと思っている。

 次に国立国会図書館HPの《松本国務相「憲法改正私案」のページには「前文」を元々備えていなかったのか、記載されていないから、「自民党日本国憲法改正草案」の前文を見てみる。 

 「自民党日本国憲法改正草案」

前文

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。 

 前にブログに書いたことだが、「国民主権の下」と謳いながら、国民を主人公として位置づけているわけでもなく、国民主体としているわけでもなく、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家」だと、そのような国家を基本的な国の形として国民との関係性を上下で位置づけた文言となっている。

 なぜなら、「戴く」とは自身に対して上に位置させた関係性を言うからだ。天皇は国民統合の象徴として敬う関係にあるが、国民主権とする以上、憲法に国民を下に置いて上下で位置づけた関係性を規定していいはずはない。国民主権とはあくまでも国民を国家権力よりも上に位置づけた関係性としなければならない。

 そうでなければ、国民が国家権力を制約するという憲法の基本的原則は無効としなければならない。

 「戴く」という言葉によって、秘かに天皇の上位性を打ち出している。

 「前文」で既に「自民党日本国憲法改正草案」は国家主体の憲法であり、国民主体の憲法とはなっていなことを露呈している。

 だからこそ、日本国民が、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合」うのはいいが、それはあくまでも社会人としての社会形成の務め(=義務)であって、そのような行為を以って「国家を形成する」と、国家形成の義務付けにまで高めて、国の姿を優先させている。

 このことは戦前の日本国家が国民の行為を何事も「天皇陛下のために」あるいは「お国のために」等々、当時の国家形成の義務・国家的義務と結びつけていたことと本質的のところで変わらない。

 「天皇を戴(いただ)く国家」「国家を形成する」「国を成長させる」「国家を末永く子孫に継承する」等々、すべて国家の姿を優先させている。

 このことは現日本国憲法の前文と比較すれば、一目瞭然である。 

 日本国憲法 前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 

 「自民党日本国憲法改正草案」が様々に展開している国家形成を義務付けている国家主体の文言は日本国憲法前文には一言も存在しない。

 では、「自民党日本国憲法改正草案」と1946年1月4日作成の松本私案との近親性を今までもブログに書いてきたが、国家主体という観点からの近親性を記憶して貰うために改めて纏めてみる。

 松本私案は第七十五条削除と補足で終わっているが、国の姿を表わすことになるために主に天皇の役目と国民の基本的人権に関わる条文のみを取り上げて、「自民党日本国憲法改正草案」と対応する条文との比較を行なってみる。 

 松本国務相「憲法改正私案」(一月四日稿 松本丞治/国立国会図書館/日本国憲法の誕生) 

第三条 天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス

第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会、閉会及停会ヲ命ス
天皇ハ衆議院ノ解散ヲ命ス但シ同一事由ニ基キ重ネテ解散ヲ命スルコトヲ得ス

第八条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 但シ議院法ノ定ムル所ニ依リ帝国議会常置委員ノ諮詢(参考として意見を聞く。)ヲ経ヘシ

此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効カヲ失フコトヲ公布スヘシ

第九条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ行政ノ目的ヲ達スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス

第十一条 天皇ハ軍ヲ統帥ス
軍ノ編制及常備兵額ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第十二条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ戦ヲ宣シ和ヲ講ス
前項ノ場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ帝国議会ノ召集ヲ待ツコト能ハサル緊急ノ必要アルトキハ議院法ノ定ムル所ニ依リ帝国議会常置委員ノ諮詢ヲ経ルヲ以テ足ル此ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ報告シ其ノ承諾ヲ求ムヘシ

第十三条 天皇ハ諸般ノ条約ヲ締結ス但シ法律ヲ以テ定ムルヲ要スル事項ニ関ル条約又ハ国庫ニ重大ナル負担ヲ生スヘキ条約ヲ締結スルハ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ

前項但書ノ場合ニ於テ特ニ緊急ノ必要アルコト前条第二項ト同シキトキハ其ノ条規ニ依ル

第二十条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ役務ニ服スル義務ヲ有ス

第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

第三十一条 日本臣民ハ前数条ニ掲ケタル外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナシ 

 松本私案に於ける天皇の役目は大日本国憲法が定めた戦前の天皇の役割と殆ど変わらない。「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」絶対的存在と規定した日本国家の姿を取っている。

 「議院法ノ定ムル所ニ依リ帝国議会常置委員ノ諮詢ヲ経ヘ」ることさえすれば、「公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス 」ることさえ可能としている。

 この「公共の安全」が、その名の下に国民の抗議行動に対する規制・弾圧、あるいは基本的自由に関わる様々な活動に対する規制・弾圧の姿を取らない保証はない。

 天皇を「至尊ニシテ侵スヘカラス」絶対的存在とすることによって、当然、日本国民は天皇に対して遥か下に置かれた存在となり、国民主権など程遠い。

 勿論、「自民党日本国憲法改正草案」は天皇を絶対的存在とはしていないが、前文で、日本国家を「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」だと見做して、天皇を国民の上に置き、国民を天皇の下に置いた国家主体の姿を取っていることや、その他国民に国家形成の義務付けを担わせた国家主体の姿を取っていることが既に国家主体の枠をはめた国民主権を構造としている以上、「第一章 天皇 第一条」で、「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と謳った「主権の存する日本国民の総意に基づく」の「国民主権」は国家主体の枠をはめた国民主権でしかなく、そのような国民主権を基準として天皇を国家元首に位置づけていることを考えると、絶対的存在に擬したい衝動をそこにはめ込んでいると見なければならない。

 基本的人権の自由について先ず松本私案を見てみる。

第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

第三十一条 日本臣民ハ前数条ニ掲ケタル外凡テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナシ――

 松本私案は「信教の自由」の保障を「安寧秩序ヲ妨ケサル限ニ於テ」と条件を付けているが、この「安寧秩序」は国家権力側の意図する「安寧秩序」であって、国家権力の恣意的行使を制約するとする憲法の基本的精神を明らかに逸脱し、逆に国家権力の恣意的行使を可能とする、あまりに非民主的な国家主体優先・国民主体排除の条文となっている。

 いわば国民の「自由及権利」を国家権力が規制することができるものと見做している。

 第三十一条の「日本臣民ハ前数条ニ掲ケタル外凡(すべ)テ法律ニ依ルニ非スシテ其ノ自由及権利ヲ侵サルルコトナシ」にしても、「凡(すべ)テ法律ニ依ルニ非スシテ」と法律によらなければ、「自由及権利」は侵されることはない、いわば、法律によって侵される場合もあると国家権力による規制を謳っている。

 松本私案が民主国家を憲法の体裁としていない以上、その「法律」たるや、国家権力が国民統合に都合のいい法律を強制しない保証はない。

 次に「自民党日本国憲法改正草案」を見てみる。

 「第三章 国民の権利及び義務」

(国民の責務)

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

(人としての尊重等)

第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。――

 「自民党日本国憲法改正草案」が「前文」からして国民主体ではなく、国家主体の憲法を内容としている以上、いくら条文で民主主義を謳おうと、国民主権を謳おうと、国家主体の枠をはめた民主主義であり、国民主権であって、「憲法が国民に保障する自由及び権利」にしても、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」にしても、国家権力が意図する「公益及び公の秩序」の制約を受けることになる。あるいは国家権力が意図する「公益及び公の秩序」の範囲内にとどめられることになる。

 いわば、「公益及び公の秩序」が国家権力側が意図し、担うルールであるなら、憲法が原則とする国家の恣意的権力の行使を国民の側が制約するとする立憲主義の役割を反故にすることになる。

 当然、以下の条文が謳っている、「法の下の平等」の保障にしても、「思想及び良心の自由」の保障にしても、「信教の自由」の保障にしても、「表現の自由」の保障にしても、「居住、移転及び職業選択等の自由等」の保障にしても、「学問の自由」の保障にしても、その他諸々、「公益及び公の秩序に反してはならない」とい文言は直接書き込んではいないが、その文言通りの規制を国家権力側から受けることになる。

 松本私案と「自民党日本国憲法改正草案」のこれ程の近親性はないであろう。

 GHQのマッカーサーから非民主的だと激しく拒絶された松本私案である。その松本私案と「自民党日本国憲法改正草案」が近親性を持つ。

 安倍晋三やそれ以下の自民党政治家が戦前の日本を取り戻したい衝動に駆られているゆえに松本私案と近親性を担うことになった「自民党日本国憲法改正草案」だと言うことができる。

 安倍晋三が現日本国憲法を占領軍がつくった憲法だと忌避するのも、この近親性を持たせている国家主体の思想から日本国憲法が外れているからこそのところにあるはずだ。

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