下村博文、安倍晋三のお仲間らしく「人間力を判断する入試のあり方について議論したい」の非客観的合理性

2013-07-30 02:28:39 | 政治

 

 こんな記事がある。《文科相 人間力判断する入試を》NHK NEWS WEB/2013年7月25日 15時8分)

 記事題名から大体のことが分かる。

 文科相の下村博文が7月25日(2013年)、教育再生実行会議の有識者委員と共に東京・目黒区にある大学入試センターを視察した。

 目的は、政府の教育再生実行会議が今年6月から大学の入試改革などについて議論を進めていて、秋にも提言を取り纏めて安倍晋三に提出することになっているために大学入試改革の参考にするためだそうだ。

 まあ、時間潰しの役には立ったのだろう。

 下村博文(記者たちに)「現在でも、センター試験に各大学の論文試験などを組み合わせて、合否を判断する工夫が相当されていることがよく理解できた。学力一辺倒でない人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」――

 先ず「人間力」という言葉の意味だが、「はてなキーワード」には、「学力やスキルだけでは量ることのできない、人間としての総合的な魅力のことらしい」と書いてある。

 「はてなキーワード」にしても確実な説明はできない能力のことらしい。

 推察するに、単に知識があるとか、仕事の能力が優れているといったことではなく、人間的な感動を与えて他者を突き動かす力を持っていたなら、人間力を有することになるのではないだろうか。

 なかなかにそういった人間になることは難しいし、当然、数も少ないことになる。

 下村博文が言っていることは、現在は機械的に知識を問う試験ばかりではなく、論文で考える力を問うことを組み合わせた入試形式となっていて、合否判断が相当に工夫されている。だが、人間力を判断する入試とはなっていない。だから、「人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」ということなのだろう。

 要するに知識や考える力で試すだけではなく、人間力の点でも試す大学入試でなければ、今の時代、大学生としてふさわしい人材を選んだことにならないし、社会人として今の世の中に送り出すには十分な資格があるとは言えないと思っていて、人間力を判断する入試形式を各大学入学試験に採用していきたいと考えていることになる。

 だがである、知識や考える力を問う大学入試は高校生が保有しているだろうと予測している知識や考える力に対応した質問によって作成される。そうでなければ、入試は成り立たない。

 考える力を持たない高校生を集めて、ではこれから考える力を問う大学入試を実施しますとすることは不可能である。

 当然、人間力を問う入試にも言えることで、大学入試で人間力を問うには高校生がそれなりに人間力を備えていなければ、問いようがない。高校の3年間で人間力が簡単に身につくと思えないから、保育園・幼稚園の時代から小中高と日本の現在の教育が知識や考える力の植え付けだけではなく、人間力をも養い育てる教育となっていなければ、問う対象とすることはできない。

 当然、頭のいい下村博文は日本の教育が人間力をも育む教育となっていて、高校生が個人差はあっても、人間力をそれなりに備えていることを前提としていることになる。

 だとしたら、知識や考える力を問う大学入試が高校生が保有しているだろうと予測している知識や考える力に対応した質問によって作成されるというテストの原理から言っても、なぜ今まで人間力を問う入試(「人間力を判断する入試」)となっていなかったのだろうか。

 二つの理由が考えられる。一つは日本の教育が人間力を育む教育となっているが、これまでは大学生の資質として人間力は重視されていなかったために人間力を問う入試とはなっていなかった。

 この仮定にはちょっと無理がある。

 二つ目は、日本の教育が人間力を育む教育となっていないために入試が対応する必要性を持たなかった。

 後者だとすると、下村博文の前提自体が間違っていることになり、その合理的判断能力が疑われることになる。

 以前ブログに取り上げたが、下村博文は4月10日(2013年)の衆院予算委員会答弁でも、自身のブログの2012年7月30日記事でも、「日本青少年研究所」が毎年行なっている日本、米国、中国、韓国4カ国の中高生の意識調査を取り上げて、「自分はダメな人間と思う」日本の中高生は他の3カ国と比較して突出して多い、「よく疲れていると感じる」中高生も多数派を占めていることを訴え、「子供がダメなのではない。そのように多くの中高校生が『自分はダメだ』と思わせる日本社会が問題であり、子供達はその社会の鏡に過ぎない」と尤もらしげにに批判しているが、下村博文が描き出している日本の中高生の姿からは日本の教育が人間力を育む教育となっている様子はとてもとても見えてこない。

 にも関わらず、大学入試で、「学力一辺倒でない人間力を判断する入試のあり方について、熟議を重ねながら議論していきたい」と言っている。

 大阪商工会議所が 2012年12月4日発表の「在阪中小企業の上司・先輩に聞く!新入・若手社員に対する意識調査」によると、入社3年目までの若手社員が得意とする能力の1位に「規律性」、苦手分野の1位は「働きかけ力」を挙げたと、2012年12月4日付けの「毎日jp」記事が伝えていたが、「働きかけ力」と対比させた場合の「規律性」とは上の指示に忠実に従う受動性の性格傾向を言い、逆に「働きかけ力」は自分から周囲の人間に向けた他動性を言うはずである。

 得意能力の1位が受動性の姿であり、苦手分野の1位が他動性だという姿からは、両者が逆転した場合は見えてもくるだろうが、人間力を育む日本の教育の姿は見えてこない。

 下村博文が日本の教育行政を預かる身として先ず行うべきことは日本の教育を人間力をも育む土壌をも持たせ、大学入試が判断の対象とすることができる前提を作ることであろう。

 そうでなければ、テストだけで問う人間力ということになりかねない。人間力を持たない高校生がテストで人間力があると判断されて大学の門を潜っていく。

 イジメを苦にして自殺する生徒が出てから、生徒たちがイジメの目撃をアンケートを通して訴える。あるいは部活でチームが強くなるために、さらに試合に勝利するためにという口実で部活顧問から体罰が日常的に行われているのに対して、チームが強くなったり、試合に勝つためには体罰は必要だと容認する体罰文化に侵された生徒や保護者の姿からは人間力を窺うことはできない。

 重大ないじめ事件が起きたり、イジメ自殺が起きると、責任逃れに走り、伝えるべき情報を隠蔽する教師や教育委員たちの蔓延した姿からは人間力は見えてこない。子どもの姿は大人の姿に対応する。人間力を持たない大人が子どもに人間力を教え伝えることはできない。

 要するに下村博文は教育行政を国の立場で預かる身でありながら、客観的認識能力もなく体裁のいいことを言ったに過ぎない。

 そういった姿に果たして人間力を感じることができるだろうか。歴史認識は歴史家に任せるべきだと言いながら、自らの歴史認識を撒き散らすご都合主義の安倍晋三に人間力を感じることができるだろうか。人間力がないという点でも、両者はお仲間だと言うことができる。

 参考までに――

 2013年4月22日記事――《下村博文の、これでよく文科相を務めていられるなと思う検証精神なき認識能力 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》

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