2012年12月26日第2次安倍内閣発足と同時に内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に任命された甘利明経済再生担当相が12月2日、体調不良を訴えて検査入院し、12月5日、退院した。
甘利経済再生担当相は第2次安倍内閣による日本の環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)締結交渉への参加決定を受けてTPP担当国務大臣に就任している。いわば安倍内閣を担う重要閣僚に位置している。右翼の軍国主義者安倍晋三の信頼厚いキーマンだと評価する報道もある。
しかもTPP参加国の申し合わせは「年内妥結」を目標にしている。安倍晋三も参加国としてその目標を共有していたし、共有しなければならなかった。
2013年10月10日午前、「東南アジア諸国連合(ASEAN)プラス3(日中韓)」首脳会議後の同日午後の内外記者会見。
安倍晋三「TPPは、その大きな自由経済圏への第一歩。モノの取引だけではなく、サービス、投資、知的財産、そして環境など、幅広い分野で共通のルールをつくっていくこと。これこそが、21世紀の成長センターにふさわしい市場を実現する道である。
政治的な決断によって歩みを進め、アジア・太平洋にまたがる、新しい経済統合を実現する。その認識を首脳たちが共有し、年内妥結に向けて大きな流れをつくることができたと考えている」――
安倍晋三の指導を介してTPP交渉の場で「政治的な決断」を示し得る閣僚は甘利を措いて他には存在しないということになる。そうでなければ甘利明をTPP担当国務大臣に任命した意味を失い、自らの任命責任へと跳ね返ってくる。
2013年10月15日第185臨時国会所信表明演説。
安倍晋三「環太平洋連携協定(TPP)交渉では、日本は、今や中核的な役割を担っています。年内妥結に向けて、攻めるべきは攻め、守るべきは守り、アジア・太平洋の新たな経済秩序づくりに貢献してまいります」――
安倍晋三が言っている「日本は、今や中核的な役割を担っています」が事実なのか、自らの指導力の反映だと見せかけるハッタリなのかどうかは分からないが、安倍晋三がそうだとしている以上、そのような立場に応じた行動を取らなければならない国際的使命と共に、年内妥結という重大な時間的制約を受けた中での「政治的な決断」を必要とする場面であるなら、甘利を措いて他にはないと目してTPP担当国務大臣に任命した安倍晋三の責任も然ることながら、任命された甘利の責任と使命は何者にも代え難い重大性を帯びることになる。
このような重大な最終局面を迎えての体調不良であり、検査入院となった。
検査結果は早期の舌がんだと12月5日の記者会見で明らかにした。《甘利大臣 早期の舌がんで治療へ》(NHK NEWS WEB/2013年12月5日 19時18分)
甘利明「精密検査をした結果、早期の舌がんと判明した。医師の見立てでは、手術のために2週間の入院加療と、1、2週間の自宅療養で職務復帰できるということだった。
先に安倍総理大臣に大臣の辞任を申し出たが、安倍総理大臣からは『病気を克服し、引き続き国民に対する責務を果たしてほしい』と指示された。熟慮した結果、『今、私がなすべきことは、一刻も早く病を克服して、大臣の責務を引き続き果たしていくことである』と考え、本職にとどまりつつ治療に取り組むことにした」――
12月7日からシンガポールで開催のTPP協定閣僚会合には出席せず、内閣府の西村副大臣が代理として出席することを明らかにしたという。
前述したようにTPP交渉妥結へ持っていく政治的決断を可能とする閣僚は甘利を措いて他にはないと目されていたはずのキーマンである。そのようなキーマンであるにも関わらず、安倍晋三が大臣辞任を慰留した上、治療専念を指示し、尚且つ12月7日からのTPP協定閣僚会合に西村内閣府副大臣に代理出席を命じたことを奇異に感じた。
安倍晋三はTPP年内妥結の国益を――、別の言い方をするなら、経済面に於ける日本の命運を甘利明の双肩に担わせたはずだ。それをいとも簡単に両肩から外して、西村副大臣に担わせた。最初から甘利大臣と一緒に交渉に携わってきているとしても、交渉の本命役ではない。
安倍晋三は右翼という点で安倍晋三と同類の元駐タイ大使岡崎久彦との共著『この国を守る決意』に次のような記述があるという。
安倍晋三 「(国を)命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。その人の歩みを顕彰することを国家が放棄したら、誰が国のために汗や血を流すかということです」――
安倍晋三は甘利明が舌がん治療のために大臣辞任を申し出たとき、なぜこの信念の言葉を甘利に向けて発しなかったのだろうか。
安倍晋三「甘利さん、あなたはTPP交渉年内妥結の国益、日本の命運を担っているのです。命を投げ打ってでも国を守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません。治療専念よりも、命を投げ打つ覚悟で7日からのシンガポールでの閣僚会合に出席すべきです。
もしそのことで実際に命を失うことがあったなら、あなたの歩みを日本国家は顕彰することを約束するし、国民もきっと顕彰するはずです」・・・・
「命を投げ打ってでも」という言葉の意味は死という物理性を最終局面とする。いわば「死を以って国を守ろうとする人がいない限り」という意味となる。
だが、甘利明に対しては自らが信念としている言葉を発しなかった。辞任の申し出を慰留し、治療に専念するよう指示。TPP閣僚会合出席を免除、西村副大臣をピンチヒッターに立てた。
安倍晋三の信念と現実場面でのその非具体化との整合性の不一致、有言不実行は意味をなさないカラッポの信念だからというわけではあるまい。上記発言の趣旨から読み取ることができる意味は靖国神社に眠る戦死者を見本に国に対する命の投げ打ちを国家と国民との関係に於ける国家を成り立たせるための国民の理想像としているということであって、そのような考えを信念としているということであろう。
だが、その信念は甘利に対しては実践を求めることはしなかった。
まさか、「命を投げ打ってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」とは戦争での死という生命の物理性と武器を取って戦うという物理性の面からのみ言っているわけではあるまい。政治家としての責任遂行という精神性と責任遂行のためには死をも覚悟するという精神性をも含めた最終局面に於ける死の物理性を兼ねた行為を指しているはずだ。
甘利に実践を求めなかった考え得る理由は「命を投げ打ってでも」の信念が国家と国民との関係に於ける国家を成り立たせるための国民の理想像としている以上、甘利を国民の位置に置かずに国家の指導者の一人として国家の側に置いているからとする以外に考えることはできない。
つまり命を投げ打つ犠牲――無償の捨身行為は国家を成り立たせるために国民に求める理想像であって、国家の指導者はその理想像を国民に対して求める側に所属しているために、その指導者の一人である甘利には求めなかった。
国民の利益よりも国家の利益を優先させる国家主義者である安倍晋三からしたら、これ以上ない整合性ある態度と言うことができる。