仲井真沖縄県知事が12月27日、政府提出の普天間基地移設先辺野古沖埋め立て申請を、自身の県知事選公約、「県外移設」を裏切って承認した。
そのくせ、「県外移設」の主張は捨てないと言う。
政府にしたら、埋め立て承認を獲ち取ったなら、最早県知事の主張などどうてもいい。埋め立てに対する反対運動を如何に排除して埋め立てを進め、如何に基地を建設して移設にまで持っていくかにかかっているからだ。
要するに仲井真知事は県知事選での「県外移設」の公約に破綻はないことを見せかけるポーズを取ったに過ぎない。
仲井真知事は埋め立て申請承認の理由の一つに知事が政府に要請した普天間基地5年以内運用停止に対して安倍晋三がその取組を確約したことを挙げているが、米側は代替基地の完成次第だとしている。新しい家が用意できなければ、引っ越しはできないというわけである。
日米にできることは普天間基地で行われている訓練の一部本土への移転ぐらいのものだろうが、部隊の機動的一体運用とかが障害となって、その場凌ぎの危険性除去で推移し、辺野古完成まで根本的解決とはならないはずだ。
自民党から民主党に政権交代後の最初の民主党首相鳩山由紀夫は県外移設を掲げて奔走したが、迷走の末、県内辺野古沖に日米合意を果たした。
理由は鳩山由紀夫の説明によると、外務省が県内と決めていて、積極的には県外で動かなかったこと、そして誰が見ても明らかな理由は本土の県知事が自身の自治体内への移設を誰も引き受けなかったことを挙げることができる。
大阪府知事時代の橋本徹は最初は大阪で引き受けるような勇ましいことを言っていたが、自身の言葉に対する責任を投げ捨てて最後には逃亡を図った。
民主党政権下の2009年11月30日。
橋下徹「あくまで個人的な意見だが、政府から正式に(大阪で引き受けてくれないかという)話があれば、基本的に(議論を)受け入れる方向で検討していきたい」
6日後の12月6日の近鉄花園ラグビー場(東大阪市)、ジャパンラグビートップリーグ公式戦。
橋下徹(観客に向かって)「ラグビー精神で一番好きなのが、『One For All All For One』。1人はみんなのために、みんなは1人のためにとの思いで、やっていたが、『沖縄は日本のために 日本は沖縄のために』。沖縄が孤立している。全国で沖縄の基地問題を考えましょう」
たった6日の間に大阪という一自治体を移設対象とした受け入れ姿勢から「全国」を移設対象とした受け入れ姿勢へと後退させている。
この舌の根が翌日の12月7日、1日で乾くことになる。
橋下徹「(防衛政策は)国の権限。僕が動くことではない。府として具体的な検討や国への提案を行う考えはない」――
鳩山由紀夫は2010年5月27日、「沖縄の負担を分かち合う」ための全国知事会議を要請した。だが、4割近い18知事が欠席。基地負担を要請されることは分かっていたからだろう。
尤も出席したからといって、進んで基地引受けを申し出た知事は一人としていなかった。橋下徹だけが理解を示した。
橋下徹「基地を負担してないので真っ先に汗をかかないといけない。できる限りのことはしたい」――
だが、既に触れたように示したのは理解だけで、行動で以って示すことはなかった。
橋下徹も含めて最終的に日本国土の7%しかない沖縄の土地に米軍基地が日本全体の70%も存在するアンバランスな事実を不公平な差別と考える知事は一人として存在しなかったことになる。
このような差別は過剰過ぎる沖縄の基地負担を何とも思わない、あるいは何とも感じない思考構造を基本としているはずだ。
また、この傾向は自治体の長や中央の政治家のみの思考ではなく、日本人一般の傾向としてあることは世論調査を見れが簡単に理解できる。
2013年12月月14日、15日実施の「朝日新聞」沖縄県民世論調査。
「仲井真知事は埋め立て申請を承認すべきか」
「承認すべき」22%
「承認するべきでない」64%
「辺野古移設について」
「賛成」22%
「反対」66%
2013年12月14、15日実施の「産経新聞社とFNN」全国合同世論調査。
「辺野古移設について」
「支持する」52・1%
「支持しない」36・1%
沖縄県民と全国民とでは逆転に近い形を取っている。沖縄米軍基地集中を差別とは思わない日本人が多数を占めていることを物語る。
尤も口では沖縄集中を同情することもあるだろう。要するに同情だけである。
そのくせ日本の安全保障を言い募る。無意識下に沖縄の基地負担を予定調和とした日本の安全保障云々である。
なぜこのような沖縄差別――差別の思考構造が存在するのだろうか。単に新たに基地を持つことになる損得の利害計算からの差別なのだろうか。
日本人は元々の純粋な日本人ではなかった沖縄人に対して元々の日本人ではないことを理由とした差別感情を持っていた。この差別感情が反映した沖縄の過剰な基地負担を何とも感じない、日本人の思考構造ということはないだろうか。
2010年12月20日の当ブログ記事――《沖縄、歴代政府の基地問題に関わる不作為な“甘受”を記憶すべし - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたことだが、日本人の精神の底に巣食っている沖縄人に対する差別感情を振返ってみる。
≪邊境論 これで、あんたたちと同じ≫(朝日新聞夕刊/1999年5月16日)
沖縄出身の女性の戦争中の内地での体験記である。(内地の)〈奥さんはどこで情報を集めたのか、サイパン島の、住民を巻き込んだ悲惨な戦闘の模様を、こと細かに話した。
最後に何気なく言った。
「玉砕したのは、殆ど沖縄の人だったんですって。内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」〉――
「邊境論」の「邊境」とは地理的にも人間存在的にも日本の「邊境」に置かれているという意味であろう。生き死にも「内地」という中央ではなく、「邊境」に置いていたから、「内地人の犠牲が少なかったのは、せめてもの救いだったんですって」と言うことができる。
これは一人内地の奥さんの問題ではなく、多くの日本人の一般的な差別となっているから、間接話法を使うことになり、何ら否定していないことによって奥さん自身もその差別を受け入れることができる精神構造をしていて、他の多くの日本人に同調する形を取ったことになる。
いわば奥さん自身も沖縄差別を抱えていた。少なくとも沖縄差別の素地を前々から根付かせていて、サイパン島の玉砕が日本で報じられたのをキッカケにその素地に沖縄差別を気づかないままに芽生えさせた。
「これで、あんたたちと同じ」という記事題名の由来は前出のブログにも書いたが、本土から沖縄に帰郷したその女性が沖縄風の名前をヤマト風に改姓改名して、「これで、あんたたち(本土)とおなじでしょ・・・・」と内地の日本人と同等の立場に立てたとしたときの述懐に基づいている。
だが、現実は名前だけが対等となる表面上の平等に過ぎなかった。明治末期から大正時代にかけて皇民化教育や同化政策を背景に沖縄独特の姓名を本土風に改める改姓・改名運動が起きたというが、日本風に改めさせる本質的理由は当時の日本政府自体が沖縄人を沖縄人として日本人と対等の人格と見做すことはせず、日本人よりも一段低い存在とする差別の価値観で把えていたために沖縄人としての存在性を隠して日本人としての存在性を装わせ、日本人と対等とする歪んだ支配意識に囚われていたからだろう。
このような支配の構図で既に精神に根付いている差別感情を払拭できはしない。支配自体が差別を構造的に内包しているからだ。支配と縦続が差別という形で執行される。
戦前と戦後にかけて朝鮮人差別が激しかった頃、朝鮮人の多くは日本風の姓名を名乗って「通名」とした。だが、通名によって差別がなくなったわけではない。噂や口コミ、あるいは就職面接時の住民票や戸籍謄本の提出で通名であることが露見すると、様々な差別を受けることになった。
朝鮮人は長いこと日本人よりも一段も二段も低い民族として植民地支配のみならず、精神面で日本人の支配をより多く受け、多くの朝鮮人が差別に苦しめられてきた。
この差別は現在も完全にはなくなったわけではない。このことはインターネット上での有名人の在日探りの跡を絶たない蔓延が証明している。有名人の名前と半文字間隔を置いた「在日」という検索文字を見かけない日はないくらいである。
ルーツを探って、在日と確かめて、なる程なと頷く、民族の出自でその人間の価値を定めて一段低い存在に貶める、差別と気づかない差別の意識は自らの人間としての劣りの証明以外の何ものでもない。
日本人の沖縄人差別が日本の戦後の高度経済成長期も生きついでいたことを1年以上も前のテレビ放送で知った。
NHKETV特集『テレビが見つめた沖縄 アーカイブ映像』
2012年5月20日に「沖縄復帰40周年に当たってテレビカメラに残された沖縄を振り返える」と謳って放送されたもので、その中に収められていた1969年放送の『現代の映像 沖縄と本土との間 ~集団就職の記録~』に沖縄人差別が描かれていた。
那覇の中学校を卒業し、本土の紡績工場に集団就職した11人の少女を追ったドキュメントである。
那覇港を離れる大型客船、乗客767人、その内634人が沖縄から本土に集団就職する少年少女たちで、そのうちの11人少女の生活を追跡している。
紡績工場では沖縄の少女たちと同世代の本土の少女たちとの交流が始まる。
沖縄の少女1(インタビューを受けて)「言葉、英語使ってるんじゃないですか(って聞く)。そんな原始的な考え方で質問している人たちが一杯いるんじゃないかと思いますねえ。
それだけ、日本、本土各地で野蛮人扱いしているみたいで、腹が立って仕方がないんです」
沖縄の少女2「風呂に入るのか、裸足(ハダシ)で歩くのかと聞かれた」――
差別意識は優越意識を背景として生じる。当然そこには沖縄の少女たちを自分たちの下に置く精神的な支配意識を弱いながらも漂わせていることになる。
だが、支配の行動は精神的な支配意識から発動される。ただ単に精神的な支配意識で収まっているだけの話である。
1972年制作のドキュメンタリー『そして彼女は?』
〈300円を手に一人の少女がはるばるここにやってきたのは去年の春。本土に渡った沖縄の若者が違和感を持ち、自分の居場所を探す姿を見つめた番組〉だと謳っていた。
仲松清子。農業に憧れ、千葉県の養鶏農家で働きながら、農業研修所に通う少女。しかし7カ月の生活後、彼女は失踪してしまう。
千葉を離れてから住所と職場を7回変えて2カ月前に沖縄に戻った彼女の家を訪ねる。
番組関係者の男性「農業に見切りをつけてやめたの?」
少女「いえ、私の心の中にある農業は違うの。楽観的で、私自身の生き方かもしれないけれども、農業というのは朝目を覚ましたときに小鳥が鳴いていて、それで牛が鳴いていて、それで朝起きたときに缶ジュースを飲むのじゃなくて、目の前に下がっているトマトをもぎって食べるの。
そういうのが農業っていう感じ」
番組関係者の男性「結局、千葉へ行って、あそこをやめて、良かった、悪かった?」
少女「良かった悪かったと言うよりも、あそこにいるとき、自分の心の中に何かしらないけど、モヤモヤしたものが出てきたから、収まりがつかなかったから、何か求めてと言ったらカッコ良いけど、そうじゃなくて、耐えられなくて逃げ出したわけ。とっても寂しんだよね。寂しいと言うよりかさ・・・・」
(屈託なげにハキハキした口調で明るく話す。)
彼女は沖縄に旅行で来た男性と結婚、夫のふるさとの京都府宇治市に暮らして35年。中川姓に変わっている。NHKのスタッフが訪ねて、その後をインタビューする。
それまでの35年の結婚生活で忘れられない夫の言葉がある。
女性解説「『奥さんは本土の人の子を生んだから、沖縄に帰ったら、手柄になるだろう』。長男が生まれたとき、夫が友人から言われ、そのまま清子さんに伝えた言葉」
中川清子「二人目の子どもにオッパイを飲ませている時です」
女性解説「夫はそうなんだと思い、そのまま妻に伝えた」
中川清子「私には分からないですね。ハイ、家で。普通に台所で、お茶を飲んでいた時に。
あの人はちょっとお酒を飲んでいましたしね。『俺、聞いたんだけどなーあ』って。『何?』って言ったら、そう言うんですよ。
あの、民宿なんかでも、ここはないちんく(?聞き取れない。内地〈=本土〉の人間が座る場所?)ここはうちなんちゅうく(うちなんちゅう=沖縄人が座る場所?)グループというみたいに分かれて、飲まわれるんですよね、お酒って。同じ所に泊まっても。
で、その内地の人達だけ集まるっていうグループで、『あんたんとこのおかみさん、多分、沖縄に帰ったら、手柄やで』と言って。
で、うちの人も、そうなんだ、とそのまま私に伝えてくれたんですよ。
『あんた、その時何で言わなかった?(左手の指を右手で一本一本折り曲げて)こんなに元気で、働き者で、こんな、可愛い嫁さん貰って』
『俺はそれは手柄やけど、うちの奴を貰ったっていうのはあまり意識ないなあ』
『何で、そんとき言わなかった?』って怒ったんですけど、『何でお前はそのことを素直に、俺が手柄なのが、お前を嫁に貰ったことではなくて、うちなんちゅう(沖縄人)を貰ったっていうことを、こんなにちゃんと言っているのに、何でお前は分からへんのや』
その辺でもう、全然思いが違ってしまって、あ、この人とは通じない言葉があるんだなあと思って、日本語が通じないんですよ。思いと言うか、価値観と言うか、通じないのだなあっていうのがあって、ああ、何か寂しいなあって思いがあって――」
現在、夫の寝たきりの母親の介護に生き甲斐を見出しているという。
沖縄では本土の日本人の男性と結婚したことが沖縄女性の手柄となると価値づける本土の日本人の価値観は沖縄女性よりも遥かに日本人男性を上に置いた優越的差別観から出ているはずだ。
だから、男女対等の結婚ではなく、貰ってやったという感覚が出てくる。
しかも伝統としてあった差別観であった。個人的存在性を見ずに沖縄人という民族的存在性を基準として価値づけた一種の人種差別を日本人は伝統としていた。
この差別という人間存在を蔑ろにする日本人の沖縄人に対する精神性が現在も無意識下に生きづいていて、日本国土の7%の土地しかない狭い沖縄に米軍基地が日本全体の70%も集中していることに何とも思わない、ある意味当たり前としていて差別だと思わない差別的予定調和をつくり出しているように思えてならない。
そうとでも考えないと、沖縄一極集中の米軍基地偏在に納得のいく答を見い出すことができない。
沖縄が持つ“地理的優位性”のみを理由としたのでは7%の沖縄に対する70%の米軍基地は到底理解し難い。