12月22日「たかじんのそこまで言って委員会」の日本人の礼儀正しさは日本人固有の全体的資質なのか

2013-12-23 09:58:37 | 政治


  
 番組は「2013年この国に生まれてよかったSP」と大々的に銘打っていた。

 司会は櫻井よしこ、辛坊治郎、山本浩之の3人。

 パネラーとしての出演者は、女優の山口もえ、俳優の津川雅彦、落語家の桂ざこば、評論家の加藤清隆、長谷川幸洋、宮崎哲弥、元皇族だとかの竹田恒泰、台湾出身の日本国籍の評論家だという金美齢の面々。

 番組冒頭で番組元副委員長の辛坊治郎が小型ヨットで太平洋横断に挑戦、遭難して海上自衛隊の水上飛行艇に救助されて、救助後の記者会見で発言した「この国に生まれてよかった」という言葉を取り上げた上で、「日本人の団結力」、「日本人の底力」、「日本人の礼儀正しさ」、「日本の国際貢献」、『日本の食文化」、「日本の皇室」をテーマに今年2013年を振り返り、誰もがこの国に生まれてよかったと思える感動のエピソードの数々を紹介して、「今一つこの国を見つめ直す」ことを狙いとした「大感動の90分!!」だと宣伝していた。

 辛坊が遭難後の記者会見で喋った言葉は、「僕は本当にね、ああ、この素晴らしい国に生まれた。これ程までにうれしかったことはない」(MSN産経)である。

 「この国に生まれてよかった」ということになると、「この国に生まれなかったなら、よくなかった」という意味を含むことになって、日本以外の国に対する差別語となるはずだ。

 尤も番組を通してパネラーたちは日本人の素晴らしさを論ずる関係からだろう、日本人優越意識に囚われ、撒き散らしていた。だが、そういった意識に囚われ、撒き散らすこと自体が合理性を備えた客観的判断能力の欠如を示していることになる。

 辛坊治郎の遭難については2013年6月23日当ブログ記事――《海難事故で救助された辛坊治郎の「ああ、この素晴らしい国に生まれた」の自身の幸福に対する祝福 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。参考までに。

 この記事では「日本人の礼儀正しさ」を取り上げてみる。

 男性解説者「武器のない戦争と言われるスポーツ・サッカー。世界では荒くれ者のサポーターがときには殺人を起こす程だ。だが、日本人は違う。例えば昨年のロンドン・オリンピック、韓国との3位決定戦、勝利した韓国の選手が政治的ボードを掲げる無礼を行う中、負けて悔しいはずの日本人サポーターたちは試合後のスタンドを黙々と掃除をしていた。

 日本人の礼儀正しさはいつも世界を驚かす。それは時に反日感情に凝り固まった人達の心さえ溶かしてしまう。

 10月、19歳以下で行われたアジア選手権予選。日本人の若きイレブンは中国でマレーシアとの一戦に臨んだスタンドの観客は僅か100人。その殆どは日本の敗戦を願う中国人サポーターたち。

 日本が次々とゴールを奪うたびに観客は更に減っていった。5対1。日本の勝利。このとき、日本の若き選手たちが起こした行動に中国人サポーターたちは驚いた。わずか10人程しか残っていない中国人サポーターに向かって全員で深々とお辞儀をしたのだ。

 誰に見せるのでもなく、相手が喜ぶのかも分からない。

 しかし試合が終われば、どんな状況でも当然のように相手や観客に礼を尽くす若きイレブンは今も日本人の中に武士道精神が生きづくことを世界に伝えてくれた。現代のサムライ」

 大変な持ち上げようである。津川雅彦が満足顔で頷いていた。

 日本人のサッカーサポーターたちの試合後のゴミ拾いは有名である。だが、あの広い観客席全部を清掃するわけではあるまい。サポーターが陣取った観客席に限っての清掃であろう。

 だとしたら、ゴミを捨てなければ拾う必要は生じない。捨てないことが第一義的な肝要事項であって、拾うことが第一義的な肝要事項ではない。

 また、もしサッカーのサポーターに限った日本人のゴミ拾いで、プロ野球のファンは行わないゴミ拾いなら、日本人に共通した礼儀正しさではなく、サッカーのサポーターに限った慣習からの礼儀正しさということになって、彼らにしても他の場所でのゴミ拾いという礼儀正しさにつなげていく保証はないことになる。

 ゴミ捨ての殆どは匿名性を利用して行われる。いわば殆どの場合、匿名性が条件となる。人が見ているところではゴミ捨ては行わない。人が見ていた場合でも、その人が自分とは知り合いではなく、その人にとって自分はどこの誰とも分からないアカの他人という匿名性がなければ、ゴミ捨ては行わない。

 多くの場合、捨てた物が隠れる場所にゴミ捨ては行われる。雑草が丈高く生い茂った場所とか雑木林とか、道路であっても、信号近くの中央分離帯の植え込みがある場所とかである。これも捨てたゴミが隠れることによって、見かけ上は捨てた者は存在しないことになる匿名性の利用に他ならない。

 登山家の野口健がボランティアを募って(学生を中心に1000人も集まったという)集団で定期的に行っている富士山のゴミ拾いは広く知られているが、彼のHPに次のような記述がある。

 野口健はエベレストの清掃、富士山は女優の若村麻由美担当で同時に清掃を行ったらしい。〈2008年4月19日、三年目となるエベレスト富士山同時清掃登山が無事に終了しました。この日は富士山側は女優の若村麻由美さんが隊長となり、約160人の参加者とともに約2トンものゴミを回収しました。清掃には中国やネパールからの留学生も参加。清掃には中国やネパールからの留学生も参加。清掃終了後は、エベレストにいる野口とテレビ電話による衛星中継が行われました。 〉――

 この清掃はサッカーの日本人サポーターが観客席全体ではない、自分たちが陣取った一定の場所でのゴミ拾いのように富士山の全体を対象としたものではなく、一定の一帯を対象としたゴミ拾いであろう。

 だが、約2トンものゴミを回収した。例えサッカーの日本人サポーターたちや冨士山のボランティアたちのゴミ拾いが日本人の礼儀正しさから出た行為であっても、一方に於いて、誰も見ていないことによる自身の匿名状況をいいことに、あるいはどこの誰とも知れないことがつくり出す自身の匿名状態を利用してゴミを捨てる“日本人の礼儀知らず”が存在するのである。

 日本人サッカーサポーたちのゴミ拾いが心の底から発している自発的な礼儀行為であり、他の場所でも発揮されている行為であっても、そのこと一つを取って日本人全体の礼儀正しさだ、「日本人の中に武士道精神が生きづ」いているなどと解釈するのはテレビという媒体を使った情報伝達者としての資格はなく、客観的判断能力を全く欠いている過剰な拡大解釈と言わざるを得ない。

 たった10人しか残っていなかった中国人サポーターたちに向かって試合後深々と頭を下げたこともそうするものだとしている慣習からの集団的な儀礼的行為ということもあり得る。

 最近は高校野球をテレビ観戦しないから分からないが、以前は選手はバッターボックスに入るとき帽子をとって軽く頭を下げるのが選手の礼儀であり、それを以て高校生らしさ、若者らしさを表す象徴の一つとなっていた。

 だが、プロに入ると、中には1や2人はいるかもしれないが、殆どは帽子を取らなかった。いわばバッターボックスに入るときの軽い脱帽は高校球児に限った、あるいは高校球児でいる間に限った礼儀正しさに過ぎなかったのだから、人間として身につけた礼儀ではなく、高校球児の慣習として行っていた礼儀正しさということになる。

 酷な言い方をすると、高校球児らしく見せるための礼儀と言うこともできる。

 番組はここでパネラーたちに質問する。「あなたは日本人の礼儀正しさについてどう思いますか」

 山口もえ「“美徳”」

 日本人全体の資質としてある美徳だということなのだろう。

 竹田恒泰「衣食足りずとも、礼節を知る」

 つまり、衣食の過不足に関係しない、どのような状況下でも発揮される日本人固有の礼節だとの意味であるはずだ。

 金美齢「非礼な者もいる」

 いわば日本人固有の資質ではないと言っている。

 桂ざこば「あったり前」

 つまり常に発揮される日本人の礼儀正しさであり、日本人全体の資質だとしている。このような考えを頭から信じることになると、客観的判断能力の欠如の上に築くことになる日本民族優越主義へと進むことになる。既に進んでいるのかもしれない。

 津川雅彦「縄文から1万5千年の歴史を持つ」

 日本人の礼儀正しさは大昔からの一貫した日本人全体の資質だとしている。

 長谷川幸洋「目頭が熱くなる」

 ジャーナリストである以上、情緒的解釈ではなく、合理的解釈を行うべきだろう。

 加藤清隆「韓国選手と比較すれば・・・」

 この男はかなり前の当番組で、「昔は従軍慰安婦という言葉はなかった」と、言葉がなかったことを以って従軍慰安婦は存在しなかったと言っていた判断能力の持ち主だが、ここでは韓国選手と比較した日本人の礼儀正しさだとしている。

 だが、どのような態度も個人の資質に応じると同時に個人が置かれているケースバイケースに応じる。優しい性格の人間でも、ときには残酷なことをする。

 夫を深く愛し、優しい女性が夫の浮気に耐えかねて他の男と衝動的に不倫し、ざまあみろと内心で夫に対する復讐心を満足させる女性も存在するはずだ。

 人間の態度は否応もなしに相手の態度に応じることがある。 

 いわば常に一貫した固定的態度は存在しないのだから、韓国人選手を一括りとした態度も存在しないし、日本人選手を一括りにした態度も存在しないゆえ、一括りにして比較すること自体、ジャーナリストでありながら、公平な客観的判断能力を欠いていることになる。

 宮崎哲弥「単なる長幼の序ではなく・・・・」

 なぜここで「長幼の序」が出てくるか分からない。後で儒教との関係で説明して、韓国や中国は長幼の序が身体規範として根付いているが、日本の場合は長幼の序ではなく、「場の論理」だと言っている。

 「はてなダイアリー」によると、「場の論理」とは、〈「場」が持っている慣習的な論理。ある一貫している論理が、その「場」に固定的に備わっていること〉とあるから、集団を形成する一つの場に於いて論理によって築かれた慣習を意味し、私が先に触れた「そうするものだとしている慣習からの集団的な儀礼的行為」と左程違わないように思える。

 要するに場が一つの慣習を生み出し、その慣習が場を支配する構造の資質という意味であるはずだ。

 だが、それを日本人全体の固定的な資質――美徳とするためにはあらゆる場・すべての場に於いて等しく発揮される慣習でなければならない。

 そのような慣習は存在するだろうか。

 宮崎哲弥は今の日本ではそういった「場」が縮小している、特に若者の間ではその場が縮小していて、日本人の礼儀正しさが必ずしも発揮できていないと、番組がつくり出したいと欲し、パネラーの何人かが賛同を示して「日本人の礼儀正しさ」がすべての日本人が持つものだとする固定的資質化に水を差している。

 津川雅彦が「縄文から1万5千年の歴史を持つ」の意味を説明している。

 津川雅彦「大自然を神様と見るんですよ。大自然に生きているもの、全てに命があると。それをアニミズム、生きているもんと、みたいな、生きていると。

 で、命があると思ったところに全てに神様が宿ると、こう思われたわけですね。

 だから、八百万(やおよろず)の神はそこで始まるし全てに命が宿るから、平等なんです。命は、命の平等ってことが、礼儀正しさの根本なんです」

 桂ざこば「そうですね」

 津川雅彦「これが1万5千年ずうっと続いているからね」

 山口もえ「日本人だからですかねえ――」

 津川雅彦は「アニミズム」という言葉を使ったとき、礼儀正しさが「縄文から1万5千年の歴史を持つ」日本人特有の資質ではないと気づかなければならなかった。いわば根拠のない日本人優越性に過ぎないと悟る必要があった。

 「アニミズム」なる言葉は日本人がつくり出した言葉ではない。だからと言って、加藤清隆が「昔は従軍慰安婦という言葉はなかった」ということを以って従軍慰安婦は存在しなかったと言っているように、「アニミズム」に相当する精霊崇拝が日本に存在しなかったなどと言うつもりはない。

 いわば大自然に存在する全てに命が宿るとする考えは日本だけに存在する特有の思想、あるいは哲学ではなく、外国にも存在する考えであって、「縄文から1万5千年の歴史を持つ」日本特有の考えではないということである。

 要するに津川雅彦は日本民族優越意識に侵されていて、そのために日本特有の考えであり、日本人の礼儀正しさがそのような考えに基づいているとしているに過ぎない。

 山口もえにしても、「日本人だからですかねえ――」と、日本人特有としたい日本民族優越意識に取り憑かれている。

 金美齢「例えばね、外国へ行っているでしょ。例えばアメリカに行くじゃないですか。年寄りが一人重たい荷物を持っていたとか何とかっていうの、何も言わなくても、向こうから手を貸してくれるわけ。何も言わなくても、手伝いましょうって。

 日本はね、ホントーに、あの、白髪(しらが)で重たい荷物を持っているときもね、若者がね、一言もね、お手伝いしようって言われたこと、全然ね、積極的に――」

 辛坊治郎「若いからですよ」

 辛坊はジャーナリストありながら、日本人全体が礼儀正しいとしたいばっかりに重たい荷物を持っている人間に対して自然な形で手伝う親切心の日本人の多くに見ることができる欠如を個人的な年齢に理由を転化する、公平な判断を欠いた卑劣なゴマ化しを用いている。

 金美齢「いや、そうじゃなくて、もう無関心と言うか、周りに全然無関心。こう、スマホのここばっか見て(手に持ったスマホを指で操作する真似をする)」

 宮崎哲弥「単なる日本人の礼儀って、長幼の序ではなくて――」

 金美齢「家庭教育の問題。親がどんどん教育力を失ってね、自分のね、子どもたちにどうすべきかということを全然教えていない」

 山本浩之司会者「若い人たちに最近、そういうのが目立つのかもしれないけれど、どうしてそういう人たちが目立ってくるかと言うと、大人が教えないからですよ。

 で、電車の中を見て下さいよ。若い人よりもひょっとしたら年をいったオッサンの方が物凄っい態度が悪いのがいるでしょ?」

 金美齢は親が教育力を失っている家庭の教育力の問題を指摘してるが、親が重たい荷物を持って難儀している他人を見た場合に躊躇なく手を貸す親切心を態度として、子どもがそういった親の態度を見て育っていたなら、それが家庭教育となるのであって、子どもは親の態度を自然に受け継ぐ。

 つまり親の教育力が失われているのではなく、親自体が手を貸す習慣を持っていないことから子どもに反映している他人の難儀に対する無関心という相互反応であるはずである。

 しかし山本浩之は司会者の立場を忘れて、番組が意図している狙いを無視し、態度の悪い若者が目立つこと、そして若者よりも親の年齢に当たるオッサンの態度の悪さを言って、親から子へ循環させていくべき家庭教育の衰退を指摘しているが、その指摘を成り立たすためにはそもそもからして日本の家庭教育に他人の難儀に手を貸す、親の態度で示す教えがあったかどうかを検証する視点を持たなければならないはずだが、自分が見た現象を表面的に把えて表面的に解釈するだけの検証となっている。

 桂ざこば「オッサンの方が?」

 若者の態度の悪さを認めることはできるが、オッサンは認めることはできない不服を見せた。

 山本浩之司会者「オッサンが」

 桂ざこば「そうかなあ」

 津川雅彦「今ね、老人の万引きが最高に多いらしい」

 山本浩之司会者「多いですよ。礼儀知らないのが多いですよ。天神橋で自転車に乗っているオッサンに、(自転車乗り入れ禁止になっているのだろう)『自転車乗ったらアカンで』って言ったら、ガアッーて言われたもん」

 金美齢「私が日本に来たとき、当初ね、中年の女性が一番礼儀正しかったの。最近のね、日本の中年の女性っていうのはね、ひどい言動しますからね」・・・・・・

 「日本人の礼儀正しさ」をテーマにして19歳以下の日本人サッカーチームの若きイレブンの礼儀正しさを武士道精神の現れだ、若きサムライだと持ち上げ、日本人サポーターのゴミ拾いを世界を驚かすと最大限の評価を与えて、若者の礼儀正しさを日本人全体の固有の優れた資質だとする提示から始まって、最後には最近の若者は態度が悪い、礼儀を知らない、オッサンは若者以上に態度が悪いという論理展開でコーナーを閉じることとなった。

 この滑稽さに気づく客観的判断能力を持った出演者は誰一人としていなかった。最初は納得し、賛同していたテーマを自分たちから否定したのである。その矛盾をさらっと遣り遂げた。

 この程度の客観的判断能力の持ち主なら、何をテーマにして何を喋ろうとも、大した意味を成さないだろう。

 だが、多くの同じ穴のムジナたちが彼らの言っていることを頭から信じ、同じ穴のムジナたちの正当な情報となって世間に流布し、のさばることになる。

 
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