昨日のブログに12月22日「たかじんのそこまで言って委員会」で「2013年この国に生まれてよかったSP」と銘打ち、「日本人の団結力」、「日本人の底力」、「日本人の礼儀正しさ」、「日本の国際貢献」、「日本の食文化」、「日本の皇室」をテーマにしてパネラーが議論、日本と日本人の素晴らしさを独善的に謳い上げていた中から「日本人の礼儀正しさ」を取り上げ、果たして日本人の礼儀正しさが議論しているように日本人の全体的に固有の資質なのか問いかけてみたが、今回は「日本人の底力」をテーマとした議論の中で、金美齢と津川雅彦が人に何か贈り物をするときに「つまらない物ですが」と枕詞としている常套句の是非について遣り合い、金美齢は不必要な言葉だと言い、津川雅彦は素晴らしい日本語だと譲らなかった。
果たして「つまらない物ですが」という態度や姿勢を表すことになる言葉の二人把え方に妥当性があるのか、考えてみることにした。
今年球団創設9年目にして優勝を果たした楽天イーグルスの日本シリーズでシーズン開始以来、ポストシーズンと日本シリーズを含めて30連勝していた田中将大が3勝2敗で自チームの日本一に王手をかけた第6戦に登板、160球投げて連勝をストップさせて敗戦投手となりながら、翌日の3勝3敗で迎えた第7戦で3点リード、日本一目前の9回から登板、2安打を許し、1打逆転という場面で次打者を見事3振に打ちとって日本一を獲ち取った執念と東日本大震災で打ちひしがれた被災者の立ち上がっていく姿を「日本人の底力」が現れた象徴と見做して、パネラーたちに「日本人の底力についてどう思うか」質問していた。
元皇族の竹田恒泰の答は「日の丸を背負えば、いい仕事ができる」であった。
竹田恒泰「私ですね、日本人て、今、日本のことをあんまり好きじゃないところにいると思うんですけど、みんなが日の丸を背負って、仕事したら、ホントにいい仕事するんじゃやないかと思っています。
以前カンボジアに行ったときに道に入ったら、凄くいい道で、凄くいい道だなと思ったら、日の丸が見えたんですよ。日本のお家芸で(聞き取りにくかったが、と言ったように聞こえたが)造ったんですね。
その先を曲がったら、デコボコ道に入って、なんだこの道はと思ったら、韓国の旗が見えたんですよ。
――(笑いと拍手が起こる。)――
何を言いたいかと言うと、韓国の技術がないということを言いたいんじゃなくて、よそ様に物を差し上げるのに自分の国にないようないい物を造って差し上げたいと思うのがニッポン。それなのに韓国は多少質が悪くてもいいから、長い道を造るといったら、どっちがいいか分かりませんけども、やっぱ日本人というのは他人に上げるものこそいい物を、まあ、残った物は(?)うちで食べようみたいな・・・・」
竹田が言っている「日の丸を背負えば、いい仕事ができる」とは、日の丸背負って外国に行けばいい仕事ができるが、日の丸を背負って仕事をするわけではない国内の仕事は外国での仕事程、いい仕事はできないということを意味することになるはずである。
日の丸を背負うことによって仕事のモチベーションをより上げることができる、あるいは生産性を上げることができるということは最終的には日の丸に力の源泉を置いていることになり、自身の仕事に対する情熱や能力、経験に対する信頼等は日の丸以下の力の源泉としていることになる。
あるいは日の丸の支配下に自身の仕事に対する情熱や能力、経験に対する信頼等を置くことになる。
このように日の丸によって仕事の影響を受ける依存関係は個々の人間が個人として自律(自立)を果たしていない姿を表しているはずである。
例え日本政府によって外国に派遣されて、外国で日本政府の仕事をしようと日の丸とは関係せずに自分は自分として自律(自立)した行動ができないことになる。
かくこのようにも日の丸を必要とする日本人なのだろうか。日の丸を必要として欲しいという元皇族としての竹田の願望ではなく、日本人が実質的に必要としているとしたら、その自律性(自立性)は大きな疑問符がつくことになる。
創作活動に於いて覚醒剤や合成麻薬に依存しなければ、人に目をみはらせる創作ができないのと、その精神性の構造は同じである。いわば覚醒剤や合成麻薬の支配下にあり、そこに力の源泉を置いていることになる。
竹田がカンボジアで日本が建設した道路は「凄くいい道」で、韓国が建設した道路は「デコボコ道」だと言ったとき、他のパネラーが韓国の道路建設技術を笑い、拍手したが、直感的におかしいと思わなかったのだろうか。
韓国の道路建設技術がデコボコ道しか新設できない程に劣るとは考えにくい。その程度の技術しかないとしたら、韓国内の新設道路は最初からデコボコ道ということになる。
カンボジア政府はいくら建設単価が安くても、デコボコ道しか建設できない韓国の技術にカンボジアの道路の建設を任せるだろうか。
竹田の発言には道路に対する経年劣化の視点を全く欠いている。
道路建設技術は交通量に応じた耐用年数によってよって測る。日本の優れた道路建設技術を以てしても、ダンプやトレーラー等の重量車両が頻繁に通行する道路は耐用年数が短くなり、場所によってタイヤの通行箇所が凹み、水溜りができたりする。特に交差点で右左折する場合、荷が片寄る側のタイヤがアスファルトをより圧迫することになって、道路に凹みをつくることになる。
悪意ある人間はそのような道路を以ってデコボコ道しか建設できないのかという批判を成り立たせることも可能となる。
決して永久に無傷のままということはなく、無傷のままの道路建設を可能とする程日本の技術が優れているわけではない。
竹田は「何を言いたいかと言うと、韓国の技術がないということを言いたいんじゃなくて」と言っているが、今年の10月20日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」によるヘイトスピーチ(憎悪表現)問題が取り上げられたとき、韓国に対する差別発言を行っていることからすると、言葉では否定していても、道路建設技術に事寄せて韓国を劣ると差別したはずだ。
竹田恒泰「在特会が活動したおかげで在日の特権の問題が明らかになった。例えば、通名というのがあって、日本人の名前に変えることによって、犯罪歴や金融関係の経歴を全部消すことができ、また新たな犯罪ができる」(YOMIURI ONLINE)
いくら通名を用いようとも、通名として法的に認められるには居住区・市町村に登録して住民票に本名と併記されるということだから、通名のみの存在が許されるわけではなく、法的には本名と共に存在するのだから、当然、犯罪歴も金融関係の経歴も消すことができるわけではない。
法律の基づいて運営されている国家に於いて犯罪手段によらずに「犯罪歴や金融関係の経歴を全部消すことができ」るなどという便利なことが常識から考えてできるはずはない。
韓国・韓国人を劣る存在と見做す差別感情には相当なものがある。
天皇家を万世一系と称して、その血を最高権威に位置づける考えからすると、竹田恒泰がその血を引き継いでいるということは、万世一系の血もたいしたことはないことになる。
竹田の「日本人というのは他人に上げるものこそいい物を(と考える)」という言葉に触発されてなのだろう、続けて金美齢が発言した。
金美齢「あたしね、戴き物をするとき、必ずつまらない物ですと言われるわけよ。そのとき必ず言うの。『つまらない物はいらないよ』って。
――(アハハハ、と笑いが起きる。)――
そろそろやめた方がいい」
津川雅彦(憤然とした様子で背後の席の金美齢を振返って見上げ)「反論するようですが、物はつまらないんです。贈る心が素晴らしいということを言うために『つまらない物です』と。
この心はあなたへの感謝にする。この心はこんな物より数百倍も素晴らしいんですという意味を込めて、あの、『つまらない物』という素晴らしい言葉はあるんです。
――(津川雅彦の主張に感心したのだろう、拍手が起きる)――
(憤激が収まらないといった様子で広げた両手を叩きつけるような仕草を見せ、靴を床に叩いて)物はつまらない。(胸に手を当て)心は素晴らしい」
金美齢「全く違う。心があるんだったら、やっぱり心を込めて、やっぱり相手の喜ぶ物を選ぶべきです」
津川雅彦「いいえ、つまらないと言うのは素晴らしい言葉」
竹田恒泰「つまらない物ですと言うときに本当につまんない物を渡す人はいなんですよ」
津川雅彦(憤り収まらない様子で)「そうです」
辛坊治郎「言っときますけどね、ここにお座りになっているのは金さんですよ。田島さんではないですよ」
皆の主張に反対ばかり述べていて皆から攻撃を受けていた田島の指定席に金美齢が座っている。田島ではないのだから、攻撃は程々にといった意味なのだろう。
だが、お笑いタレントが司会しているわけではない。「つまらない物」という言葉の評価について一言ぐらい発言しても良さそうだが、茶化してその場を収めようとする心掛けしかないようだ。
津川雅彦「これは日本人が大事にしている言葉だから、簡単に卑下して貰いたくない」
司会の山本浩之が話を山口もえに持っていって、その場を収めた。
確かに世話を受けたことの、あるいは世話を受けていることの有り難さに対して礼の気持や感謝の思いから、礼の気持や感謝の思いの代わりにそれらの思いや気持を込めて物を贈る。
そのとき、「つまらない物ですが」という言葉を添えるのが日本人の習慣となっている。だが、津川雅彦が言うように「物はつまらないんです。送る心が素晴らしいということを言うために『つまらない物です』と」言うわけではないことだけは確かである。
なぜなら、送る心は素晴らしいものだと贈る相手に押し付けることになるからだ。しかも贈る心は贈る「物よりも数百倍も素晴らしいんです」という心を見せるためだとしたら、恩着せがましさはこの上ないものとなる。
「つまらない物ですが」は物自体のことを言っているのではなく、贈る心に対しての謙虚さを言っているはずだ。時折、「大したことはできませんが」とか、「ほんの気持です」いう言葉を添えて感謝の印や礼の印として贈り物をすることがあるが、世話を受けたことの、あるいは世話を受けていること量やその有り難さに比べたなら、お礼も感謝も大したことはできません、足りませんがというへり下った意味が「つまらない物ですが」には込もっていると私自身は解釈している。
へり下ったと言うのは、「つまらない物ですが」と言って人に物を差し上げる場合の物の遣り取りは多くの場合、上下の人間関係の間で行われる下から上に対する行為だからである。
日本人は歴史的・伝統的に権威主義を行動様式としている。このために下の地位にある者が上の地位にある者に盆と暮れに贈り物をする習慣が生じ、更に上の者に特別に何か世話を受けた時々に贈り物をして、「つまらない物ですが」とへり下った態度を取ることになる。
例え職場に於ける地位が上下関係にあろうとも、それぞれが個の存在として相互に対等な関係にあったなら、下の地位の者が上の地位の者に世話を受けたからといって、一方通行の形で物を贈る習慣を社会的に年中行事とすることはないはずである。
勿論、下の者が上の者に贈り物をしたとき、返礼として上の者が下の者が持ってきた物の一つを与える場合があるが、それはあくまでも最初の贈り物に対する給付行為であって、下の者が上の者に贈り物をする行為がなければ、給付行為は生じない。
戦前の天皇が国民に皇室の金紋が入ったタバコを数本与えたりした下賜は国民の天皇への忠節に対する最たる給付行為であろう。
いわば「つまらぬ物ですが」という言葉は上下関係に付随し、そこに感謝の気持を込めていても、下の上の者に対するヘリ下った意味を持たせた言葉であって、津川雅彦が言うように贈る心の素晴らしさを表現する言葉とするのは見当違いも甚だしいはずだ。