性別変更夫婦の第三者精子提供出産の子どもの最高裁嫡出子認定は日本人の血の権威主義を破る絶好の機会

2013-12-15 06:02:08 | Weblog

 

 性同一性障害で戸籍の性別を女性から男性に変えた夫の妻が第三者から精子の提供を受けて妊娠、長男を出産。夫がその子を自分の子と認めるよう起こした裁判で、最高裁判所は「血縁関係がなくても父親と認めるべきだ」という初めての嫡出子判断を示して訴えを認める決定を出したという。結構毛だらけ、猫灰だらけ。

 《性別変更の夫婦の子で初判断》(NHK NEWS WEB/2013年12月11日 17時54分)

 記事は、〈家族の形が多様化するなかで、決定は生殖補助医療を巡るの議論にも影響を与えそうです。〉と解説しているが、国の法整備よりも、日本人の精神性としてある夫と妻の間の子に正統性を置く背景となっている、血(=血統)に価値を置く権威主義に一石を投ずることの方にこそ、関心がある。

 性同一性障害の夫婦の子どもについては法務省の見解に従ってこれまで「嫡出子」と認められてこなかったという。要するに血が繋がっていなければ、親子ではないとしてきた。

 血がつながっていても、人格的精神性に於いて親子ではない親子が世の中にはいくらでもいるではないか。

 いわば血は親子関係の良好な在り様を保証する絶対的条件ではない。

 大谷剛彦裁判長「現在は性別を変えることができるようになったうえ、性別変更後に結婚することも認められている。結婚できる以上、血縁関係がなくても子どもの父親と認めるべきだ」

 寺田逸郎裁判官「結婚制度は夫婦の関係を認めただけでなく子どもを嫡出子と認めることと強く結びついている。性別を変更して結婚を認めた以上は、血縁がなくても嫡出子とする可能性を排除していない」――

 この考え方だと、結婚していない男女の間の子どもは嫡出子として認めないままとなる。

 岡部喜代子裁判官「嫡出子とは本来、夫婦の間にできた子どものことだ。制度上は結婚できても遺伝的に子どもを作ることができなければ父親と認めることはできない」

 血縁関係重視の考え方だと記事は書いている。要するに結婚での親子関係に於いて血に絶対的価値を置き、血を一つの重大な権威と見做している。

 榊原富士子早稲田大学大学院法務研究科教授「生殖補助医療の進歩で家族の形が多様化しているのに法律の整備が追いついていない。国は家族に対する法律の整備に慎重になっているが、法整備を急ぐべきだ。今回の決定はその後押しになるのではないか」――

 血の繋がりのない男女が夫婦となり、男女双方と血の繋がりのない子どもを持って、あるいは男女何れかの方と血のつながりのない子どもを持って、社会的にどのような問題があるのだろうか。社会的に問題がなければ、法的にも問題ないとしなければ、法律は社会に追いついていないことになる。

 社会に追いついている例は、2004年11月1日の法務省の「戸籍における嫡出でない子の父母との続柄欄の記載の変更」であろう。それまで非嫡出子の出生届では父母の戸籍続柄欄には「男」、「女」と記載され、嫡出子の「長男(長女)」、「二男(二女)」等の記載と差別をつけていたが、嫡出子と同等に改めている。

 血の権威の希薄化である。

 相続権に関しても、2013年12月5日、嫡出子と非嫡出子では2分の1であったものを同等とする改正民法が成立した。

 養子の場合は続き欄に「養子」と書かれるが、これも撤廃して、親が話すかどうかに任せたらいい。親子関係が良好であった場合、話したなら、子どもは一般的な出生とは異なる経験を知らない間に広げ、知らない間に自らの生きる世界を広げていたことになる。

 素晴らしいことではないか。知ったなら、今後を生きる豊かな精神的糧となるだろうし、しなければならない。試されているのは血ではなく、一個の自分自身であるはずだ。

 だが、日本では血に価値を置き、血を権威としているために試されている価値観が一個の自分自身であるという自覚をなかなか持てないでいる。日本人の多くが自立していないと言われる所以であろう。

 まあ、私自身は偉そうなことを言うことができる程、大した生き方はしていないが。

 血の最たる権威主義は天皇の万世一系という絶対的価値観であろう。天皇の万世一系に絶対的価値を置く権威主義者は血に上下の価値を置いているゆえに日本民族優越主義(=民族差別主義)を背中合わせとすることになる。

 その典型的な政治家は安倍晋三であろう。安倍晋三が唱えている「積極的平和主義」は中国に対抗する便宜的手段に過ぎない。民族差別主義者の積極的平和主義は倒錯以外の何ものでもない。

 結婚は家(=血)と家が結びついて新たな血を生み出す場ではなく、個と個が結びついて個の相互性を築いていく場であり、親子はその反映としてある個と個が結びつき、親子の相互性を築く場であろう。

 個は自立していて、初めて個と言うことができる。血は自立の要件足り得ない。逆に血に拘り、血に恃む程、自立から遠ざかる。

 日本人は素晴らしいと言う言葉をよく聞く。素晴らしい日本人もいれば、素晴らしくない日本人もいる。他国に於いても同じだろう。素晴らしいかどうかは個が決める能力である。日本人であることが決める能力ではない。

 今回の妻の第三者提供精子出産の長男を性同一性障害で戸籍の性別を女性から男性に変えた夫の子と認めた最高裁判決は裁判長及び裁判官が自覚していようがいまいが、結果的には血の繋がりよりも個の繋がりに価値観と権威を置く判決であって、このような決定が更に進んだ先に血に価値観を置く呪縛から逃れることができる地平が待ち構えていて、自立というものを獲得できるのではないだろうか。

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