謝罪。昨日のブログで途中から大文字ではない文章個所を大文字にしてしまいました。訂正しておきました。
文科省ということよりも、安倍晋三と国家主義者仲間の下村文科相がリーダーシップを取ってのことだろう、文科省が選択科目となっている高校日本史の必修化の検討を始めたと、《高校の日本史必修化を検討 文科相、中教審に諮問へ》(日経電子版/2014/1/7 13:53)
記事。〈国際社会で活躍する人材の育成には自国の歴史への理解が欠かせないと判断し〉、〈今夏にも下村軽量級文科相が中央教育審議会(中教審)に高校の学習指導要領の改訂を諮問し、早ければ2019年度から必修科目とする方針だ。 〉という。
実際の記事には「軽量級」の形容詞は付いていないが、実体を表す言葉だと思う。
1989年学習指導要領改訂で高校社会科は「地理歴史」と「公民」に分割、現行の地理歴史科は世界史必修、日本史と地理選択制となっているという。
文科省検討の具体的な必修化案――
(1)日本史と公民を必修とし、世界史と地理を選択制にする
(2)日本史と世界史を必修とし、公民と地理を合体した新教科を創設する
(3)日本史、世界史、地理の総合科目を新設する――
結論はどうなるかだが、単なる制度いじりに終わる予感がする。
「国際社会で活躍する人材」は「自国の歴史への理解が欠かせない」と言っているが、その「理解」はあくまでも自身の判断によって成り立たせた独自の「理解」でなければならないのであって、他者から教えられた歴史を教えられたままに記憶し、教養とする「理解」なら、独自性に反することになり、その反独自性は自身の人材能力にも反映されて、国際社会での活躍から非凡さを奪うことになる反独自性でもあろう。
ところが安倍晋三にしても下村博文にしても、自分たちが望む国家主義的な日本の歴史観で生徒を、広く言うと国民を統一することを切に願っている。そのための日本史必修化であり、新たな教科書検定の模索であるはずだ。
この遣り方は全体主義であって、人それぞれが大切にしなければならない独自性に明らかに反する。独自性とは自律性にイコールする。自律性を担い、獲得してこそ、独自性が発揮可能となる。自律を果たしていない人間が独自性を発揮しようがない。
4月10日(2013年)の衆院予算委員会で安倍晋三と下村博文は自分たちが望む国家主義的な日本の歴史教育を欲して、教科書検定への介入衝動を露わにしている。
当ブログに既に用いているが、4月10日(2013年)の衆院予算委員会。
安倍晋三「第1次安倍内閣で教育基本法を改正し、日本の伝統と文化や、愛国心、郷土愛というものを尊重することを書いたが、残念ながら、教科書の検定基準には改正教育基本法の精神が生かされていない。検定する側にも、その認識がなかったのではないか」(NHK NEWS WEB)――
教科書検定で、「日本の伝統と文化や、愛国心、郷土愛というものを尊重する」内容の教科書へ持っていくべきだと主張している。
同衆院予算委での下村博文の答弁。
下村博文「改正教育基本法や新学習指導要領の趣旨を踏まえた教科書で学ぶ必要があるが、残念ながら、これらにのっとった教科書でないものもあると感じている。日本に生まれてよかったと思ってもらうような歴史認識を教科書に書き込むことは必要で、今後、教科書検定の現状と課題を整理し、見直しを検討していきたい」(同NHK NEWS WEB)――
安倍晋三と下村の言っていることは同じである。「日本の伝統と文化や、愛国心、郷土愛というものを尊重する」にしても、「日本に生まれてよかったと思ってもらうような歴史認識」にしても、善き歴史を主眼とし、負の側面として持つこととなった悪しき歴史にはなるべく目を触れまいとする日本民族無誤謬性=日本民族優越性への志向に裏打ちされた精神の表れとなっている。
この結果が最初に取り上げた高校日本史必修化でもあり、必修化によって日本史教育に特に担わせようとしている柱が12月20日(2013年)付「NHK NEWS WEB」が伝えている、〈すべての教科について、愛国心などを盛り込んだ教育基本法の目標に照らして重大な欠陥があると判断された場合、不合格にすることを明記〉し、〈学術的な通説が定まっていない事柄については、バランスのとれた記述にする〉としている、12月20日第2回目文科省審議会の教科書検定基準改正報告の重点趣旨であろう。
政府が望む歴史観・歴史認識に導き、統一しようとする意志が前々から準備され、着々と手を打っていた。
記事は報告に賛成した委員の審議会での発言を伝えている。
「表面上は問題なく見えるが、根本に不安を覚える。国定教科書のようになってはいけない」
〈学術的な通説が定まっていない事柄については、バランスのとれた記述〉とは、日本の戦前の戦争は侵略戦争であるといった歴史認識は日本民族優越性の観点からも、愛国心の観点からも不都合だが、一般的に大勢を占める不都合な歴史認識に関しては否定意見もバランスよく配置、知らしめて、不都合を希釈し、少しでも望む方向、望む解釈へと持っていこうとする意思表示であるはずだ。
国家主義の立場に立っているから、このような意思表示に傾く。我々は歴史的にも正しい国家であり、それゆえに正しい国民であるとすることによって、国民を正しい国家に従った正しい存在とする国家主義である。
靖国神社で死して逢おうと愚かで無謀な戦争を戦い命を散らしていった英霊という名の戦没者こそが戦前に於いては正しい国家に従った正しい存在とされていた。そして今もなお、正しい国家に従った正しい存在だとする多くの日本人がいる。
人間がヒトラーのように指導者自体が個人的にだけではなく、集団をも支配して愚かさやある種の狂気に囚われ、あるいは指導層と一般的な集団とが愚かしさや狂気を相互に響き合わせて残酷なまでの蛮行・非人間的行動に走ることもあるという人間の姿を学ぶ歴史教育なら、安倍晋三や下村博文のように「愛国心」の名の下、日本の正しい面だけを取り上げることを欲した歴史を主張することもないし、そのような主張を教育に反映すべく謀る形の教科書検定の方法を改正することも欲しないはずだ。
そうでなければ柔軟で独自的な判断能力は育たない。
だが、逆となっているということは、要は「国際社会で活躍する人材の育成には自国の歴史への理解が欠かせないと判断」しながら、その「理解」を日本の優越性で彩った歴史のみの「理解」に限定していて、限定した歴史認識で統一しようと欲しているのだから、歴史の真っ当な理解を育む柔軟な創造性に裏打ちされた各自の独自性を排除する方向の力を働かせていることになる。
安倍晋三や下村博文のこのようにも歴史の理解に於ける、あるいは歴史の解釈に於ける独自性の排除に立った自律性なき自国の歴史理解が様々な国籍を持った多くの人間と混じる場合は自律性が最も鍵となる「国際社会で活躍する人材」を果たして育み得ると言うのだろうか。
大体がそもそもからして安倍晋三は自らの歴史認識の表明に追いつめられると、「歴史の評価は歴史家に任せるべきだ」と国会答弁で何度も逃げている。もしこの言葉に正当性と責任を持たせるなら、歴史の評価・解釈は歴史家に任せておけばいいのだから、高校で日本史ばかりか、世界史も必修させる必要はない。日本の歴史を勉強したい生徒だけを勉強させる選択制で十分である。
もし自分たちが望む歴史解釈に立つ歴史家を高校生の時から育てたいなら、好みの国家主義の観点から日本の歴史を解釈する、自身に同類の歴史修正主義者に育てるべく、それができる、同じく自身に同類の教師や教授を集めて専門分野として日本史教育を望む生徒を募った上で徹底的な洗脳型暗記教育を施せばいいことだろう。
一国のリーダーでありながら、一方で「歴史の評価は歴史家に任せるべきだ」と歴史の専門性を言い募りながら、高校教育で日本史必修化を策して、優れた日本国家であるとする国家主義の観点からの歴史の一般化を図る矛盾を平気で犯す自己都合を垂れ流している。
安倍晋三の頭の程度だからできる判断能力であり、自己都合なのだろう。