1月9日、安倍晋三がまたまたお得意の外国訪問に出かけた。協定を結んだ、共同声明を発表した、力による現状変更ではなく、話し合いによる平和的な懸案解決で同意を取り付けた、価値観外交で一致したと存在感を華々しくアピールする装置としては格好の道具立てなのだろう。
と言うのも、外務官僚ができることをやっているに過ぎないからだが、「私は総理に就任して1年間、150回以上首脳会談を行いました」と外交の中身よりも回数を自慢することで、自身にしても道具立てとしての意味を持たせている。
昨年の参院選前の党首討論では、決まってのように持ち出して盛んに20数各国も外国訪問したと回数を誇っていた。何か考えることがあって、そのことに答えを見つけることができたのか自分自身に問いかけるのではなく、まるでいくつの寺を回ったと回った寺の数を自慢する巡礼のようだ。
昨年は結局は「地球儀を俯瞰する外交だ」と称して、25カ国を訪問したそうだ。
そして今回は中東のオマーンとコートジボワール、モザンビーク、エチオピアのアフリカ3カ国が指折り数えて加わわることになる。今年の年末辺りには「50カ国を回った」といった言葉が出てくるのだろう。
政府専用機で羽田空港から出発したという。夫人同伴。《首相 中東アフリカ訪問へ出発》(NHK NEWS WEB/2014年1月9日 12時1分)
安倍晋三「ことし最初の外国訪問先として、中東とアフリカを選んだ。アフリカは日本外交にとってフロンティアと言える。中東は日本にとって戦略的に極めて重要であり安全保障上も重要だ。ことしも地球儀を俯瞰する戦略的な外交を展開していきたい」
記事の解説だと、〈一連の首脳会談を通じて、日本への原油や天然ガスの安定供給を確認したいとしているほか、日本企業が進出や投資しやすい環境を整備し、各国との経済関係を強化したい〉としているそうだ。
だが、特にアフリカに対する資源外交、経済外交では中国に大きく後れを取った。日本が国連常任理事国入りを果たすことができないもの、中国がアフリカ各国を反対で取り纏めているからだろう。
形勢挽回に出ようということなのだろうが、前期自民党政権時代に中国の先陣を許し、地盤を築かせることとなった日本外交の力量はある種の限界を突きつけていたサインでもあり、それを訪問回数や首脳会談回数を誇ることを以って外交能力としているような安倍晋三では、形勢挽回も心許ない。
大体が、「地球儀を俯瞰する戦略的な外交」ということの実際の意味を知っているのだろうか。「俯瞰」の「瞰」は「敢えて目にする」という字を書く。俯き敢えて目にする行為はかなり意図的な行為となる。
それを外交の分野で行う。しかも外交の対象は、「地球儀を俯瞰する」と言う以上、地球儀全体に対する外交であり、いわば地球全体、あるいは世界全体を対象とした外交のことを言っているはずだ。
地球儀を一部切り取ってそれを地球、もしくは世界に当てはめた特定の区域を対象とした外交であるはずはない。と言うことは、「地球儀を俯瞰する外交」とは地球全体、あるいは世界全体を万遍なく見渡した漏れ落ちのない、バランスの良い政治関係・国家関係の構築模索の外交を言うことになるはずだ。
また、そうでなければ、何カ国を回ったと自慢はできない。
一部の、しかも関係悪化状況にある近隣国家を抜かして元々友好関係にある他の国々を訪問して改めて友好な関係を確認することを「地球儀を俯瞰する外交」と言うはずはない。
要するに「地球儀を俯瞰する外交」とは多国間主義に立った外交と言い換えることができる。
果たして安倍晋三なる政治家は多国間主義に立った外交を行っていると言えるのだろうか。今更のことではないが、12月8日のBSフジテレビに出演して行った発言は改めて多国間主義を疑わせる内容となっている。
《安倍首相:「批判されても責任を果たす」靖国参拝巡り》(毎日jp/2014年01月08日 3時56分)
安倍晋三「「国のために戦って倒れた英霊の冥福を祈り、手を合わせるのは世界共通のリーダーの姿勢だ。例え批判されることがあっても、当然の役割、責任を果たしていくべきだ。
一国の指導者もお参りすることで(戦没者遺族の)気持ちも癒やされる。だからこそ多くの遺族は国のリーダーの参拝を望んでいる」――
靖国参拝が一国のリーダーとしての「当然の役割、責任」だとしても、友好な関係構築のための外交とその遂行にしても一国のリーダーとしての「当然の役割、責任」である。
後者を無視して前者のみを優先させた場合、日本一国としては成り立たせることはできるが、その代償として少なくとも、「地球儀を俯瞰する戦略的な」多国間主義は損なうことになり、その言葉を使う資格はないことになる。
地球儀を俯瞰していないことになるからなの断るまでもない。いわば対象を地球全体、世界全体に置いていない外交に成り下がる。
以前のブログにこう書いた。〈〈いくら英霊と崇めても、戦前日本の対外侵略戦争に関わり戦った戦没者である。その戦没者を英霊とすることで戦前日本国家を正当化する。この対外要素を無視した参拝姿勢は独善的な一国主義によってこそ成り立つ。
独善的な一国主義を排してこそ、多国間主義に立つことができる。多国間主義に立っていたなら、「戦争で命を落としたたくさんの方々に対し、尊崇の念を込めてお参りした」といった口実の下、参拝などできようはずはない。〉――
戦争を戦って甚大な人的・物的被害を与えた相手国を考えずに戦没者を英霊と讃え、それを以て「リーダーの務めだ」、「不戦の誓いだ」とする。独善的な一国主義の泥沼にはまっていることに自身はあくまでも気づかない。
安倍晋三は元々から多国間主義に立っていない政治家なのである。多国間主義の歌を忘れたカナリアでありながら、「地球儀を俯瞰する戦略的な外交を展開していきたい」などと多国間主義なことを平気で言う。
ただ単に経済的な利益を得るためと自身のカッコよさを打ち出す存在感アピールのために口にしている「地球儀を俯瞰する戦略的な外交」といった多国間主義に過ぎない。
誰に教えられて言っているのか、自身が言い出した言葉なのかは分からないが、実際の意味を知っていたなら、口にはできない言葉であるはずだ。結果、訪問国数や首脳会談数を誇ることになる。
避けて通っている国との友好関係の構築こそが外交であるにも関わらず、避けて通って敢えて見ることはせずに地球全体を俯瞰して行動しているようなことを言う。外交面で実際には責任を果たしていないということである。