1月29日の衆院本会議代表質問で、安倍晋三の相変わらずの頭の悪さを見せつける面白い遣り取りがあった。結の党の江田憲司代表がタカ派色が色濃く出てきた例として安倍晋三の昨年暮れの靖国参拝を批判した。
江田憲司結の党代表「中韓だけではなく、同盟国のアメリカですら、『失望した』と厳しく論評し、更にEU等からも否定的な評価が返ってきました。
マックス・ウェーバーの『職業としての政治』に信条倫理と責任倫理という言葉があります。私が理解するところ、前者は自らの信念に基づき行動し、その結果は神に委ねて省みない。その信念自体が尊いのであるという考え。
後者は起こるであろう結果を想定した上で行動し、その責任を負う、という考え。
今回の安部総理の靖国参拝は恐らく信条倫理に基づく行動だったんでしょう。安倍さんに取っては一度ならず二度まで総理になった以上、実現できなくて『痛恨の極み』とまで表現していた靖国参拝は信念に基づく行動だったに違いない。
しかしマックス・ウェーバーは政治家は信条倫理ではなく、責任倫理で行動すべきだと説きます。
私も総理という地位にある方に間近にお仕え致しましたが、一政治家とは違い、一国の代表である総理は自らの信念だからと何でも押し通すことは控えなければならない。周囲の状況を慎重に見極め、その結果起こるであろう様々な事態を想像的に勘案した上で、国益のために何がベストなのか、それを決断しなければならない。
最近の安部総理を見ていると、これからの幾多の国政の課題の対処は、もうその信条倫理に基づき決断していこうと考えているのではないかとすら、疑ってしまう。
総理、マックス・ウェーバーのこの信条倫理ではなく、責任倫理で行動すべきという考えに対するご見識があればご披露ください」
安倍晋三「マックス・ウェーバーの考え方に対する私の見解についてお尋ねがありました。マックス・ウェーバーはご指摘の点について信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出すと述べております
これがマックス・ウェーバーが述べようとした本質であります。政治家としての行動によりもたらされる結果に責任を持つべきは当然であります。信念にだけ任せて、結果を考えることなく決断を行うようなことはあってはなりません。
一方で政治家として信念がないままにただ結果だけを案ずるのは妥協的な事勿れ政治に陥りかねません。今後共、私はマックス・ウェーバーが『職業としての政治』の中で最後に説いたように、最後に説いたように、情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたいと考えております」――
頭の悪さを曝け出したのだから、拍手する場面ではないのだが、同じ穴のムジナ、頭の悪い連中だからなのか、自民党議員席から盛大な拍手。
【両々相俟って】「(りょうりょうあいまって)両方が互いに補いあって」(『大辞林』・三省堂)
先ず江田憲司結の党代表は安倍晋三の靖国参拝はマックス・ウェーバーが言うところの政治家に求めている責任倫理からの行動ではなく、禁じている信条倫理からの行動ではないかと追及した。
対して我が安倍晋三先生は、マックス・ウェーバーは政治家は責任倫理からのみ行動しなければならないと言っているのではなく、信条倫理に基づいた行動も対立しない行動基準として認めていると解説している。
この解説に則ると、安倍晋三は自身の靖国参拝を自らの信念に基づいた信条倫理からの行動であると同時に結果を前以て想定して、その結果に責任を負う責任倫理からの行動でもあったと自ら規定していることになる。
そして一方に傾くのではなく、信条倫理と責任倫理の両面からの行動こそが「両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出す」と断言、そのような人間に自らを擬(なぞら)えている。
このことは最後の発言、「情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたいと考えております」の自信に満ちた言葉に如実に反映されている。
「情熱」とは信条倫理に於ける信念を満たしていなければならない激しい感情を言い、「判断力」は責任倫理を機能させる上で必須となる能力を指すはずである。その「二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家」とは、「政治への天職を持ち得る真の人間」に他ならない。
だが、第1次安倍内閣では病気から首相職を自分から投げ出す惨めな挫折を経験していて、「どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家」像を自ら否定する正反対の姿を一度は演じていた。
いくらアベノミクスが現在好調であったとしても、挫折が二度とない保証はどこにもないのだから、口先だけの宣言能力、あるいは宣伝能力にかけては他に類を見ない程に優れているとしか言い様がない。
私自身はマックス・ウェーバーについて、名前は知っているが、その思想がどんなものかは皆目無知ときている。だが、安倍晋三の「信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではな」いとの解説は果して「絶対的」に正しいのだろうか。
少なくとも安倍晋三の靖国神社参拝に当てはめた場合、正しい規定とすることができるのだろうか。
参拝が信条倫理のみに則った行動なら、江田憲司結の党代表が言うように「その結果は神に委ねて省みない。その信念自体が尊いのであるという考え」に立ち、中韓の批判、アメリカやEU等の否定的な評価は無視して、「私は信念の行動者だ、信念の遂行が全てだ」と宣言し、中韓との関係がどのように悪化しようが、欧米との関係にどのようなさざ波が立とうが、問題としないで済む。
参拝が責任倫理のみに基づいた行動なら、中韓の批判や欧米の否定的評価は前以って想定していたことになり、想定していた通りの結果に対して相手を理解させ、参拝を認めさせる責任を負うことになる。
だが、その責任を果たしていない。
安倍晋三が前者・後者いずれかの行動に基づいた靖国神社参拝ではなく、信条倫理と責任倫理、その双方が相俟った行動であるとするなら、前者は信念の遂行にウエイトを置いて結果に対する責任は負わない、後者は信念を脇に措いて国益という結果を重視、優先させ、結果としての国益の成果に責任を負う相互に相反した価値観に基づいた行動ということになるゆえに、どこかで折り合いを付けないと前後破綻させずに成り立たせることは不可能な行動となる。
果して安倍晋三の靖国神社参拝は信条倫理と責任倫理双方に両者破綻なく折り合いをつけた構造の行動だったと言えるのだろうか。もしそのような構造の靖国神社参拝だったと言うなら、江田憲司結の党代表が安倍晋三の参拝はマックス・ウェーバーがその著書『職業としての政治』の中で言うところの責任倫理からの行動ではなく、禁じている信条倫理からの行動ではないかと追及したとき、双方に折り合いをつけた何ら矛盾しない参拝であったと、いわば安倍晋三自身が言い分としたマックス・ウェーバーの主張と自身の参拝との整合性を言葉を尽くして具体的に説明し、江田憲司結の党代表を納得させなければならなかったはずだ。
そのような説明も中韓や欧米に対して納得を得るための説明となる。ところが、そういった説明責任は一切果たさずに、信条倫理と責任倫理「両々相俟って政治への天職を持ち得る真の人間を創り出す」とか、信条倫理と責任倫理の双方それぞれの核となる能力要素である「情熱と判断力の二つを駆使して、どんな事態に直面しても断じて挫けない政治家でありたい」とか、自分がそのような人間であるかのような宣伝を行ったに過ぎない。
説明責任を果たさないまま専ら自己宣伝に努めているのだから、見当違いな自信であるにも関わらず、「情熱と判断力の二つを駆使して」と気張ることだけは一人前のその判断能力は程度が低い判断能力と言わざるを得ない。
また、自身の靖国神社参拝が責任倫理からの行動でもあると同時に自らの信念に基づいた信条倫理からの行動でもあると自ら決めていたとしても、その信念に関しては国外だけではなく、国内に於いても愚かしい信念と見做して軽蔑の対象としている者も少なくない。例え自身に於いては絶対的な信念であっても、他者に於いても絶対的な信念とは限らない相対化の力学に見舞われる。
この相対化に対する客観的認識性を備えていたなら、もう少しマシな行動を取ったはずだ。
信念が他者関係に於いて常に相対化されることは靖国神社参拝に対する世論調査が示している。
朝日新聞社
「参拝したことはよかった」41%
「参拝するべきではなかった」46%
読売新聞社
「評価する」45%
「評価しない」47%
NHK
「大いに評価する」17%
「ある程度評価する」27%
「あまり評価しない」29%
「まったく評価しない」23%
内閣支持率が回復してきた中での批判的評価の優勢となっている。その分批判的な声がプラスαされるはずだ。
常々安倍晋三なる政治家の合理的判断能力の欠如を言ってきた。江田憲司結の党代表とのマックス・ウェーバーの『職業としての政治』を用いた論争でも、当然のこととは言え、曝け出したのは合理的判断能力の欠如・客観的判断能力の欠如――頭の悪さに過ぎなかった。どこまでも頭の悪さはついていく。