2014年、明けましてお目出度うございます。私自身はさしてお目出度くもない年明けであり、1年なのは予想がついていることですが、そのような中で今年もしょうもないブログを書き続けていきます。
但し歳のせいで少し疲れてきたから、時々休みを取る予定です。今年も1年宜しくお願います。
総務相の新藤義孝が2014年1月元旦、新年を迎えた晴れやかな気持でだろう、靖国神社を参拝した。口には出さずとも、心の中で「天皇陛下のために、お国のためによくぞ戦った。よくぞ命を捧げてくれた。日本の今日あらしめるはあなた方英霊の尊い犠牲があったかこそだ。ニッポン、バンザイ、バンザイ、バンザイ」と、この思い、日本中に届けとばかりに叫んでいたのかもしれない。
犠牲行為は常に犠牲を尽くす対象を特定して、その対象に対して犠牲を何らかの形で捧げるに相応しいと価値づけると同時に対象自らが犠牲を何らかの形で受けるに相応しいと価値づける、双方向性を担うことによって成り立つ。
英霊の犠牲の場合は天皇や戦前の日本国家を対象とした命の捧げであり、命の捧げに値する天皇の存在性であり、戦前日本国家だったと価値づけていると同時に天皇も戦前日本国家も国民や兵士の命の捧げを受けるに相応しいと自らを価値づけていた双方向性を担っていたはずだ。
当然、犠牲に尊崇の念を表すとは、犠牲が持つ双方向性の一方の戦没将兵たちの犠牲に敬意を表すと同時に、その敬意の裏でもう一方の天皇と戦前日本国家を犠牲を受けるに相応しい対象として浮上させていることになり、そうでなければ犠牲の双方向性は意味を失う。
いわば安倍晋三にしても新藤義孝にしても靖国神社を参拝して英霊に尊崇の念を表しながら、同時に犠牲が持つ双方向性の価値づけから、戦前天皇と戦前日本国家に対しても尊崇の念を捧げているのである。
いわば戦前天皇制と戦前日本国家の正当化に相当する。
新藤義孝の参拝後の対記者団発言。
新藤義孝「自分の心の問題として、私的な参拝をさせていただいた。戦争で命を落としたたくさんの方々に対し、尊崇の念を込めてお参りした。また、二度と戦争が繰り返されないように、平和への思いを新たにした。
(安倍晋三の靖国参拝について)諸外国に、きちんと説明していく必要はあると思うが、どの国でも、自分たちの国のために命を捧げた方々に対し、同じような行為がなされていると思うので、とりわけ問題とは思っていない」(NHK NEWS WEB)
新藤義孝「戦争で命を落とした方々への尊崇の念と平和の願いを込めた。外交問題になるとは考えていない」(47NEWS)
参拝が「自分の心の問題」であり、「私的な参拝」だから、「どの国でも、自分たちの国のために命を捧げた方々に対し、同じような行為がなされていると思うので、とりわけ問題とは思っていない」と、問題にはならないとし、「外交問題になるとは考えていない」と外交問題化の心配はないと言っているが、12月26日の安倍晋三の戦前天皇と戦前日本国家を正当化し、戦前日本国家の侵略戦争を否定する靖国参拝が既に外交問題化し、緊密な同盟関係にある米国でさえ「失望している」と声明を出している現実の状況に反した発言となっている。
現実の状況に反して、なぜこのような発言ができるのだろうか。二つの理由が考えられる。一つは自身は小物だから、安倍晋三の靖国参拝みたいには注目を集めることはないし、問題となることもないとしているから。
新藤義孝が小物も小物、この上なしの小物であることは理解できる。だからと言って、安倍晋三が大物というわけではない。大物であったなら、戦前の天皇制と戦前日本国家に決別していただろう。いつまでも戦前の日本に郷愁を感じていることはないはずだ。
単に首相という地位に就いているに過ぎない。
もう一つの理由は満足な理解力を持たない脳ミソカラッポのバカだからだ。既に外交問題化を誘発した安倍晋三参拝の内閣の一員である以上、いくら小物であっても、同調行為と見做され、参拝に批判的な外国首脳をしてなお一層の批判を高めない保証はない。
そっちがその気なら、こっちも覚悟があるといった頑なさを対日外交姿勢に反映させないとも限らない。
いくら英霊と崇めても、戦前日本の対外侵略戦争に関わり戦った戦没者である。その戦没者を英霊とすることで戦前日本国家を正当化する。この対外要素を無視した参拝姿勢は独善的な一国主義によってこそ成り立つ。
独善的な一国主義を排してこそ、多国間主義に立つことができる。多国間主義に立っていたなら、「戦争で命を落としたたくさんの方々に対し、尊崇の念を込めてお参りした」といった口実の下、参拝などできようはずはない。
独善的な一国主義に立つことしかできない点でも、安倍晋三にしても新藤義孝にしても政治家として小物に過ぎない証明としかならない。