1月19日のNHK「日曜討論」第2部、「2014年 政治はどう動くのか?」をテーマに各党党首にインタビューしていた。トップバッターは国家主義者として先頭を走っている我が安倍晋三。
司会者に昨年12月26日の靖国公式参拝に対するアメリカの「失望」という批判について聞かれると、次のように答えていた。
安倍晋三「国のために戦って斃(たお)れた人々に祈りを捧げることは世界共通の姿勢だと思います。そのために私は今回、靖国神社を参拝してご冥福をお祈りしました。
また、世界中の戦没者を慰めるための鎮霊社にもお参りをし、再び戦火の下人々が苦しまない時代を作っていくという不戦の誓いをしました。これが果たして間違っているのか、そのことを考えて頂ければ誤解は解けると思います」――
そして戦没者の墓に参拝するのは国のリーダーの務めだとか何だとか言っていた。
いつも言っていて常套句となっていることの繰返しに過ぎない。
「世界中の戦没者を慰めるための鎮霊社にもお参りをし」たと言っていることは、靖国神社の先の大戦で戦死した日本軍兵士だけではないとすることで、戦争崇拝行為との批判を回避するカモフラージュであるはずだ。メインはあくまでもA級戦犯合祀の靖国神社参拝である。
当方もブログで繰返し同じようなことを言っているのだが、「国のために戦って斃れた」と言っていることの意味は、その行為を功績と見做し、栄誉と見做しているということであって、当然、戦死者が功績となる行為を、あるいは栄誉となる行為を働いた対象の戦前日本国家にしても、功績を働くにふさわしい、あるいは栄誉を目指すにふさわしい国家ということでなければならない。
要するに「国のために戦って斃れた」ことを功績・栄誉とする価値づけは国家と戦死者の関係を両者共に相互に肯定し合う価値観を基礎とすることによって初めて可能となる。
そうでなければ、戦前の日本に於いて「天皇陛下のために、お国のために」と玉砕を厭わない、まるで戦死するために戦争をするような、無考えな勢いだけのバンザイ突撃などできなかったはずだ。
だが、それはあくまでも戦前の国家と日本軍兵士(もしくは国民)の関係であって、その関係を戦後まで持ち越して、「国のために戦って斃れた」と言い続けることは戦死者を肯定するのはまだしも、戦前日本国家に対する戦死者の行為を功績と見做し、栄誉と見做すことを通して日本国家に対する戦前の肯定を戦後の肯定にまで引き継いでいることになる。
勿論、戦後に至っても肯定するにふさわしい戦前日本国家なら構わない。
だが、戦前日本国家は植民地解放を口実としたものの、自由獲得や独裁体制からの解放のために戦った戦争ではなく、自国植民地化か傀儡政権を通したを支配を目的とした戦争であった。
にみ関わらず、安倍晋三は靖国神社の戦死者を「国のために戦って斃(たお)れた人々」とその戦死行為を功績とし栄誉とすることによって戦前日本国家と戦死者を相互肯定している。昨年の12月26日の自身の靖国神社参拝を「戦犯を崇拝する行為」だとするのは「誤解に基づく批判」だと言いながらである。
戦後日本の現在に於いても、「国のために戦って斃れた」とすることが戦前日本国家とその国家が起こした戦争を肯定することになっていることに気づかない安倍晋三やその一派の判断能力を疑わざるを得ない。