最近当ブログにコメントを時折り寄せて頂いている「オオクニヌシ」さんから教えて頂いた氏のブログにアクセスしてみたら、「今回は、歴史認識について、うさきち様の記事を紹介します」と冒頭書いてあって、次の記事がエントリーされていた。
《「自虐」ではなく「自省」である》日本の未来を考える//2014-01-11 23:48:49)>
そこに「うさきち様の記事」として〈自己批判を止め、誇りを持ち、自尊心を高めると、高慢になる可能性が高まります。行政や企業は批判に耳を傾けず、自分は正しいと過信し、間違った道を突き進み、破滅へと向かうわけです。戦前の日本も原発事故の東電も病根は同じです。
自虐史観という造語を使うのではなく、人間なら自省史観を大切にすべきでしょう。〉との一文が紹介されていた。
確かに批判精神としての「自省」を忘れてはならないし、日本の歴史を振返るとき、批判的な目としての「自省史観」は欠かすことのできない歴史認識であると思う。
断るまでもなく、「自虐史観」という言葉は自国の歴史や過去から現在に至る文化を含めた制度、あるいは過去から現在までの日本の在り様全体を肯定一辺倒で解釈したり、他国のそれらよりも優れていると優越性を持たせた把え方をする側の日本人が逆にそれらを批判したり、否定的に解釈したりする側の日本人を非難する言葉として存在させている。
前者は当然、日本の国の姿に対する無誤謬意識を自らの精神に潜在化させている。無誤謬意識は優越意識を発展形とし、あるいは逆に優越意識を土壌として育成・成長させていく相互増殖の形をとる。
間違いのない国家も、間違いのない歴史も存在しないにも関わらず、このような精神構造を可能とする原因は自省精神(=批判精神)の欠如なのは言うまでもない。歴史に関して言うと、「自省史観」の欠如ということになる。
いわば自省精神(=批判精神)の欠如を土壌・背景として無誤謬意識と優越意識の相互増殖を誘発、結果として自尊精神(=自尊心)を肥大化させ、そのような心的状態で日本の国を間違いがない、優れていると見るから、なおのこと自省精神(=批判精神)を失っていく。
「自虐」という言葉自体は「自らを虐める、自らを痛めつける」という意味である。当然のことで、そのような意識で自分たちが間違いのない優れた国だとしている日本という国に向けられていると解釈しているのだから、国に対する自分たちの自尊精神(=自尊心)から言って、自虐史観だとしている言動には我慢ならないことになる。
このような精神的経緯から読み取ることができるのは「自虐史観」の対語として彼らの歴史を含めた認識に対して「自尊史観」という言葉を当てることができる。
そして戦前の日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識を日本人の代表者として一身に体現していたのが昭和天皇であるは言うまでもない。
このことは昭和21年1月1日発表の『新日本建設に関する詔書』」が何よりも証明している。
〈朕ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニモ非ズ。〉――
〈天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ(ひいて)世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス〉とする観念(日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識)を帝国日本国家と帝国国民は自らの自尊精神としていた。
だが、「自尊史観」が根づかせている戦前の日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識が一大国策とさせた無謀な侵略戦争と無謀の当然の結果としての無残な敗戦によって、〈天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ(ひいて)世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス〉る自尊精神が〈架空ナル觀念〉だと気づかせた。
にも関わらず、無残な敗戦を経た戦後の日本の国に於いても自省精神(=批判精神)を欠如させたまま性懲りもなく、日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識の自尊精神(=自尊心)に囚われ続けている「自尊史観」が跋扈している。
戦後日本の現時点でのその代表者は安倍晋三だろう。天皇を絶対的存在として信奉し、日本の歴史・伝統・文化のすべての中心に天皇を置いている。安倍晋三とその一派の靖国神社参拝にしても、「自尊史観」の主たる表現として行っているはずだ。
安倍晋三とその一派によって日本国のすべての中心的存在だと奉られている天皇の一人である昭和天皇は中心とは程遠い裸の姿を『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋・07年4月特別号)から読み取ることができる。
このことは日記に基づいて書いた2007年7月5日の当ブログ記事――《安倍首相みたいにバカではなかった昭和天皇(1)~(5) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》と2013年6月9日の当ブログ記事――《安倍晋三が日本の歴史を長大なタペストリーと見立て、その縦糸だと言う天皇の虚ろな実像(1)(2) - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
私のブログではなく、『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』を読めば、明治以降、自省精神(=批判精神)を欠いているがゆえに日本人の精神として培うこととなった〈天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ且日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ(ひいて)世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス〉とする日本民族優越意識=日本民族無誤謬意識をベースとした自尊精神(=自尊心)の危険性がこの上もなく読み取り可能となる。
この危険性は自虐史観の対語と位置づけることができる自尊史観の危険性そのものを指すことになることは断る必要もあるまい。