ケネディ在日米大使の浅田真央評価に欧米式褒める教育を見、森喜朗の浅田評価に日本式叱る教育を見た

2014-03-09 10:14:54 | Weblog

 

 キャロライン・ケネディ駐日米国大使の3月7日のツイッターに、〈浅田真央 ―「真のチャンピオン」です。〉と書き込んである。「NHK NEWS WEB」 記事によると、3月8日の「国際女性の日」に合わせた書き込みだそうだ。

 もし浅田真央がこの投稿を知ったなら、この上なく勇気づけられるだろうなと思った。今後氷上を滑るとき、この短い言葉を思い出してスタートを切ったなら、滑る自身の存在、あるいは自らの存在性に確かな手応えを感じることができるのではないだろうか。

 ケネディ女史のこの言葉は反射的に「神の国」森喜朗の浅田真央を評価した発言を想起させ、対置させることになる。

 スケート競技に無学ゆえ、インターネットで調べて、既に広く知られていることを書き記すことにする。間違っているかもしれないが、悪しからず。

 浅田真央はソチ冬季オリンピック・フィギュアスケートに日本の金メダル候補のエース として出場したが、2月8日(日本時間9日)の団体戦ショートプログラムで演技冒頭のトリプルアクセルに失敗して転倒、その後持ち直して浅田真央は3位につけものの、総合で日本は5位、どうにか個人戦に進むことができた。

 そして2月19日(日本時間20日未明)個人戦のショートプログラムでも転倒、そのことが尾を引いたのか、その後も会心の演技に程遠く、16位発進となった。団体戦に続く初っ端の転倒はショックが大きかったに違いない。

 だが、翌日のフリーの演技でショートプログラムとは打って変わったほぼ完璧な会心の演技で自己最高の142・ 71点をマーク、最終成績6位、メダルには届かなかったものの、ショックを切り変えて見事名誉回復を果たした。

 団体戦から11日後の個人戦ショートプログラムではショックの切り替えはできなかったが、ショートプログラムから翌日のショックの切り替えである。これを大きな進歩と評価するかどうかである。

 成績至上主義=金メダル主義に囚われていたなら、到底進歩とは評価できないに違いない。人間としての存在性・在り様(ありよう)を人間評価の基準とする立場からすると、進歩と把えることができる。

 森喜朗は2月20日の福岡市での講演で、最終結果を待たずに浅田真央ショートプログラム転倒16位の成績を以って彼女に対する評価とした。 きっと2020東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長の自負があったに違いない。会長として一言言わなければならないというお節介に過ぎない愚かしい自負が。

 否応もなしに成績至上主義=金メダル主義の悪臭を嗅がないわけにはいかない。

 その時の森発言はインターネットで詳しい発言を探して出会った記事を冒頭個所を除いて参考にする。

 《森 喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言書き起し》
荻 上チキ/Session-22/2014 年2月21日)

 〈あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。なんでなんだろうなと。 僕もソチ行って、開会式の翌日に団体戦がありましてね、あれはね、出なきゃよかったんですよ日本は。あれは色んな種目があって、それを団体戦で。 特にペアでやるアイスダンスっていうんですかね。あれ日本にできる人はいないんですね。あのご兄弟は、アメ リカに住んでおられるんだと思います確か。 ハーフ。お母さんが日本人で、お父さんがアメリカ人なのかな。

 そのご兄弟がやっておられるから、まだオリンピックに出るだけの力量ではなかったんだということですが、日本にはいないもんですから、あの方を日本に帰化させて日本の選手団で出して、点数が全然とれなかった。 あともう皆ダメで、せめて浅田さんが出れば3回転半をすると、3回転半をする女性がいないというので、彼女が出て3回転半をすると、ひょっとすると3位になれるかもしれないという淡い気持ちでね。

 浅田さんを出したんですが。また見事にひっくり返っちゃいまして、結局、団体戦も惨敗を喫したという。その傷が浅田さんに残ってたとしたら、ものすごく可哀想な話なんですね。団体戦負けるとわかってる、団体戦に何も浅田さんを出して、恥かかせることなかったと思うんですよね。その、転んだということが心にやっぱ残ってますから、今度自分の本番のきのうの夜はですね、昨日というか今朝の明け方は、なんとしても転んじゃいかんという気持ちが強く出てたんだと思いますね。いい回転をされてましたけど、ちょっと勢いが強すぎたでしょうかね。ちょっと転んで手をついてしまいました。だからそういうふうにちょっと運が悪かったなと思って見ております。〉

 自身が言っていることの矛盾 に気づかない頭の持ち主であることを曝している。

 〈彼女が出て3回転半をすると、ひょっとすると3位になれるかもしれないという淡い気持ち〉が日本チームの団体戦に於ける作戦だったとすると、彼女を出場させて3位狙いに行ったということで、〈団体戦負けるとわかってる〉とすることは矛盾以外の何ものでもない。浅田真央に3位を賭けたが、それが外れたに過ぎないことになる。

 前々から頭の悪い男だと思っていたが、治らないままに相変わらず頭の悪い男でいるらしい。

 日本チームが森喜朗の言うとおりに浅田真央の演技に賭けて団体戦で3位狙いに行く作戦であったかどうかは知るべくもないが、浅田真央は失敗を重ねながら、最後の最後にある意味自身を最大限に復活させた。

 メダルを獲得できなかった点からすると、成績至上主義=金メダル主義からは評価できない、否定すべき結果となるが、人間としての存在性・在り様(ありよう)を尊重する場合、十分に評価できる、肯定すべき結果と言うことができるはずだ。

 キャロライン・ケネディ女史の〈浅田真央 ―「真のチャンピオン」です。〉という「国際女性の日」に合わせた書き込みは浅田真央の人間としての存在性・在り様(ありよう)を最大限に賞賛した言葉・評価であろう。

  森喜朗が頭の悪い人間だけあって、最初のショートプ ログラム転倒16位という目先の成績のみで浅田真央という一個の人間を、「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」 と否定的に評価できたのは、人間としての存在性・在り様(ありよう)、特にその将来性には目を向けず、成績至上主義=金メダル主義にのみ目を向け、それに囚われていたからであろう。

 この森発言の成績至上主義=金メダル主義とキャロライン・ケネディ女史の人間としての存在性・在り様(ありよう)重視の姿勢を比較したとき、思い出したのは日本式の叱ることで能力を伸ばそうとする教育方法と褒めることで能力を伸ばそうとする欧米式の教育方法である。

 勿論、森発言が前者を成し、キャロライン・ケネディ女史のツイッター文が後者を成す。

 人間としての存在性・在り様(ありよう)はいずれの人間にとっても一生涯に関わることであるゆえに教育する立場にある者は教育対象者それぞれの将来に亘る長いスパンを見据えて、進歩や改善をキーワードとする必要が生じる。常に将来を見据えて進歩や改善を望むには目先の結果よりも次の結果を重視することになる。

 目先よりも次という構図は教育する立場にある者自身が教育対象者の何らかの能力に希望を持たなければ成り立たない構図を取る。自身が希望を持つためには教育対象者自身もまた、自身の何らかの能力に希望を持つという相互反映の形式を取らなければならない。

 教育する立場にある者と教育対象者がそれぞれに自らに希望を持ち、両者共に相手に対しても希望を持つという相互反映である。

 勿論、全てがうまくいくはずではないが、人間としての存在性、その在り様(ありよう)を重視して、褒めて希望を与え、勇気づけることが構造としては欧米式の褒める教育の本質を成しているはずだ。

 一方日本式の叱る教育は目先目先の成績を評価対象とする成績主義に立っているために目先の成績が悪いとその成績のみを取り上げて必然的に叱ることを本質的な構造の形とすることになる。

 例を挙げると、学校の運動部の選手の誰かが対外試合でプレーをヘマすると、顧問、あるいは監督の立場にある者が怒鳴りつけたり、最悪、観客の目や相手チームの目があるにも関わらず、自分のところに呼びつけて罵倒して平手打ちしたり、その選手の存在自体を否定するような行動を取る。

 選手が発奮して素晴らしいプレーに目覚めると、体罰を用いた日本式叱る教育はその場では成功したことになる。

 だが、顧問や監督の言葉や身体性の恫喝に対する従属から発した能力発揮であって、選手の自覚や主体性から生まれた能力発揮ではないから、人間としての存在性・在り様(ありよう)の教育となるかは極めて疑問となる。

 体罰が常態化する傾向にあることから考えると、教育とはなっていない証明としかならない。

 新聞記事が伝えていた3月7日のキャロライン・ケネディ駐日米国大使のツイッター、〈浅田真央 ―「真のチャンピオン」です。〉の書き込みに刺激を受けて、その発言と比較した頭の相変わらず悪い「神の国」森喜朗の浅田真央目先評価「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」から、西欧式の褒める教育と日本式の叱る教育を考えてみた。

 少なくとも森発言の言葉をどれ一つ取っても、浅田真央にどのような希望も与えなかったことは断言できる。当然、どのようにも勇気づける言葉とはならなかった。叱る気持を底に置いた発言となっていた。

 妥当な考察かどうかは読者に委ねるしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする