安倍晋三が3月23日、3月24・25両日開催のオランダ・ハーグ核安全保障サミット出席のため、政府専用機で羽田空港を出発した。現地ではサミットに合わせてウクライナ情勢に関する主要7カ国(G7)首脳会議や日米韓首脳会談も行われるという。
出発時の羽田空港での対記者団発言。
安倍晋三「唯一の戦争被爆国として、そして原子力先進国としてサミットに臨む。核テロ対策強化への日本の貢献を積極的に発信していきたい」(NHK NEWS WEB)――
「唯一の戦争被爆国」は日本のトレードマークとなっている。そこには何しろ戦争で原子爆弾を落とされた経験は日本だけだからといったニュアンスが込められている。その思いが、日本は他の国が経験したことのない唯一の核被害国だから、核問題について大いに発言権があるといった姿勢となって現れているはずだ。
日本の多くの政治家や評論家などが陥っているこのような一種の自負が安倍晋三の発言にも見て取ることができる。
経験の唯一性がある種の自負を生むことになる。
果たしてただ単に「唯一の戦争被爆国」であることを自らの経験として振りかざすだけでいいのだろうか。あるいは自負の側面でのみ「唯一の戦争被爆」の経験と把えて、だから悲惨な惨状を招くだけの戦争での核の使用には反対であると答を単純化させていいのだろうか。
物事には常に因果関係が存在する。原因もなく、「唯一の戦争被爆」という結果を招いたわけではない。その原因を検証しないままの「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化とその自負めいた振りかざしは被害者であることの位置づけのみを突出させることになる。
既にご存知のように米・英・中の三国が第2次大戦末期にエジプト・カイロで会談を開き、日本の戦後処理に関する連合国の基本方針を示す「カイロ宣言」を発した。
カイロ宣言はその最後で、「日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」と、日本の無条件降伏を戦争の最終目的とした。
そしてこのカイロ宣言はナチス・ドイツ降伏後のベルリン郊外ポツダムで開催され、1945年(昭和20年)7月26日に発せられた13条のポツダム宣言に受け継がれた。
ポツダム宣言の最後の13条に、カイロ宣言の最後と同じように、「我々は日本政府が全日本軍の無条件降伏を宣言し、かつその行動について日本国政府が示す誠意について、同政府による十分な保障が提供されることを要求する。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅のみ」と、日本に改めて無条件降伏を求めた。
ポツダム宣言発出の翌々日の1945年(昭和20年)7月28日、当時の鈴木貫太郎首相が記者会見で日本政府の態度を次のように表明することとなった。
鈴木貫太郎「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う。政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」(Wikipedia)
英米に対して戦争を継続するだけの能力を失っていたにも関わらず、無条件降伏によって懸念される「国体護持」(天皇制維持)の断固死守に執着していた軍部の圧力に屈し、ポツダム宣言を「黙殺」、戦争継続を宣言した。
1945年の主な歴史を振り返ってみる。
硫黄島の戦い(1945年2月16日~3月17日玉砕)
沖縄戦(1945年4月1日~6月23日)
ポツダム宣言――対日降伏勧告(1945年7月26日)
鈴木貫太郎首相「黙殺」の声明(1945年7月28日)
広島原爆投下(1945年8月6日)
ソ連、対日宣戦布告(1945年8月8日)
長崎原爆投下(1945年8月9日)
ソ連、対日開戦(1945年8月9日未明)
ポツダム宣言無条件受諾(1945年8月14日)
玉音放送(1945年8月15日)
日本の運命は既に始まっていた破局から1945年7月28日の鈴木貫太郎首相の「ポツダム宣言黙殺」の声明と軍部の「国体護持」の執着によって最終章の破局に向かって慌ただしく急転直下の変化を迎えることとなった。
こう見てくると、一種の自負を帯びさせることとなっている、トレードマーク化した「唯一の戦争被爆国」の経験――広島・長崎の2度の原爆投下は否応もなしに日本の「ポツダム宣言黙殺」と軍部の「国体護持」の執着の代償の色合いを帯びることになる。
となると、戦前日本の政治と軍部の在り様を原因とし、その結果としてあった、あるいは言葉を替えて言うと、戦前の日本の政府と軍部が加害者でもあった広島・長崎への原爆投下と位置づけることが可能となり、当然、その因果性を検証しないままの「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化、一種の自負経験はまさに滑稽な倒錯性から発しているとしか言い様がなくなる。
安倍晋三は元々戦前日本の戦争肯定論者である。滑稽な倒錯性は既にこの歴史認識に発している。その延長線上にある「唯一の戦争被爆国」のトレードマーク化、一種の自負経験の滑稽な倒錯性と言うことであるはずだ。