ニ之湯自民参院議員の「子供産むのは国家への貢献」の考え方は産む・産まないで国民を選別する国家主義思想

2014-03-15 03:44:53 | Weblog




      《生活の党PR》

      《3月16日(日) 主濱了生活の党副代表NHK『日曜討論』出演ご案内 》

      内 容
      ○平成26年度予算案と日本経済について
      ○集団的自衛権について      
      ○参議院のあり方について等  

 自民党の二之湯智参院議員が 3月12日 (2014年)参院本会議での少子化問題をテーマとした代表質問で「子供を産み、立派に育てることが国家に対する最大の貢献」 とする趣旨の主張を用意していたが、公明党を含む与党としての代表質問であったため、公明党から党の政策と相入れないと修正のクレームが入って、 自民党が応じて修正することになったと伝えている記事に出会った。

 《「子供産むのは国家への貢献」 公明指摘で自民代表質問から削除》MSN産経/2014.3.13 00:42)

 この国家主義は安倍晋三の国家主義と極めて近似性がある。

 記事によると、二之湯参議員の代表質問原稿案には「結婚しているのに子供を持つことが社会人としての義務だと考えない人たちが増えている」との主張も用意していたらしい。

 まさか「社会人としての義務」から子どもを持つわけではあるまい。もし結婚女性がそうすることが「社会人としての義務」とされた場合、子どもを産むことのできない身体の女性は「社会人としての義務」を果たすことができないことになって、社会的不適格者としての烙印を押されかねない危険性を抱えることになる。

 戦前の産めや増やせの時代、それに応えて国民としての義務を果たすことのできなかった女性が肩身の狭い思いをしたと聞く。男性の場合、〈徴兵検査に不合格とされた障害者は「戦う」ことの出来ない身体(あるいは精神)を持つがゆえに、「国賊」「非国民」呼ばわりされた。〉という一節を、『戦争が創り出す「精神障害」者-清水寛編著『日本帝国陸軍と精神障害兵士』へのオマージュ-』と題したインターネット記事が紹介している。

 国賊・非国民呼ばわりをされた身体障害者の中には国民としての義務を果たすことができない思いから、自分から自分を人間的に貶めて、陰湿な生活を送らなければならなかったこともあったと聞く。

 未婚女性にしても、前以て調べることができるのかどうかの知識は持たないが、自身の子どもを生む能力の有無を医学的に調べて貰ってからではないと、結婚できないことになる。結婚をしたはいいが、子どもがなかなか授からなかった場合、社会的不適格者の烙印が目に浮かぶことになって、焦ることになるだろし、そのストレスから、精神を病むことにならない保証はない。

 社会的不適格者とされた場合、社会に居場所を失う。いわば若い男女に対して「子供を持つことが社会人としての義務」とした場合、その「義務」は子どもが授からない男女から社会的居場所を奪う義務となる。

 そのような義務は基本的人権上、許されるだろうか。その義務は基本的人権に反する義務でもあるということである。 

 「子供を産み、立派に育てることが国家に対する最大の貢献」 という考え方はそうすることのできる国民のみを国家への奉仕者に位置づけ、栄誉とする最大の国家主義思想に他ならない。

 なぜなら、「国家に対する最大の貢献」は国家に対する最大の奉仕によって成り立ち可能とする構図を必然化させることになるからだ。“奉仕”によって「貢献」がつくり出される。

 【奉仕】「国家・社会・目上の者などに利害を考えずに尽くすこと」(『大辞林』三省堂)

 子どもを産み育てることが国民による国家への奉仕の一つ大きな手段であり、それを果たしたとき国民は国家への「最大の貢献」として評価を受けることになる。

 上に「最大の貢献」を置いたとき、下にその正反対の評価を置くことになって、結果的に国家は出産と育児をモノサシとして国民を社会的適格者か社会的不適格者かを選別することになる。

 このことだけで十分に国家主義であるのに、選別が他の営みにまで広がって、国家が決めた義務づけのモノサシによって規制しない保証はない。それが国民生活・国民行動の全てに亘って国民を選別したとき、恐ろしいまでの全体的な国家主義が出現することになる。

 安倍晋三にしろ、国家主義者はそうしたい衝動を常に抱えている。二之湯参議員の場合、代表質問で用意した主張がその現れだったのだろう。

 国民ではなく、国家を主体に置くことから国家主義が生まれる。

 国家がなすことができることは国民が満足のいく形で出産し、育児できる経済的環境や医学的環境、あるいは社会的環境の構築であるはずである。そして出差に恵まれない男女に対する差別のない社会の構築でであろう。

 国家ではなく、国民を主体とすることによって国家はそれぞれの環境の構築を自らの役目とする。

 出産・育児に課す国家的義務は基本的人権に反する義務だと既に書いたが、二之湯参議員の出産・育児で国民を選別する国家主義思想が誰にでも保障されている基本的人権の差別となって現れることは、出産・育児で否定的な選別を受けた国民が思想・信条の自由等の基本的人権を思いのままに発露することができない危険性を抱えることによって証明され得る。

 いわば肩身の狭い思いは基本的人権の保障にまで及び、それを阻害し、制限させることになるだろう。戦前の「非国民」呼ばわり、「国賊」呼ばわりが、「子どもも産めないのに偉そうなことを言うな」、「一人前の顔をするな」といった非難に変わることもあり得る。

 戦後日本が民主主義を得て70年近くも経った今日、安倍晋三や二之湯のような国家主義の生きた化石が存在する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする