安倍晋三と新藤義孝の3月12日参院予算委、長谷川三千子憲法観擁護の小賢しき頭の悪さ

2014-03-17 05:56:18 | Weblog



 公共放送・外交安保をテーマとした3月12日予算委員会集中審議。

 小西洋之「長谷川三千子さんをNHK経営委員に任命された、その理由をご答弁ください」

 安倍晋三「放送法上ですね、経営委員の選任に当たりまして、公共の福祉に関し、公正な判 断をすることができ、広い経験と知識を擁する者のうちから、教育・文化・科学・産業といった分野等を考慮して、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命することとなっています。

 現在経営委員の方々は、そのよう手続きに従って、適切に専任されているものと認識しております。なお、長谷川氏につきましては、我が国の思想・哲学のあり方を探求した著作活動を行い、著名な哲学者・評論家としても活躍をしており、文化等の分野についてですね、広い経験と知識を有していることから、専任されたと認識しているところでございます。

 長谷川三千子氏は昭和61年に発表した『からごごろ―日本精神の逆説』を中心に言語を主体として我が国の思想や哲学のあり方を探求し、えー、平成8年に発表した『バベルの謎―ヤハウィストの冒険』 、えー、に於いてですね、文化賞を受賞するなど、その著作は高い評価を受けているところでございます。

 我が国を代表する哲学者・評論家として、えー、えー、活躍しているわけでございまして、えー、このような観点からですね、公共放送の、公共放送機関の構成委員として、その手腕が発揮されることが期待されるためですね、えー、日本放送協会経営委員として同氏を任命したところでございます」

 小西洋之「総理、答弁が非常に長くございます。

    (一部省略)

 今の総理の答弁は国民の皆様に対して大きなゴマカシがございます。適切に専任されたと認識しているとおっしゃっていますけども、法律上、この経営委員を任命しているのは安倍総理、ただ一人でございます。

 放送法の任命権者はこの日本でただ一人、安倍総理が全責任を持って任命しているんでございます。国会は同意権を持っていますけどんも、任命権は持っておりません。国民の皆さんをゴマカさないようにお願いします。

 今、安倍総理は我が国を代表する評論家、哲学者であるとした上で長谷川三千子氏を任命した言っておりますけども、その長谷川三千子氏、実は驚くような発言を色々な所で発言をされております。調べさせて頂きましたが、パネルをご覧頂けますでしょうか。


 長谷川三千子氏発言

 「日本国憲法は全くめちゃくちゃな憲法なのです」2011年4月20日産経新聞社刊

 「日本国憲法というものが日本の近代史に於ける最大の汚点であることをはっきりと見つめ、 そこに盛り込まれた民主主義イデオロギーの虚構をあばき、われわれの『建国ノ体」にもとづく憲法をしっかりと作り直すこと――地味なようでも、これ以外の正道はないだろうと思っています。

 長谷川三千子他『激論 日本の民主主義に将来はあるか』(岡崎久彦との対談)など著書で主張しており、また、「大日本国憲法は改正する必要がなかった。むしろ、GHQは大日本国憲法よりも劣るアメリカ合衆国憲法を改正するべきだった」などの主張を行っている。

 小西洋之 「『日本国憲法は全くメチャクチャな憲法なんです』

 これは昨年4月の産経新聞長官への投稿でございます。

 『日本国憲法というものが、日本の近代史に於ける最大の汚点である』

 これは近年、2012年の著書であります。長谷川三千子さんのご著書であり、私は長谷川三千子さんの著書を、今総理がおっしゃったことを含 め、国会図書館から10冊あまり集めました。10冊以上集まりま したけども、全部目を通させていただきました。

 こういう方がこの世にいらっしゃるんだということは私は驚きま した。 どのような思想の持ち主がいらっしゃったとしても、それは構いません。思想・信条の自由がございますから。

 しかし国民の皆様の受信によって支えられている公共.

この長谷川三千子さん、実はですね、日本国憲法の3大原則の一つである国民主権を全く間違った思想だと、色んな著書でおしゃっています。だ か ら、メチャクチャな憲法だそうです」

 次のパネルを掲げる。 

 長谷川三千子氏の主張

 三 大日本国憲法の性格・・・・帝国憲法における国民の自由の保障が少なくともアメリカの憲法におけるのと大差ない水準のものであった。

 四 改正の必要がなかった大日本帝国憲法

 「第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」

 ・・・・帝国憲法の自由の保障は不十分であり、改正の必要があると言ふならば、占領者たちは自国の憲法の方をまづ改正する必要がある。・・・・・

 ・・・・合衆国は『言論の自由」については、それを間接的に保障するお粗末な一条があるにすぎない。

 ・・・・合衆国憲法修正第4条・五条・・・・と、帝国憲法の第二十二条から第二十七条までを比べてみても、・・・・帝国憲法の人権規定は少しも見劣りするものではない。

 小西議員「日本国憲法が近代最大の汚点とおっしゃるけれども、天皇を中心として建国ノ体に基づく憲法を作りますともおっしゃっておるます。

 また、別の発言もなさっております。『改正する必要がなかった大日本帝国憲法』

 大日本帝国憲法が改正する必要がなかった。しかもその理由が凄いでございます。合衆国憲法よりも、アメリカ合衆国憲法よりも、大日本帝国憲法は 人権保障の意味に於いて水準が高かったんだと。

 占領軍のGHQの方々は日本に大日本帝国憲法を改正する、これはポツダム宣言の要求でもございますけども、それを要求するくらいだったら、 自分たちの国の憲法を変えろ。

 しかも戦前NHKも苦しみました。苛烈な治安維持法を始めとする法律のもとで苛烈な言論弾圧を加えたあの大日本帝国憲法第29条。『法律の範囲内において言論の自由を有す』

 法律さえ定めれば、何でもできる。そうした憲法をそれを変えなくていい。そしてアメリカ合衆国憲法を、立憲主義に基づく近代憲法の魁(さきがけ)の憲法でございます。今は世界でも随一の言論・報道の自由を保障した憲法でございます。この条件でも、劣るものがあると言っているわけであります。

 安倍総理に伺わせていただきます。要するに長谷川三千子さんという、あなたが任命したNHKの経営委員は日本国憲法を近代史の最大の汚点であると。つまり日本国憲法を否定し、大日本帝国憲法を肯定し、しかも合衆国憲法を否定しているわけでございます。

 今の資料、既にアメリカ大使館の方に提供させて頂いております。あなたの答弁はアメリカ政府、アメリカ国民も見ております。先程おっしゃったように日本を代表する評論家・哲学者、合衆国憲法を否定する方はそういう方なのか。

 そして放送法上の経営委員の任命要件。こういう方が公共放送について公正な判断ができる方なんですか。明確にご答弁ください」

 安倍晋三ではなく、新藤義孝総務相が手を上げて、委員長から指名を受けたため、一悶着。

 新藤義孝「いいですね、これ事実確認したいと思います。事実の確認をしたいから、聞 いてください。先ず大西・・・・。小西さんだっけ?小西さんがですね、あなた、自分の説ばっか言わないで、人の話もちゃんと聞いた方がいいと思いますよ。ね、いいですか。

 先ず、(小西)委員が引用した『この日本国憲法はメチャクチャな憲法なのです』と。これは全部理解しなければいけないと思うんです。『それは国家が一切の力を放棄するという日本国憲法の平和主義は国家主権の放棄であり、そこでは国民主権が成り立たないどころか、近代憲法自体が成り立ちません。国民の基本的人権も守ることも不可能になります』 と。
 
 だから、『基本的人権を守るためには、この憲法はまだ物足りないんではないか』ということを主張しているのであって、基本的人権を大切だって言ってるんで す。

 それから国民主権を否定しているというのは、それは元々から言うと、『フランス革命に於いて王様を殺して国民が権力を奪うのは正義だという思想に基づく問題のある政治原理なのではないか』と。だから、こういうことに関しては『国民主権は成立しないのではないか』。だから、『基本的人権は大切だ』と、こういうことをおっしゃってるわけなんです。

 それで先程総理がですね、全責任を持ってとおっしゃいましたが、総理が任命する際には国会の同意を経ているわけであります。これ民主主義の最大のルールを持ってやっているわけでありまして、それをですね、適正ではないと言われると、私は法律・制度をきちんと理解して頂きたいと、私はこういうふうに思っているわけであります」

 安倍晋三「ただ今小西委員が質問の中でですね、『こんな人が存在することは信じられない』、私は驚いて今、委員の言葉を聞きました。自分の決めてかかる考え方と違う人の存在を許さない。そういう考え方は私はびっくりしたわけでございます。様々な考え方の人たちが、この世の中に存在するわけでありまして、当然、私と違う考え方方もおられる。しかし私は、そんな人が存在するとは思わないなどということは、露程も思いません。

 そう思うべきではないと思っているから、であります。つまり、そのような、そういう自分と考え方の違う存在は許さない。そうした狭量な考え方自体、私は極めて問題であろうと、極めて危険なものを感じていると言わざるを得ないわけでございます。

 その上に於きまして、その上に於きまして、いいですか、よろしいですか。その上に於きまして、例えば長谷川委員からのですね、これ説明でございますが、えー、それは経営委員の議事録にございます。

 『NHKが真の意味の公共放送としての役割を果たすことができるようにお手伝いするための基本姿勢は常に根本のところから考えるということ。常に根本から物事を考え、是々非々判断をし、その論理に於いて常に反対意見にも耳を傾け、本当の議論を心がけたい。これが研究・執筆活動に於ける基本姿勢だが、その結果として殆どの場合、私の辿り着 先は常識的見解と一致しない。

 しかしむしろそのような常識を疑って見る目というものが公正・中立を旨とするNHK経営委員のお役に立つと信じ、放送にも経営にも全く素人である私がNHK経営委員会の委員をお引き受けをしました』

 このように述べているわけでありまして、小西さんは自分と考えの違う存在は信じられないわけでありますが、長谷川さんには予めそういう人もいる。しかし、自分の考えをそん中で述べてみることにも意味があるではないかと、いうことを述べられているわけであります。

 繰返しになりますが、小西さんは自分の考え方と違う人がこの世に存在することに驚いたと言ったわけでありました。私は小西さんその発言に大変驚 いたわけであります」

 してやったりと思ったのか、自身の能力を信じる人の善さそうな笑みを浮かべる。

 小西議員は、「違う考えを持つ存在を許さないといったわけではない。どのような思想の持ち主がいらっしゃったとしても、思想・信条の自由が ございますからと既に断っている」といったことを言って反論したが、最後まで追及し切れなかったことと、新藤義孝と安倍晋三の小賢しさ加減を証明するにはここで紹介するそれぞれの発言だけ十分ゆえに、後は省略する。

 それにしても、小西議員は長谷川三千子の書物を国会図書館から10冊以上借りてきて読み通したとか、安倍総理の答弁はアメリカ政府とアメリ カ国民が見ておりますなどと余分なことを言い過ぎる。

 問題は読んだ情報から如何に的確な追及の言葉を紡ぎ出すことができるかどうかであって、できなければアメリカ政府とアメリカ国民が如何に注視していようと意味を成さない。

 長谷川三千子がどのような言葉を使って具体的にアメリカ合衆国憲法が「大日本国憲法よりも劣る」と解釈したのか、「帝国憲法における国民の自由の保障が少なくともアメリカの憲法におけるのと大差ない水準のものであった」と結論づけたのかは知らないし、知ろうとも思わない。

 憲法が描く国家・国民と社会の現状としてある国家・国民との関係は憲法が描く国家・国民をカガミとして社会の現状としてある国家・国民を映し出す関係にあるはずである。

 その逆では決してない。いわば社会の現状としてある国家・国民の姿が憲法が描く国家・国民の姿の実際を物語ることになる。

 憲法がどのような美しい言葉を連ねて基本的人権の保障を謳おうと、あるいは逆に素っ気ない短い言葉を記すだけであったとしても、社会の現状としてある基本的人権の質・程度を見れば、憲法が描く基本的人権の保障の実際を知ることができるということである。

 小西洋之議員によると、長谷川三千子は帝国憲法の第二十二条から第二十七条までが描く人権規定は合衆国人権規定と「少しも見劣りするものではない」と言っているそうだが、それが事実かどうかはアメリカ社会の現状としてある国家・国民の姿と戦前の日本社会の現状としてあった国家・国民の姿を比較すれば判定がつくことになる。

 日本の明治時代から敗戦までの社会の現状としてあった基本的人権の保障の状況から現実としての国家と国民の姿を見通して、大日本国憲法の人権規定が の程度のものであったかを見てみる。

 「大日本帝国憲法」 は明治22 年(1889年)発布、翌年の明治23年(1890年)発効となっている。明治半ばのかなり遅い時期である。

 だが、出版物を検閲し、その取締まりを目的として言論統制を謀ることになった「出版条例」は明治2年(1869年)5月に行政官達として布告された。いわば明治の国家権力は社会・国民の取締まりから入ったのである。社会・国民の取締まりありきで明治という時代を出発させたと言うことができる。

 そして明治22年(1889年)の「大日本帝国憲法」の発布である。

 長谷川三千子が合衆国憲法と人権規定の点で劣らない根拠と して上げている帝国憲法の第二十二条から第二十七条までを見てみる。

 第 二十二條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ居住及移轉ノ自由ヲ有ス

 第 二十三條 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問處罰ヲ受クルコトナシ

 第 二十四條 日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ權ヲ奪ハルルコトナシ

 第二十五條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク 外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及搜索セラルルコトナシ

 第 二十六條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ祕密ヲ侵サルルコトナシ

 第 二十七條 日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルルコトナシ

 いずれも国家権力が制定する一般法の規定内の人権の保障となっている。と言うことは、国家権力次第の人権の保障となる。

 なぜ長谷川三千子が「第二十八條」と「第二十九條」を抜かしたのか、あるいは抜かしていなかったのかは分からない。

 第二十八條 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス

 第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス

 いずれの基本的人権上の「自由」にしても、国家権力が規定する「安寧の秩序」、あるいは国家権力が制定・規定する「法律」の範囲内のものとなっている。

 その「安寧の秩序」や「法律」に当たるのが、そのハシリとしてある「出版条例」であった。

 アメリカ合衆国憲法「修正第1条 連邦議会は、国教の樹立をもたらす法律、もしくは自由な宗教活動を禁止する法律、あるいは言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を縮減する法律を制定してはならない」(1791年)となっていて、大日本帝国憲法とは逆に基本的人権の自由を規制する如何なる法律の制定も禁止している。

 そして明治22年(1889年)の「大日本帝国憲法」発布から4年後の、明治26年(1893年)に「出版条例」を引き継いで、「出版法」が公布された。検閲を通して、一段と言論統制が強化されたという。 

 さらに明治42年(1909年)になって新聞を検閲し取り締まる言論統制としての「新聞紙法」が公布された。

 このような検閲・言論統制の頂点として、大正14年(1925年)の「治安維持法」がある。無政府主義者や共産主義者の活動に対する安寧秩序維持のための特別刑罰法規だということだが、宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧の対象となっていったとう。

 この弾圧は当然、言論の自由、思想・信条の自由に対する抑圧、あるいは統制を含む。

 大日本帝国憲法は自らが描いている国家・国民をカガミとしてこのような社会の現状――国家・国民を映し出していた。弾圧する国家権力と弾圧される国民の姿である。

 国家権力による言論の自由や思想・信条の自由等の基本的人権の保障に関わる自由に対する抑圧・統制と、それを受ける国民の姿・社会の姿である。

 当然、大日本帝国憲法の規定・文言をどう読もうと、どう解釈しようと、社会の現状としてある国家・国民の姿をカガミとすれば、そこに大日本帝国憲法の人権規定に関わる実際の姿を映し出すことができる。

 では、次に新藤義孝の答弁と安倍晋三の答弁の妥当性を見てみる。

 新藤義孝は長谷川三千子が言う「国家が一切の力を放棄するという日本国憲法の平和主義は国家主権の放棄であり、そこでは国民主権が成り立たないどころか、近代憲法自体が成り立ちません。国民の基本的人権も守ることも不可能になります」の主張を支持しているが、確かに日本国憲法は「戦争の放棄」を謳っているが、外交と経済活動まで放棄したわけではない。国民主権に基づいて国家(主権・領土・国民)を外交と経済力で守る責任を国家と国民は負った。

 当然、日本国憲法の平和主義が直ちに国家主権の放棄に当たるわけではないし、国民主権の不成立に直結するわけではない。長谷川三千子がもし「大日本国憲法は改正する必要がなかった」と主張しているとしたら、新藤が長谷川三千子の主張を代弁して、「基本的人権を大切だって言ってるんです」は大日本国憲法下の社会の現状としてあった基本的人権の否定的状況を見た場合、虚偽の言葉と化す。

 あるいは「基本的人権を守るためには、この憲法はまだ物足りないんではないか」が外国に武力的支配を受けた場合の基本的人権の侵害を言っているのだとしたら、それは別の問題である。国民の基本的人権の保障は現憲法で十分であるし、21世紀の今日、他国侵略は世界が容易には許さない状況にある。

 もし許す状況にあったなら、中国は尖閣諸島をとっくに侵略し、実効支配していただろう。

 他国侵略を世界が容易には許さない状況を守り通すためにも、安倍晋三はそれを崩す懸念があるロシアのクリミア軍事的制圧に対して高い代償がつくことを知らしめるために制裁をも手段とした厳しい態度を示すべきだが、そのような大局よりも北方四島問題を優先させて、口で平和的解決を言うだけとなっている。

 新藤義孝は自らの解釈もなしに単に長谷川三千子の主張の小賢しいだけの受け売りをしているに過ぎない。そして長谷川三千子は大日本帝国憲法制定下の社会の現状としてあった基本的人権の状況を見ずして、条文だけを見てその人権規定の程度を解釈しただけと看做さざるを得ない。

 安倍晋三は得々と小賢しげに小西議員が「自分の決めてかかる考え方と違う人の存在を許さない」姿勢を取っているかのように発言しているが、小西議員は「どのような思想の持ち主がいらっしゃったとしても、それは構いません。思想・信条の自由がございますから」との条件付きのもと、「こういう方がこの世にいらっしゃるんだということは私は驚きました」と単に極めて特異な考え方の持ち主――そのような存在に驚いたに過ぎない。

 そして、既に触れたが、「こういう方が公共放送について公正な判断ができる方なんですか」とNHK経営員としての資質を問い質したに過ぎない。

 それを安倍晋三は「自分と考え方の違う存在は許さない」と勝手に決めつけて、「そうした狭量な考え方 自体、私は極めて問題であろうと、極めて危険なものを感じている」と頭がどうにかなっているのではないかと疑いたくなる批判を展開し、そうでありながら、、最初の「自分の決めてかかる考え方と違う人の存在を許さない」とした決めつけをどこかに置き忘れて、「繰返しになりますが、小西さんは自分の考え方と違う人がこの世に存在することに驚いたと言ったわけでありました」と、今度は正確に「驚いた」こととして取り上げたものの、それが単に極めて特異な考え方の持ち主――そのような存在に驚いたに過ぎないことだと合理的に判断する力を持たずに、「私は小西さんその発言に大変驚いたわけであります」と、見当違いな小賢しいばかりの驚きの表明で締めくくった。

 この小賢しいだけの頭の悪さ――判断能力の欠如はこの男の特徴でもあるが、自分では有能な雄弁家だと思っているから始末に負えない。

 長谷川三千子は確かに立派な哲学書や評論を書くかもしれないが、それは言葉を紡ぎ出す能力に負った成果であって、決して国家・社会の現状から汲み出した能力からの成果であるようには見えない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする