NHK会長の籾井勝人が12月3日の定例記者会見中、NHKの「クローズアップ現代」の番組に過剰演出があった問題で自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼んで事情聴取したことを記者に問われて答えている。
籾井勝人「圧力ではなかった。我々は不偏不党でやってますから、自民党だろうが野党だろうが説明に来いと言われたら行く。そこでこの番組はどうだと言われたら『聞けません』と言う。
(BPOの自民党側に対する批判について)コメントは差し控えたい。(自民の聴取について)番組について我々がプレッシャーを受けたということはない。これを言うと、また籾井は自民党寄りだと言われるかもしれないが、事実を言うと説明に行っただけ。圧力ととらまえるのは考えすぎでは」(asahi.com/2015年12月3日19時08分)
要するに事情聴取は番組制作に関わる圧力ではなかった。圧力と解釈するのは考え過ぎで、例え圧力があったとしても、「聞けません」と跳ね返すと言うことなのだろう。
圧力問題が出てきたのはご承知のように番組を審査したBPO(放送倫理・番組向上機構)が自民党の調査会がNHK幹部を呼んで事情聴取したことと、筋金入りの右翼、総務相の高市早苗が文書で行政指導したことに対して政権党による圧力であり、厳しく非難されるべきだと批判したことによる。
だが、籾井勝人は「圧力ではなかった」と言っている。
自民党側にしても圧力とはっきりと分かる露骨な圧力を見せるわけはない。見せたりしたら、野党や国民から批判されて、逆に窮地に立たされることになる。そこは狡猾に振舞うだろう。
自民党側は常に政権党としての国家権力を背負って行動する。この点、野党が同じ行動を取ったとしても、異なることになる。結果的に他愛のない話で済んだとしても、問題視されている事柄を国家権力を担った者として検証する姿勢で臨むことになるから、結果はどうであれ、姿勢自体は自ずと国家権力で律する力学・意思を前提とする。あるいは律しようとする力学・意思を前提とする。
力学・意思を“思い”という言葉に変えてもいい。
国家権力で律する、あるいは律しようとする思いを前提とする。
それだけで十分である。このような遣り方を誰も批判して止めなければ、前提とした姿勢で一度臨むことができれば、自分たちが問題視したい放送問題に同様の姿勢で臨むことを慣習とすることができるからだ。
いわば何かあったら、いつでも我々は検証するぞ、黙っていないぞ、という国家権力側の姿勢を暗黙的に示すことができるし、そのような姿勢自体が意図せずとも圧力であり、圧力となる。
暴力団員が自分たちが縄張りとしている飲食店に顔を出す。その店が暴力団と馴れ合っている店ではなく、暴力団排除を意思している店であるなら、例え一人切りの来店で、特別なことを喋らずにただ単にビールを何杯か呑んで店を出たとしても、あるいは逆に客とバカっ話に興じたとしても、組員がそこに存在するだけで暴力団の属性を知らしめて圧力となるのと同じである。
一度顔を出せば、暴力団排除を牽制する圧力として引き続いて顔を出すことになるだろう。何をするか分からない存在として常に自分たちを意識させること自体が圧力となる。
高市早苗が文書で行政指導したことも、自民党の調査会がNHK幹部を呼びつけて事情聴取したことも、報道内容に干渉することのできる国家権力という存在を意識させる点、暴力団が自分たちの存在を意識させる圧力と何ら変わりはない。
圧力ではないとする籾井勝人の認識は権力側に位置しているからだろう、甘い。
BPOの報告書、《NHK総合テレビ『クローズアップ現代』“出家詐欺”報道に関する意見》(2015(平成27)年11月6日 放送倫理検証委員会決定 第23号)で番組制作は放送局の自律性に任せるべきで、番組内容に問題があると判断した場合はBPOの調査と放送局の改善策に任せるべき個々の問題だいった趣旨のことを述べているが、まさにそのとおりなのだが、自民党側は当然のことだが、誰もが圧力を否定している。
菅義偉「総務省による行政指導は、NHKの取りまとめた調査報告書において放送法に抵触する点が認められたことから、放送法を所管する立場から必要な対応を行ったということだ。
今回BPOは、放送法に規定する番組を編集する際の順守事項を単なる倫理規範であるとしているが、これは放送法の解釈を誤解しているものであり、(圧力だとする)今回の指摘はあたらない」
谷垣幹事長「放送は新聞などと違い、貴重な電波を使っており影響力も極めて大きい。報道の自由があるから、一切『やらせ』に対して口をつぐんでいるのがよいとは思わない。おいでいただいて実情を聞くことはある」
要するに「おいでいただいて実情を聞」いたとしても、報道の自由に対する圧力ではないと否定している。
例え番組に不適切な内容があったとしても、それによって名誉を棄損されたなら、棄損された者が名誉毀損で裁判に訴え出て決着をつけるか、内容のみが過剰な演出であったり、事実に反していたりする不適切があった場合は放送局の調査委員会が調査するか、最終的にはBPOが審査してその不適切を認めたなら、放送局に改善を指示し、放送局はその指示に従って適切な改善を施していく自律性にこそ任せるべきで、その自律性を阻害する如何なる権限も、例え国家権力を握っていたとしても、ないはずである。
にも関わらず、高市も自民党調査会も政権党としての国家権力を背負って行動する自分たちの属性を弁えもせずに自分たちの存在といつでも乗り出す姿勢の、否応もなしに圧力となる暗黙的な知らしめを正当性を装いながら演じる。
少なくとも報道の自由に対する圧力の影を持たせている。
上記BPOの報告書は放送法の第1章第1条第2項の「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」について、〈しばしば誤解されるところであるが、ここに言う「放送の不偏不党」「真実」や「自律」は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではない。これらの原則を守るよう求められているのは、政府などの公権力である。〉と解釈しているが、確かに「保障」するのは国家権力であるが、放送局側は“保障される”ことによって、「不偏不党、真実及び自律」を守る義務と責任が生じる。
国家が保障して、保障される側が守らななくてもいい、守る義務も責任もないでは国家の保障は有名無実となる。基本的人権について考えれば理解できる。国家が国民の思想・信条の自由を保証する以上、国民はそれを守る義務と責任を負う。
つまり放送局は「不偏不党」に縛られていることになる。勿論、国家権力によってではなく、自律的にである。基本的人権について言うと、国民一人ひとりが自律した個人として基本的人権に縛られていることになる。
不偏不党は思想・信条の自由といった基本的人権の点からも、マスメディアが国家権力の監視を役目の一つとしている点からも、人間の自然性の点からも反していて、放送法を改めるべき時が来ているのではないだろうか。
政治的な思想・信条を自由に表現していいとしたなら、放送局自体が、あるいは番組自体がそれぞれに政治色、あるいは党派色に別れることになって、視聴者は自身の気に入る政治色、あるいは党派色の番組を見れば済む。