長谷川三千子の安倍晋三のお友達らしい最高裁大法廷民法の夫婦別姓は認めない規定は合憲判決に賛同の合理性

2015-12-18 09:53:58 | Weblog



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《12月17日 主濱了副代表は国会内で連合の逢見直人事務局長ら役員から当面の経
      済運営及び予算編成等に関する要請を受け、意見交換を行う》
    

 安倍晋三によってNHKの経営委員に送り込まれた埼玉大名誉教授(哲学)の長谷川三千子が今回の最高裁大法廷が民法の夫婦同姓の規定は合憲、別姓を認めていないのは違憲ではないとの判断を示したことに対して賛同し、高く評価している。

 安倍晋三や高市早苗、稲田朋美等と同じ立場であるのは当然だろう。何しろ歴史認識に於いても家族制度の思想に関しても、みんなお友達なのだから。

 以前、ブログに書いているが、長谷川三千子は東京都渋谷区が同性カップルに「結婚に相当する関係」を認めるパートナーシップ証明書の発行を盛り込んだ全国初の条例案を2015年3月1日に区議会に提出した際、同性同士では子どもを生むことができないという観点から、同性婚にも反対していた。

 長谷川三千子「実はもともと、同性愛を堅苦しく禁じてきたキリスト教文明とは違い、われわれの文化では同性愛についての違和感は薄い。問題は同性愛を結婚という制度に結びつけることにある。

 忘れてならないのは、人間も生物なのだということ。地球上に生物が誕生し、少なくとも5億年前から有性生殖が始まった。もし有性生殖が始まらなければ、生物の進化もなく、人類が誕生することもあり得なかった。われわれは5億年の有性生殖の歴史を背負って生きている。言い換えれば、われわれもまた雄と雌とが一緒にならないと次の世代を生み出せない生物なのだということ。そして、次の世代が生み出せなければ、人類はたちまち絶滅する。この生物としての宿命を制度化したものが結婚制度であると私は思う。それを考えると、同性婚とはまさに生物5億年の歴史に逆らう試みといえるでしょう。

 結婚を認めろと主張する同性カップルには、どうしてあなた方は『結婚』にこだわるのですか、と聞き返したい。家族制度とは何を本質とするものなのかをしっかりと考えてほしい。人間以外の生物は、家族制度などというものがなくても次の世代を維持してゆくことができる。ところが、いわゆる本能の力が衰えてしまった人類は、慣習や制度の力を借りて、かろうじて生物としての存続を維持している。そのことを忘れて勝手に制度をいじったりすると、自然から手痛いしっぺ返しを受ける。実は少子化の問題もここにつながっている」(産経ニュース/2015.3.8 12:00)   

 「5億年の有性生殖の歴史」を大上段に振りかざして、有性生殖に反する制度としての対(つい)の関係=同性カップル婚は一切認めない、一切排除するというこれ以上ない狭隘な精神で同性愛も同じ自然な人間の性(さが)であり、両性が結婚という制度で手に入れることができる精神的・社会的保障を求めるのも同じ自然な性であるということを否定している。

 このような同性愛者の存在性の否定は同じ自然な人間の性(さが)に対する差別に相当する。

 いわば人間差別主義者がNHKの経営委員を務めている。

 では、長谷川三千子が今回の最高裁大法廷の民法規定合憲の判決にどう発言したかを2015年12月16日付記事から見てみる。文飾は当方。

 長谷川三千子「夫婦別姓訴訟で最高裁が民法規定を合憲としたのは極めて理の通った判決で、高く評価できる。寺田逸郎裁判長が補足意見で述べる通り、『人々が求めるつながりが多様化するにつれて規格化された仕組みを窮屈に受け止める傾向は出てくる』のは事実だが、だからといってどこまでも規格を緩めるわけにはいかない。

 氏名が個人の人格の象徴であり得るのも、氏(姓)が一定の規格の上に成り立っているからだ。多数意見は法の番人たるにふさわしい意見だ」(47NEWS)  

 「氏名が個人の人格の象徴であり得るのも、氏(姓)が一定の規格の上に成り立っているからだ」

 この言葉には長谷川三千子が女性でありながら、男性を上に置き、女性を下に置く男女差別観がある。長谷川三千子は「氏名」を家に付属した氏名として把えているからだ。

 このことは「氏(姓)が一定の規格の上に成り立っている」に現れている。

 先ず「氏名が個人の人格の象徴であり得る」のは何も男性に限っているわけではなく、結婚前の女性に於いても同じである。

 自身の姓と名前を自分であること――自己存在性のアイデンティティーを表現する一つの方法として自己という人間を象徴させている心理性は男女とも同じだということである。

 にも関わらず、「氏(姓)が一定の規格の上に成り立っている」「一定の規格」に価値を置いているが、その「規格」たるや、96%もの夫婦が夫の名字を名乗っている以上、男性主体の「規格」と見ないわけにはいかない。

 そもそもからして“氏”(うじ)という言葉は同一血族の集団や家柄を表す。そして地域に於けるその集団にしても、個別的な家に於いても、男性が支配権を握り、家に於いては家長として家族に対してすべての決定権を握っていた。

 封建時代の昔、そういった男性主体の「規格」から出発して、現在の96%もの夫婦が夫の名字を名乗る男性主体の夫婦同姓の「規格」に至っているのである。

 長谷川三千子が「氏(姓)が一定の規格の上に成り立っている」ことを理由に「氏名が個人の人格の象徴」だと見做していることは、女性でありながら、男性を上に置き、女性を下に置く男女差別観からの男性主体の「人格の象徴」としていて、男性主体の「規格」だと結論づけていると断じないわけにはいかない。

 2010年3月5日の当ブログ記事――《夫婦別姓と夫婦同姓/“姓”が夫婦、家族の価値を分けるわけではない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。  

 〈現在の結婚とは自律した個の存在が夫婦と言う形でその自律性を確保しつつ共同生活を営むことを言うはずで、自律した存在が相互に依存関係へと進むのが結婚ではないはずである。依存した関係は共同生活とは言えなくなるからだ。

 経済的に夫一人の収入に依存した生活だからとあらゆる点で夫の意思にまで従うとしたら、妻は自律した存在であることを失い、夫に支配された存在と化し、個としての意味を失う。

 子どもは幼い間経済的にも精神的にも親に依存した関係を持ち、ある意味親に支配される関係であり続けるが、少なくとも精神的には中学生の頃から自律した存在へと成長していく。個として生きる姿を取り始める。

 いわば夫婦にしても親子にしても、相互に自律した存在を維持してこそ、その絆は意味を持つ。どちらかがどちらかに依存した関係、どちらかがどちらかを支配した関係を絆とは言わないはずである。

 自律した存在であるなら、同姓であろと別姓であろうと構わないことになる。自律を実質的中身としたなら、“姓”という名乗りは形式と化す。元々社会的な便宜的形式に過ぎない。

 自律とは学歴や職業や地位やカネや家柄や血を、あるいは女性に対して男を権威とすることで、それら権威に精神的に支配され、有難がることから自由であることを言う。

 夫婦別姓で、子どもの姓が一方に決まり、もう一方の姓の家が絶えるとの反対論があるが、それは家や家柄、血を権威としているからだろう。誰の姓を継ごうと、子どもが健やかに育ち、自律した存在として社会人としての務めを十分に果たすことへの期待に意義を置き、そこに価値を見い出すべきで、自律した存在として社会に生き得なかったなら、結婚しても自律した存在として伴侶に対峙できず、継いだ姓そのものの意味さえ失う。

 また、夫婦の姓が違うからと子どもが学校でいじめられると言うが、法案が成立したなら、こういった家族が出てくると教えない学校はあるまい。日本の教師はそれほどバカではないはずだ。学校で教えたなら、「夫婦別姓よ。知らないの」と言えば済むこととなるし、そう言って済む社会でなければならない。〉――

 〈自律した存在であるなら、同姓であろと別姓であろうと構わないことになる。自律を実質的中身としたなら、“姓”という名乗りは形式と化す。〉と書いてあるが、意味自体は同姓であろうと別姓であろうと構わないではないかということになるものの、他の言葉と併せた全体の趣旨は同姓に拘る愚かしさについて言い、別姓であってもいい自由を求めた言葉である。

 だが、長谷川三千子は従来からの日本の家の「規格」に拘り、最高裁大法廷の民法の夫婦同姓の規定を合憲とする判断を「極めて理の通った判決」、合理的だと歓迎、現代の個人の在り様――裁判長の補足意見が言うところの「人々が求めるつながりが多様化するにつれて規格化された仕組みを窮屈に受け止める傾向は出てくる」としている個人的存在性を頭から無視するに至っている。

 個人の自律が求められている現代に於いてその自律を抑圧する働きを持つ家の「規格」に価値を置く。女性が別姓を求めながら、夫同姓を強いるのも、女性の自律への抑圧装置として働くことになる。 

 このような長谷川三千子が国民の受信料で成り立っているNHKの経営委員に収まっている。合理的と言うことができるだろうか。

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