道路特定財源一般財源化は日本の緩んだ政治・緩んだ官僚体制を目覚めさせる電気ショック

2008-02-16 10:02:42 | Weblog

 【ゆるふん】(緩褌)
 「①ふんどしの締め方のゆるいこと。特に、相撲でまわしの締め方のゆるいこと。また、そのようなまわし②(転じて)心構えのいい加減なこと。気持ちのたるんでいること。また、その人」(『大辞林』三省堂)

 そのまんま東東国原宮崎県知事が宮崎県内の市町村や経済団体およそ1000人が参加した「暫定税率廃止に断固反対」の総決起大会(15日)に出席して次のように話していた。

 「ガソリンを25円下げることの経済効果を野党さんはあまりおっしゃっていない。野党さんは道路ができてもお医者さんがいなければ何もならないとおっしゃいますが、お医者さんのいる遠い所からいない所へ運ぶために道路は必要なんですよ」

 非常にもっともらしく聞こえる。こういうのをポピュリズムと言うのだろう。大衆に受入れやすい論理だからだ。地方の病院から医者が消え、都市の大病院に集中するのは道路のあるなしが原因ではない。産婦人科医の極端な減少にしても、減少自体に関して道路はどのような解決策となるのだろうか。東国原の論理を正当化するには道路さえできれば、病院は大都市に集中していてもいいということにしなければならない。

 また医師だけではなく、看護師も給与の高い都市部へ流れる大都市・大病院集中現象が起きていて、インドネシアやフィリッピンから看護師を受入れざるを得ない状況になっている。看護師不足の地方の病院の要請に応じて訪日したとしても、彼女たちが日本に来て2、3年したら、より給与の高い都市部の大きな病院へ移らない保証はない。移るについては立派な道路は時間の短縮を保証するに違いない。

 医者・看護師が不足しているからと地方病院の治療を断られた患者が救急車に乗せられ高速道路を通って都市の立派な病院に移送され、病室に運ばれて最初に見た医者と看護師が地方病院を仕事の過酷さと給与の安さに嫌気が差してやめていった医者であり、フィリッピンからかインドネシアから来た看護師だったなんてことになったなら、滑稽な出来事となるだけではなく、立派な道路は医師不足・看護師不足には何の役にも立たず、移送の役割しか担わないことになる。

 06年8月に助産師の資格のない看護師らに助産行為をさせていた疑いで書類送検された堀病院の堀健一院長(79)と看護師ら11人が07年2月に起訴猶予処分となったが、その理由は無資格助産行為は個人病院の多くで行われていて、起訴した場合、産婦人科医療現場に混乱が起きると見たということらしいから、現状追認の黙認ということなのだろう。

 「らしい」と言うのは、資格を必要とする職務にはっきりと「無資格でも認めます」とは言えないからからだ。

 助産師は<国は『総数は足りている』としているが、実際は助産師が公的病院に集中し、個人経営の産院には不足している“偏在”が問題になっている。
 病院と個人経営の産院で扱う分娩(ぶんべん)総数はほぼ同数だが、産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」>(06.8.24.「読売」『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発」一部引用)という公的病院一局集中状況にしても道路に無関係の事柄で、これは給与の関係だけではなく、日本人が都市は上、地方は下、大学病院等の大病院は上、個人病院は下と見る権威主義が招いている「上志向」現象なのだろう。

 ここから東京一極集中が発生している。日本がバブル期だった頃、地方都市の銀行がニューヨークに支店を構えたいとニューヨークのコンサルタント会社に依頼した。コンサルタント会社はニューヨークから離れた日本人が名も知らない街の銀行を「高い利益が望める」と紹介したところ、日本の銀行はニューヨークの銀行でなければならないという。「ニューヨークは買収額も高く、競争も激しいから、買収できたとしても多くの利益は望めないかもしれない」と言っても、「それでもニューヨークでなければならない」と言う。

 ニューヨークに拘った理由は日本の銀行が顧客に自慢し、宣伝するには日本人の誰もがその地名を知っているニューヨークという街でなければならなかったからだ。日本に於いては東京がそうであるように、アメリカに於いてはニューヨークこそが最上のステータスシンボルとなり得る。

 紹介したのがニューヨークにある銀行であっても、地名の次に建物の見栄えを問題にしたに違いない。銀行の建物の写真をパネルにして本店からすべての支店に自己銀行の価値づけに吊り下げるだろうから、顧客に「本行はニューヨークに支店を開きました」と宣伝するためにはどうしても建物の見栄えも必要になる。そのためには将来見込める利益を少しぐらい犠牲にするに違いない。

 顧客にしても、「へーえ、ニューヨークにですか?」と名前を聞いただけで感心するのは目に見えている。「この人は東大出です」と言われただけで、立派な人だと思い込んで、へーえと感心するように。

 そのようにも日本人は職業にして大学にしても都市にしても、何事も上下でランクづける権威主義に侵されている。東国原が言うように「お医者さんのいる遠い所からいない所へ運ぶために道路は必要」ということだけでは済まない。様々に問題を抱えた地方にある病院の外来科の閉鎖であったり、産科の閉鎖であったり、医者や看護師の減少であったり、最悪倒産であったりするからだ。

 「ガソリンを25円下げることの経済効果を野党さんはあまり言っていない」と言うが、原油高騰のあおりを受けて既に多くの物価が値上がりしているところへもってきて、農水省は国際価格の高騰に伴う措置だとして輸入小麦の製粉会社への政府売り渡し価格を4月から30%引き上げると言っている。当然、パンからインスタントラーメン、うどん等影響を受けないことはあるまい。車で長い距離を走る一般生活者にとっては40リットル入れて1000円浮く計算は生活の助けとなる金額となるだろう。

 暫定税率廃止なら軽油も17円程度下がるということだから、原油高騰による軽油の値上がり分ぐらいは諸物価へのはね返りを防げるのではないだろうか。例えばインスタントラーメンを例に取ると、先頃既に一度値上げしているということだが、4月から小麦が30%値上がりした上に軽油の値段も下がらず、値上がりしたままなら、その分も運送コストとしてインスタントラーメン価格に上乗せしなければならなくなる。暫定税率廃止がそれを少しでも和らげる便宜となることは間違いない。

 そういった経済効果は運送業界や食品業界だけではなく、遣り繰り算段で生活を凌いでる一般生活者にとっては決して無視できないカンフル剤となるだろう。製品を集積するセンターにしても荷物の出荷・入荷は燃料がガソリンであったり軽油であったり、電気だったりするフォークリストを使う。

 確かに地方にとっては道路は欲しいに違いない。だが、道路建設以上に問題としなければならないのは予算運営上のムダ遣い体質ではないだろうか。ムダ遣い体質は歴史となり、文化・伝統とまでなっている。今になって電柱の地中化も必要だ、開かずの踏み切り対策も必要だ、歩行者を守るためにガードレール設置も必要だともっともらしいことを言っているが、これまで自民党政治がそれらすべてを放置してきたからある現状でしかない。

 水道管を埋設すると言っては道路を掘り起こし、埋設後アスファルトを新しく舗装する。ひどいときは数ヶ月も経たないうちに今度はガス管の埋設だと同じ道路を掘り起こして、工事後再び新たにアスファルトを舗装する。そういった繰返しを何の考えもなく何十年となく続けてきた。これ程のムダ遣いがあるだろうか。

 また年度末が近づくと、予算が残ったからと予算を使い切る体質もムダ遣いの一つであろう。それが日本全国津々浦々慣習化している。いわば当たり前となっている。政治家も官僚も地方役人も緩んでいるとしか言えない。緩んでいるから、当たり前て過ごすことができる。

 国土交通省の職員の慰安を目的に道路特定財源でアロマセラピー器具を購入したり、その他健康器具を購入したりしているのもムダ遣いでしかないが、精神が緩み切っているからこそできる財源の流用であろう。

 あるいは銀行が利益の観点からではなく、あの銀行は凄い、立派だと見せたい権威主義的なステータスシンボル志向からニューヨークに支店を欲するのと同じ線上の、政治家・官僚が自分を大きく見せたいばっかりにこれだけの道路を造ったと誇る目的の過剰な道路設計、それを正当化するための根拠のない過剰な予測通行量、結果としての財政状態を無視した予算の支出といった背伸び政治・背伸び行政を日本は道路行政の歴史とし、文化とし、伝統としてきた。そのような歴史と文化と伝統を受け継いで、今以て同じ類の道路行政を行っている。

 緩み切っていなければ踏襲できない歴史・文化・伝統である。緩み切っているからこそ、方向転換ができないでいる。

 このような方向の道路建設に目を奪われて歩行者保護のガードレール設置や電柱の地中化、開かずの踏み切り対策に目が届かず放置してきただけのことで、自分たちの失政・不始末を隠してガードレール設置等が必要だから道路特定財源の一般財源化には賛成できないなどという。自己都合もいいとこである。精神が緩んでいてバランスを取った地域発展の政策を行うことができなかっただけの話である。

 緩んでいるという点では社会保険庁の年金業務職員と何ら変わらない自民党政治家であり、日本の官僚と言える。

 道路行政にバランスを欠くことになった原因は日本人がやはり一極集中型の権威主義に囚われているからだろう。高速道を造れとなると、その一点・一極にだけ目を注ぐ。これは日本人はテーマを与えると力を発揮すると言われていることに合致する一点集中主義・一極集中主義である。道路建設を絶対だと把えてしまうために他に目がいかず、バランスを欠くことになる。「絶対」とすると言うことは最上位の価値に置くということで、ガードレール設置とかの他の建設を下の価値に位置づけることとなって、物事を上下に価値づける場面展開に添うことにもなり、自分たちの権威主義的価値観を満足させることができる。

 権威主義は物事を上下に価値づけて上に価値づけた事柄に最重点に従うことから上下間のバランスを欠くことになるのだが、そのことは同時に思考のバランスを欠くことを意味する。

 東大出の人間を立派だと価値づけて、三流大学出の人間をたいしたことのない人間だとすることは既にその時点で思考のバランスを欠いていることを示しているだけではなく、思考のバランスを欠いているからこそ、そのように価値づけることができる人間のランク付けである。

 外国から日本人には戦術はあっても戦略はないと言われるのも、思考能力の欠如(=思考バランスの欠如)を物語るエピソードであろう。危機管理能力欠如も思考能力欠如(=思考バランスの欠如)の反映としてあることの根拠とし得る。

 OECDの「学習到達度調査」(PISA)以前にも指摘されていたことだが、その調査によって改めて日本の生徒の基礎学力はそれ相応にあるが、思考能力に欠けるという結果が出て、文科省や教育界に衝撃を与えた。だが、子供は大人のヒナ型である。大人の思考・文化を吸って、そのヒナ型として子供は存在する。

 とすると、子供の思考能力の欠如は大人の思考能力の欠如を受けたその反映と見なければならない。日本人が権威主義に侵されていることで既に思考のバランスを欠いている。大人たちのヒナ型に過ぎない子供たちが柔軟な思考能力を欠いていたとして不思議はない。

 大人たちが思考能力のバランスを欠いていて、子供たちの思考能力が十分なまでに発達していたら、逆に恐ろしいことになる。

 例え地方ではまだまだ道路が必要だとしても、立派な物を造って誇りたいだけのムダを無視した、これまで歴史とし文化とし伝統としてきた日本の道路行政を一旦打ち切るためにも道路特定財源の一般財源化は打ち切る電気ショックとしての効果は保証できる。

 そのような電気ショックは自民党政治家、同じ穴のムジナである日本の官僚の緩みに緩んだ精神をもショックを与えないでは済まないだろう。いやでも考えた道路建設を行わなければならないからだ。精神が緩んでなどいられない。褌のヒモをきりっと締めてこそ、正しい姿勢でいられる。

 地方はまだまだ道路は必要であると言う声に負けて道路特定財源を維持したなら、道路建設を最上位の価値に置いて絶対とする日本の道路行政の歴史と文化・伝統は緩んだ精神と共に延々と生き延びるに違いない。何と言っても自民党政治家と日本の官僚の既得権確保の欲求は緩んだ褌どころか、アメリカ映画の殺しても殺しても生き返るエイリアン以上にしつこく強いものがあるのだから、一般財源化の電気ショック療法以外に手放させる方法はあるまい。

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権威主義は個人が自律的存在であることを許さない

2008-02-15 05:46:27 | Weblog

 プーチン・プリンスホテル・前時津風親方・札幌介護タクシー代詐取元暴力団員、人吉市職員の生活保護書体名簿漏洩etc.etc

 誰もが理解していることだが、思想・信教の自由、言論の自由、集会の自由、移動の自由等々の基本的人権の保障こそが個人が自律的存在であることを保証する。国家権力や権威主義的強権的他者の支配から個人が自律的存在として自由に活動することを保障する。

 と言うことは、権威主義は基本的人権の敵として存在する。

 「自律的存在」とは簡単に言うなら、他からの支配を受けずに自らの自由意志と責任で行動することを言う。そのような人間活動を基本的人権の抑圧を通して権威主義は否定する。

 前時津風親方は時太山に対して権威主義的強権的他者として君臨し、それは独裁的な態度にまで高まって時太山に許されている自律的存在性を抑圧し、抹殺すると同時にその生命まで抹殺した事例である。

 次のような『朝日』記事がある。

 ≪「ロシア、法が完全に欠如」 元石油王が会見≫(08.2.9/asahi.com)

 <脱税などで有罪判決を受け、別の罪で追起訴されたロシア元石油最大手ユコスのホドルコフスキー元社長(44)が、東シベリアのチタで6日に開かれた裁判の休憩中に被告席から英紙記者らの質問に答え、敵対したプーチン大統領体制下のロシアを「法の支配が完全に欠如している」などと激しく批判した。
 7日付の英紙フィナンシャル・タイムズによると、元社長は「中国も権威主義体制だが、一定の法治主義が機能している。ロシアよりずっとましだ」と強調。3月の大統領選で当選が確実視されるメドベージェフ第1副首相が「法の支配確立」を唱えていることについて、「実現はきわめて困難だろう」と切って捨てた。
 一方で、「ロシアは長期的には民主的な欧州国家への道を歩むだろう」と希望も語った。
 元社長は、野党に資金援助をした後、脱税などの摘発を受け、ユコスも解体・再国有化された。その後、ユコスの販売利益を横領した罪などで追起訴された。現在は、別のユコス元幹部が拘置所内でエイズ治療を十分に受けられていないとして抗議のハンストを続けている。>・・・・・

 中国とロシアのどちらが権威主義的かケースバイケースによって違ってくるだろうが、ロシア大統領のプーチンの政策は民主主義の立場から見たら、かなり目に余るものがあると言える。石油で得ている莫大な資金でロシア経済を立て直した実績を背景にメディア規制、国家管理による経済統制、非政府組織(NGO)に対する国家統制、中国と同様に似た者同士の立場からではあろうが、世界の民主主義を否定し、強権的独裁国家体制を肯定することになるそれら国々との友好外交と結果としてのそれら国内の民主化運動抑圧の間接的な幇助・加担等々。

 ロシアのそのような内政面の強権的規制と民主主義的に無節度な外交によって自らになおのこと権力と資金を集中させて権威主義体制を強めていく。そういった局面に現在のロシアはあるようだ。

 昨年10月(07年)にロシアを訪問したライス米国務長官はロシアの人権状況を批判している。

 ライス「大統領府に権力が集中しすぎている。誰もが司法の完全な独立を疑問視している」(≪ライス米国務長官、ロシアの人権侵害を非難≫AFPBB News)

 日本の主要閣僚が外国を訪問して、その国の民主主義に反する国家体制を批判するのはいつの日のことなのだろうか。その違いは物言う大人と黙したままの子供との差がある。

 米映画監督のスティーブン・スピルバーグは「私の良心がこの仕事を行うことを許さなかった。私の時間とエネルギーは、五輪のためでなく、(スーダン)ダルフール地方で続く、筆舌に尽くしがたい人権侵害を終わらせるために、費やされるべきだ」(08.2.13/読売新聞インターネット記事≪「良心許さない」スピルバーグ監督が五輪文化芸術顧問辞退≫)と北京五輪開閉会式の文化芸術顧問を辞退する声明を発表した。

 同じ日付けのロイター通信の≪五輪=ノーベル平和賞受賞者ら、ダルフール問題で中国政府に書簡≫はスピルバーグの言葉を次のように伝えている。

 <「スーダン政府の主要な経済・軍事・政治パートナーとして、また、国連安全保障理事会の常任理事国として、中国は公正な和平をダルフールにもたらすために貢献する機会と責任を有している」と指摘。さらに、その責務を果たさなければ、残虐行為を続けるスーダン政府を支援していることを意味すると中国政府を批判した。>

 下線部分は国と一企業の違いはあるが、新高輪プリンスホテルが右翼の恫喝に屈したかその影に怯えたかして右翼の要求に添ったため、結果的に右翼の思想・信教の自由否定の体質、言論の自由抑圧体質を支援したことを意味するのと同じ構図を踏む事例であろう

 ライスは「ロシア独自の制度を作ることが市民団体の目的であると確信する」と述べているが、その仕組みについては「個人の解放と自由、信仰の自由、および集会の自由などわれわれが共有する万国共通の価値観を重んずるものでなければならない」(上記AFPBB News)と念を押している。

 要するにプーチン・ロシアは「個人の解放と自由、信仰の自由、および集会の自由」を重んじていない国家、逆に国家統制を強め、個人が自律的存在であることを許さない権威主義国家となっていると批判しているのである。

 国家権力だけが個人が自律的存在であることを許さないのではないことは既に触れた。先に例を挙げた新高輪プリンスホテルにしても右翼の恫喝に直接屈して、あるいは右翼の影に怯えて間接的に屈して一旦契約した日教組の会場使用を拒否したことで自分で自分の思想・信教の自由、言論の自由の首を締め、そのことが本人だけのことで収まらず、日教組という他者の思想・信教の自由、言論の自由まで封じて悪影響を与えた構図は権威主義的強権的他者の支配が個人が自律的存在であることを許さない事例とすることができる。

 生活保護世帯の元暴力団組員の夫妻と夫妻に協力した介護タクシー会社の役員が介護タクシー代金を約2億4千万円も不正受給していたとして2月9日(08年)に逮捕されているが、その事件にしても北海道滝川市の市職員が夫の元暴力団組員だとするコワモテ・威嚇に屈してその男を権威主義的強権的他者扱いし、その支配に従うことで自分から自分の自律的存在性を放棄した例であろう。その結果自己の言うべき「言葉」を封じ込めさせる自らが持つ言論の自由の自己抑圧を行うこととなって2年近くの間、請求されるままに満額支払い続けた。

 熊本県人吉市の市の男性職員が借金をしているヤミ金融業者の強請りに屈して生活保護受給者名簿を秘密裏に渡していた例は借金の弱みがヤミ金融業者を権威主義的強権的他者に変じせしめ、その支配に従って自分が自律的存在であることを自分から放棄した例と言える。

 その職員が剣道連盟に所属する剣道者だとは驚きである。年齢は49歳という十分に大人の年齢であり、何年剣道に打ち込んでいたのか、礼節を教える、強い意志を育むといった剣道訓練の趣旨をいとも簡単にタテマエに変質させてしまっている。

 それが権威主義的国家権力でなくても、権威主義的強権的他者の存在ののさばりを許すことは自らの思想・信教の自由、言論の自由等を自ら封殺することとなり、結果として在るべき姿としなければならない自律的存在性を自分から放棄する場面に遭遇しなければならなくなる。

 そのような場面が世の中の大勢を占める方向に進んだとき、戦前の軍国主義国家と類似の国の姿を取ることになる。戦前型国家主義者である安倍前首相の「美しい国 日本」はそのような国の姿を言うのだろうが、国民にとっては自由抑圧装置そのものの国の姿となる。

 そうさせないためには国家権力による権威主義的態度の現われへの監視と同時に権威主義的強権的他者の存在の威嚇に屈しない強い態度を例えささやかな事例であっても、如何なる場面でも示すことが必要になる。
 * * * * * * * *
 参考までに引用。

 ≪ライス米国務長官、ロシアの人権侵害を非難≫(07.10.14/AFPBB News)

<【10月14日 AFP】ロシアを訪問中のコンドリーザ・ライス(Condoleezza Rice)米国務長官は13日、ウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領への権力集中が人権侵害を招いていると非難した。
 ライス長官は会見で「大統領府に権力が集中しすぎている。誰もが司法の完全な独立を疑問視している」と述べた。
 長官はビクトル・ズブコフ(Viktor Zubkov)首相、ドミトリー・メドべージェフ(Dmitry Medvedev)第1副首相、およびセルゲイ・イワノフ(Sergei Ivanov)第1副首相との会談で人権問題を既に話し合い、セルゲイ・ラブロフ(Sergei Lavrov)外相との会談でもこの問題を取り上げることを明らかにした。
 ライス長官はまた、首都モスクワ(Moscow)の米大使館で人権擁護を掲げる市民団体の代表らと会談し意見を交換した。
 会談冒頭で長官は「ロシア独自の制度を作ることが市民団体の目的であると確信する」と述べたが、その仕組みについては「個人の解放と自由、信仰の自由、および集会の自由などわれわれが共有する万国共通の価値観を重んずるものでなければならない」との考えを示した。
 長官は今回のロシア訪問期間中に人擁護団体の指導者8人と会談。ロシアでは今年12月に総選挙が実施され、来年3月には任期切れとなるプーチン大統領の後任を決める大統領選挙が行われる。>
 * * * * * * * *
 ≪「良心許さない」スピルバーグ監督が五輪文化芸術顧問辞退≫(08.2.13/読売インターネト記事)

 <【フェニックス(米アリゾナ州)=臼田雄一】米映画監督のスティーブン・スピルバーグ氏は12日、就任を要請されていた北京五輪開閉会式の文化芸術顧問を辞退する声明を発表した。
 スピルバーグ氏は声明で「私の良心がこの仕事を行うことを許さなかった。私の時間とエネルギーは、五輪のためでなく、(スーダン)ダルフール地方で続く、筆舌に尽くしがたい人権侵害を終わらせるために、費やされるべき」などと辞退理由を説明している。
 スピルバーグ氏は昨年4月、胡錦濤国家主席宛に、公開書簡を送り、スーダン・ダルフール紛争を早急に解決するよう、要請。7月には、対応が改善されないとして、同顧問辞退を示唆した。その後は、北京五輪組織委と交渉が途絶えていたが、北京五輪組織委の幹部は読売新聞に対し、「同氏とは、開閉会式演出案の知的財産権を巡って、そもそも合意できていなかった」と話していた。
 ロイター通信によると、中国はスーダンへの最大の武器輸出国。>
 * * * * * * * *
 ≪五輪=ノーベル平和賞受賞者ら、ダルフール問題で中国政府に書簡≫(08.2.13/ロイター)

 <[ワシントン 12日 ロイター] ノーベル平和賞受賞者らが12日、中国の胡錦濤国家主席に書簡を出し、ダルフールでの残虐行為を辞めるようスーダンに圧力をかけることで五輪の理念を支持するよう求めた。
 ダルフール紛争解決への支援を促す団体のイベントにあわせて公表された同書簡では、「スーダン政府の主要な経済・軍事・政治パートナーとして、また、国連安全保障理事会の常任理事国として、中国は公正な和平をダルフールにもたらすために貢献する機会と責任を有している」と指摘。さらに、その責務を果たさなければ、残虐行為を続けるスーダン政府を支援していることを意味すると中国政府を批判した。
 同書簡には、東ティモールの独立に尽力したカルロス・ベロ氏、イランの民主運動家シリン・エバディ氏、グアテマラの人権活動家リゴベルタ・メンチュウ氏ら多数のノーベル平和賞受賞者のほか、政治家や五輪メダリスト、芸能人らが署名した。>
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 ≪人吉市 市職員がヤミ金に名簿 生活保護者286人分など 「借金あり断れず」≫>(08.2.13/西日本新聞インターネット記事)

 <熊本県人吉市は12日、同市福祉生活部福祉課保護係の男性職員(49)が借金をしているヤミ金融業者の求めに応じ、生活保護の受給者名簿245世帯286人分を渡していたと発表した。市は同日、生活保護世帯の調査を始めた。これまでに被害の報告はないという。市は職員の懲戒処分や地方公務員法(守秘義務)違反での刑事告発も検討する。
 市によると、職員は生活保護を担当するケースワーカー。昨年11月、ヤミ金融業者から名簿を渡すように求められた。職員は係長とケースワーカーしか知らないパスワードを使ってコンピューター端末を操作。氏名、生年月日、住所などが書かれた受給者名簿を印刷し、ファクスで業者に送った。
 また、職員は自身が所属していた人吉球磨剣道連盟の会員名簿189人分もファクスで送っていたという。
 市によると、職員が11日、市職員組合の委員長に相談して漏えいが発覚した。職員は消費者金融への返済が滞り、昨年5月に初めてヤミ金融業者から2万円を借り、これまで約800万円を業者に支払った。職員は「ヤミ金を使っていることをばらすと脅された。借金があり断り切れなかった」と話しているという。
 同市の田中信孝市長は「意図的な情報流出で深刻に受け止めている」と陳謝した。>

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親子の断絶が天皇家にまで忍び寄る国民統合の有名無実化

2008-02-14 10:32:19 | Weblog

 宮内庁の羽毛田長官が皇太子が昨年の2月の記者会見で「愛子が両陛下と会う機会をつくっていきたい」と発言しながら、天皇家の一員である立場にあるまじく、その発言を裏切って会う機会が増えていない、発言したからには実行を伴わせるべきだといった趣旨の異例の発言を昨13日(08年2月)の定例会見で行ったそうだ。国家の行事に関わることではなく、天皇家内の個人的な問題である。会おうと会うまいと「そんなの関係ねえ。オッパッピー」の余計なお世話ではないか。

 日本国憲法――第1章天皇、第1条天皇の地位は次のように規定している。「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

 「総意」は国民の意識の総体としてある社会意識をも反映して形成されるはずだ。戦後暫くは侵略戦争の首謀者として天皇反対の大合唱が起きたが、それも国民の意識の総体としてあった社会意識が向かわせた天皇アレルギー現象だったはずだ。

 日本社会に於ける親子関係はその断絶が言われて久しい。親子関係は世代間関係をも意味するから、世代間断絶が言われて久しいのも親子の断絶の等式としてある当然の帰結でもあろう。また少子化による人口バランスの悪化で様々な悪影響が出ているし、今後とも悪影響は拡大していくことが予想される。

 社会の混乱も悪化状態にある。経済格差・収入格差、都市と地方の格差。3万人を越える年間自殺者は年を追うごとに増えている。生活保護世帯も増加の一途を辿っている。かくこのように日本の社会はとどめようもなく荒んでいく方向に進んでいる。

 いわば国民自身も社会自体も「統合」状態にない。尤も卵と鶏の関係と同じで、社会が不統合化したから、国民の意識が不統合化したのか、国民意識が不統合状態にあったから、社会も不統合化していったのかという問題になるが、多分相互反映による不統合への増殖と進行ではないか。

 国民自身も社会自体も「統合」状態にないということなら、「不統合」の国民の「統合の象徴」とは背理そのものであるから、現在の天皇は実質的には「日本国民不統合の象徴」へと変質を余儀なくされていて、「統合の象徴」は有名無実化していると言わざるを得ない。

 また社会意識に反映している社会不統合・国民不統合の象徴的事象である親子間の断絶が「国民統合の象徴」たる天皇家にも反映し、天皇家自身の親子間の断絶を演じさせたとしても不思議ではない。国民不統合の意識が醸し出す日本社会の空気を同じように吸っているからだ。

 羽毛田長官が言っていることは、子供が外国に留学したい希望を持ちながら、親がそれを許さないことによって生じた親子関係の断絶と等しく、皇太子が雅子共々自由に外国を訪問したい希望を持っていたにも関わらず、それを制約されていることからの天皇との間に生じた親子断絶であって、前者・後者共に社会意識を受けた現象であろう。

 皇太子が雅子病気のために単独訪問となる04年5月12日からのデンマーク、ポルトガル、スペイン3カ国訪問を控えた前々日の午後、東京元赤坂の東宮御所で記者会見している。

 皇太子「招待をお受けすることができなかったことを、心底残念に思っています。殊に雅子には外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を、皇族として大変な重要な役目と思いながらも外国訪問をなかなか許されなかったことに、大変苦悩しておりました」

 この記者会見の皇太子の態度に対して秋篠宮は同年11月30日の39歳の誕生日の記者会見で次のように述べている。

 「少なくとも記者会見という場で発言する前に、せめて陛下と内容について話をした上での話であるべきではなかったかと思います。残念に思います」

 「私個人としては、自分のための公務はつくらない。自分がしたいことが公務かどうかはまた別で、公務はかなり受け身的なものと考えています」――

 秋篠宮は「記者会見という場で発言する場合は陛下と内容について話をした上で話すべきだ」と言っている。いわば親の許可を得て発言しろと。いくら天皇家という立場があったとしても、親の支配を受けた30、40になる子供の発言とは如何に天皇とその一族が自律的存在ではないことを物語って有り余る。「受身」の存在として徹しろと言っているのである。

 当然、秋篠宮の「自分のための公務はつくらない」なる発言も前以て親である天皇の許可を得たものと把えなければならない。

 つまり「自分のための公務は作らない」、「受身」の存在で徹しよは秋篠宮一人の意思ではなく、天皇の意思でもあり、それが皇太子の「受身」であることを否定する自由な外国訪問意志を制約しているとしたら、天皇と皇太子の親子間断絶は社会意識的な親子間断絶と響き合う当然の現象とも言える。

 「国民統合の象徴」と言えども、所詮天皇はいくら国民に敬愛されていたとしても「象徴」、いわば形式に過ぎない。それは既に述べたように「国民不統合」・「社会不統合」の「統合の象徴」であることの矛盾が証明している。

 また皇太子が「愛子が両陛下と会う機会をつくっていきたい」と言いながら実際行動を伴わせなくても、象徴たる存在の天皇家に所属する皇太子としてその約束を同じく「象徴」に終わらせただけのことで、「国民統合の象徴」が国民不統合・社会不統合の現実に反した「象徴」で終わっていることから比べたら、取り立てて問題にすることではないだろう。

 いずれにしても天皇は「象徴」に過ぎない。皇太子以下もそれに準ずる。皇太子の発言を問題にするよりも国民に具体的且つ直接的な責任を負う国家的責任主体である総理大臣の発言・公約(=国民との契約)の「象徴性」を問題にしなければならない。

 例えば宙に浮いた年金記録の「統合」を今年の3月までに完遂すると前内閣からの約束として受継いでいなければならないはずが、福田首相は参院で「公約でしたっけ?」と公約を有名無実化の象徴に終わらせている。野党から公約違反の批判を受けても「公約違反というほど大袈裟なものなのかどうかねえ」と国家的責任主体であることを忘れた空とぼけようであった。

 国民に対して同じ責任を抱えている所管大臣の桝添にしても「作業はエンドレスだ。できないこともある」、参院選の「選挙戦をやってきたときで、意気込みでなんとしてもやるぞと私も安倍前首相も言った。やり方が悪かったわけではない」と選挙対策でしかなかったことを暴露して「やり方が悪かったわけではない」と開き直るだけ、「公約」を「象徴」に祭り上げて平然としている。

 ここで断るまでもなく、我々は天皇家の個人的な問題に過ぎない約束事に目を奪われるのではなく、国家的責任主体の公約(=国民との契約)の象徴化・有名無実化にこそ目を向けなければならない。

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沖縄少女暴行/沖縄県教育委員長要求の「再発防止プログラム」

2008-02-13 06:51:32 | Weblog

 沖縄で14歳の女子中学生が米海兵隊員に暴行されたことを受けて仲村守和沖縄県教育委員長が米軍に対して「再発防止プログラム」を作成することを要求した。

 「再発防止プログラム」は作ろうと思えば作れる。だが、どのような教育・道徳観を以てしても人間の犯罪を止めることができない現実に反して、作ったプログラムによって米兵の性犯罪を止めることができると思ったら、人間という生きものに対しての客観的認識を欠く愚かな思い込みに過ぎない。米兵の性犯罪が起きるたびに米側が約束している「再発防止」の約束が実効性を伴っていないことをみても理解できることである。

 いわば形式で終わる取り組みとなるのは目に見えている。「プログラム」で片付くなら、とっくに片付いていたろう。

 学校教師の頻繁に繰返されるワイセツ行為・性犯罪は文科省にしても各都道府県教育委員会にしても、また各学校長にしてもそれぞれが防止策を講じ、注意も与えているだろうが、止むことのないのは相手が教育者であっても防止策も注意も柳に風の効き目しか与えていないからだ。仲村教育長の要求プロセスを踏まえるなら、文科省も各都道府県教育委員会も日本全国の学校長も児童・生徒に対するワイセツ行為・性犯罪を壊滅する本格的な「再発防止プログラム」作りに向かってよさそうなものだが、教師の信用失墜に翻弄されるばかりで、そういった動きがないのはなぜなのか。

 仲村沖縄県教育委員長自身にしても米軍に対して「再発防止プログラム」を思いつくだけの頭があるなら、沖縄県学校教師のワイセツ行為・性犯罪を防止するための「再発防止プログラム」を教育委員会委員長の立場として作ってもよさそうなものだが、作ったというニュースを聞いていないから、沖縄での性犯罪は米軍兵士の専売特許なのかもしれない。勿論事実は違う。

 法務省は性犯罪者の再犯防止を目的に「性犯罪者処遇プログラム」を作成してその教育を刑務所や保護観察所で06年度から実施しているそうだが、性犯罪再犯者にしても初めてのときは前科のない初犯で、性犯罪のすべてが再犯者によって行われるわけではないから、例え再犯をなくすことができたとしても常なる初犯者に対するこぼれをつくることになる。

 皮肉なことを言えば、「性犯罪者処遇プログラム」は性犯罪初犯者が現れるのを待って機能する学習課程であるとも言える。

 カリフォルニア州やフランスで行っている性犯罪出所者に「全方位測定システム」(GPS)を取り付けて出所後の行動を監視したり、再犯が疑われる出所者の住所や写真をウエブサイトに公開(アメリカ)、フランス政府は04年から服役中の性犯罪者の同意を得た上で性欲を抑えるホルモン注射を試験的に始めたといったことが新聞記事に載っていたが、すべては一度性犯罪を犯した者を対象とした「再発防止プログラム」であり、まだ現れないゆえに見えない初犯者を対象に織り込んだ「初発防止プログラム」ではないことに変りはない。

 米兵だけではなく、学校教師も警察官も自衛隊員も政治家も医者も欲望に負けてしまう人間が多い。私自身もカネと外に出歩く時間の自由があったなら、欲望とどう付き合うか分かったものではない人間にできているから偉そうなことは言えないが、酒酔い運転の罪がどれ程に重くてもなくならないように、あるいは防犯パトロール体制を如何に強化・充実させようとも女児誘拐事件が起きてしまうのと同じで、どのような「再発防止プログラム」を以てしても性犯罪初犯者をなくすことができないとしたら、いくら立派な文言を並べ、漏れのない対策を打ち立てていようとも、「再発防止プログラム」は形式でしかなくなる。兵庫県加古川市の小2女児通り魔殺人は「再発防止プログラム」の一つである自治会住民の定期的な防犯パトローの時間の合間を縫った犯行で、実質的には何ら「防犯」の役目を果たさなかった。

 米軍が仲村教育長の要求に応じて「再発防止プログラム」を作成したとしても、これまでの「再発防止」の約束同様に何年か後に、あるいは年を置かず再び米兵による性犯罪が起きて、何のための「再発防止プログラム」だったんだと言うことになる可能性大である。

 ではどうしたらいいのか。いつかブログで沖縄は日本から独立して台湾や韓国、中国等の東アジアとの制約のない自由な貿易等で活路を見い出したらどうなのかと書いたが、独立して米軍に撤退してもらうことが唯一最大効果を得ることのできる「再発防止プログラム」ではないだろうか。

 だが、沖縄は日本から独立する気はサラサラないようだ。日本民族と別民族でありながら、風下に立たされた状態ですっかり日本人化してしまっている。日本に従属している限り、米軍の完全撤退はない。

 だったら、米軍基地の存在を逆手に取ったらどうか。自民党内に「沖縄カジノ構想」なるものがあり、建設予定地は米軍再編による在沖縄米海兵隊グアム移転跡地だそうだが、すべての米軍が移転するわけではない。カジノと同時に売春施設を造って、米兵による性犯罪抑止策としてもいいのではないか。

 これも性犯罪「再発防止プログラム」と同じで「完全」を保証出来ないかもしれないが、現在の一般的に高額な売春価格以下の安価な提供を伴わせることができたなら、性処理の代替機会を与えることに意義が生じると確信している。勿論これは戦時中の従軍慰安婦制度を意味してはならないし、戦後の駐留米軍兵士相手の性の防波堤に相当する制度であってはならない。

 今の日本は売春禁止法が施行されているものの、18歳未満以上の利用者・被利用者による金銭のやり取りを伴った性行為はソープランドで公認営業のもと行われているし、非合法ではあるもののファッションヘルスやホテトル、テレクラといった形式で日本各地殆どの場所で行われている。またインターネット上の交際サイトを利用すれば、各都道府県単位で相手を選べるシステムとなっているサイトもある。日本は法律で売春が禁止されていると言っても既にキレイゴトと化しているのである。

 しかし非合法の売春が横行していることと公認のソープランドが特定地域に店がひしめいている状況にあっても、日本全国で平均した場合需要と供給の関係から売り手市場となっていて一回の値段が決して安くない。そうだからと言って、女性が得る金額を無暗減らすわけにはいかないから、経営者に雇われて行う売春ではなく、あくまでも個人の経済行為と位置づけて個人経営のみを許可することによって経営者に搾取されていた金額分価格を抑えることが可能となる。

 尤も自由市場経済の今日に合わせてそれぞれの単価は女性個人に決定権を与えて、なお且つ単価を抑える方法を採らなければならない。一つの方法に年齢制限なし・容姿を問わない条件の採用がある。

 ソープランドも非合法の売春も指名しなければ任意の女性をあてがわれて、失望したりすることがあるが、個人経営・個人的経済行為としての売春の場合はその女性を必要とするかしないかのニーズにしても市場に決定権を与えることとする。年齢が行っていたり、容姿が劣るといった理由で売れない女性は市場から弾き出されないために単価を下げることで買い手をみつけることとなり、相対的に単価抑圧の動機となる。

 また買う男の方も懐具合のいいときは金額が高くても自分がいい女と思える女性を指名するだろうし、月末で懐が淋しいときは少しくらい年が行っていても安い値段の女性を選ぶことで収支のバランスを考えた使い分けを行ない、そうすることで女性側も利用価値が平均化することになり、双方共にメリットを与えることになる。

 売春場所は基地跡地に地方自治体がワンルームマンションを建てて、そこに通わせて行う。部屋の使用は健康維持のために3日置きとかのローテーションを組んで交代で使用させる。部屋の利用料は当然支払わせる。半日とかのパート勤務も許可する。ヒモがついていて女性から搾取していたり、あるいは別の場所で隠れたアルバイトをしたりしたら免許を取り上げるだけではなく、ヒモも女性も2~3年の禁固刑等で厳しく罰する必要があるだろう。

 勿論定期的な性病検査は欠かすことはできない。アジアからの女性も単価抑制措置として個人の資格に於いてのみ許可するようにしたらいい。勿論、客は米兵のみではなく、日本人に利用を許す。カネのある日本人は安いカネでしかも日本の売春婦のようにお高く留まっていない、サービスのいい女性を提供する東南アジアに出かけて買春する。沖縄で利用できるとなったら、わざわざ渡航しない男も出てくるに違いない。アジアからの観光客も誘客したらいい。単に売春機会を増やすだけのことである。稼いだカネを次から次へと男に貢いでしまう売春婦は愚かで軽蔑するが、あくまでも経済行為として利益を上げ、ある年齢に達したらそのカネで何か商売の類を始めようと計画立て、それを着実に実行していく女性は尊敬に値する。

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沖縄少女暴行/「知らない人に声をかけられても応じるな」は何歳までの注意なのか

2008-02-12 11:11:05 | Weblog

 沖縄で昨日の11日に当地駐留米海兵隊の38歳2等軍曹が14歳の女子中学生を車の中で乱暴したとして逮捕される事件が起き、沖縄県民はもとより、政府、マスコミを含めて轟々たる非難の合唱となったのは再び仕出かした度重なる事件であることから当然の光景かもしれない。

 沖縄県民若い男性「人間としては許せない」(08.2.11/NHKニュース)
 アナウンサーが、沖縄県教育委員長がアメリカ総領事館に強い憤りを伝え、再発防止を働きかけたと伝えていた。

 仲村沖縄県教育委員長「23万人のその、児童、生徒を預かる者としてですね、強い憤りを、覚えているところでありまして、謝罪の要求とですね、そして今後二度とこういうことが起こらないようにということで、再発防止のプログラムですね、是非米軍は沖縄県民に対して公開してほしいと・・・・」(同ニュース)

 岸田沖縄相は「大変遺憾なことで、あってはならない事件が発生し、強い憤りを感じている」(08.2.11/TBS「eニュース」)
 仲井沖縄知事「女性の人権を蹂躙する重大な犯罪で被害者が中学生であることを考えれば、決して許すことができず、強い怒りを覚える」(同TBS)

 仲井知事はメモを読み読み記者団に話していたが、これくらいのことを言うだけのことにメモに頼らなければならない地方首長の見解能力とはどの程度に位置づけたらいいのだろうか。

 小学低学年女児に対するワイセツ目的の誘拐、殺人事件が凶悪性のあったもので、90年、92年、94年と1件ずつ、97年は2件、01年1件、03年は2件、04年2件、05年2件、07年兵庫県加古川の小2女児の通り魔刺殺・未逮捕事件等々毎年のように頻繁に繰返されていることから、各地域団体の頻繁な防犯パトロールによって、あるいは小学校自身は児童に防犯ブザーを持たせたり、知らない人間に声をかけられても応じるな、身体を掴まれたら、大きな声を出して助けを求めろ、近所の家に駆け込めと教えて、それぞれ防犯に務めている。

 このうちの「知らない人間に声をかけられても応じるな」は何歳にまで教え込まなければならない注意なのだろうか。12、13歳から14、15歳までの中学生に「知らない人間に声をかけられても応じるな」と教え込まなければなければならないとしたら、日本の中学生は自己判断能力が著しく欠けていると言わざるを得なくなる。声をかけられて、知らない道を尋ねられただけといったこともあるその要求内容にどう応じるか、応じないかは中学生にもなったなら、自分で判断すべき事柄だと思うが、そうとはなっていないのだろうか。

 勿論、危険を察知して逃げようとしたが、力が勝る相手に身体を捕まえられて車に強引に押し込まれて連れ去られるといったことはなかなか避けようもないことだが、そのことと「知らない人間に声をかけられて応じる」かどうかの自己判断とは別問題に位置づけなければならないはずである。ドライブに誘われて、ドライブぐらいならいいなと思って応じたところ、ドライブだけでは済まなかったといった自己判断の甘さが露呈することもあるだろうからだ。

 昨11日の読売インターネット記事≪女子中学生に乱暴、沖縄の米兵を逮捕…知事「極めて遺憾」≫によると、容疑者は<「(家まで)送ってあげる」と声をかけ、オートバイに乗せた。>と出ている。

 これは強引に身体を捕まえられてオートバイに乗せられたわけではない、14歳の女子中学生の「知らない人間に声をかけられて応じ」た自己判断行為としてあったものだろう。

 まだ幼い子供をオートバイの後部座席に同乗させるにはオートバイのスタンドをかけておいて子供を抱えあげて後部座席に跨がせてから、自分が座席に跨いでその腰に手を回させて落ちないようにしてから片手をハンドルに置いてエンジンをかけ、かけ終えるとその手もハンドルに置いてオートバイ自体を全身を使って前に押し出すようにしてスタンドを倒し、走り出すのが後部座席に同乗した幼い子供の安全を図るための手順であろう。

 しかし中学生を同乗させるとしたら、先ずスタンドを外したオートバイに運転者自身が跨ってから、同乗者が後部座席に跨り、走り出した後の安全のために運転者の腰に手を回す。それを確かめてから、運転者はエンジンをかけ、走り出すのが一般的な手順のはずである。

 中学生が最初から自分の意に反して身体を抱え上げられて後部座席に座らされ、それから運転手が座席に跨いだとしたら、乗用車の中に閉じ込められたわけではないのだから、走り出すまでの間に逃げようと思えば逃げられたはずである。

 実際には逃げようとしていたが逃げることができない意に反する同乗だったということなら、14歳の女子中学生は<友人と3人で歩いていた>と言うことだから、後部座席に跨り走り出すまでの間に本人が抵抗して厭がる素振りを見せていただろうし、そればかりか友人の二人に助ける求める視線を向けもしただろうから、その時点で友人は警察に携帯をかけていたはずである。

 ところが警察へはいつの時点か記事からでは分からないが、<女子中学生の友人が、「外国人のオートバイに乗って行った友達の携帯電話に連絡したら、助けを求められた」と通報>(同「読売」)したということだから、後部座席に跨り、オートバイが走り出すまでの時点では助けを求めるサインは認められなかったことを示しているし、当然警察に連絡もしなかったということだろう。

 いわばオートバイの後部座席に乗ったのは14歳の女中学生の自分から座席に跨いで乗った自発行為だった。

 声をかけられたのは夜の8時半頃の沖縄市の繁華街にあるアイスクリーム店から出てきたところだという。時間の点からも特に夜の繁華街は彼女らにとって学校+家庭という日常の世界とは異なるささやかながら非日常の「ハレ」の場所であろう。プライベートな遊びの気分に染まって華やかな気持になっていたことが考えられる。多分一緒にいた2人の友人に勇気のあるところを見せたくなってつい調子に乗って応じてしまった。ところが時間の経過と共に友人2人がいなくなったた自分一人の状況に次第に怖くなって怯え出した。そのために格好の餌食に、あるいは軍曹はまだ否認しているということだから、格好の餌食の対象にされてしまったということではないだろうか。

 相手をバカにしたり、正反対に過度に怯えたりすると、相手の攻撃を誘いやすくなる。自分は馬鹿にされる人間でもないし、人を怯えさせる人間でもないとそう思われている姿を否定し、相手のそう思う気持を抹殺したい自己正当化意識から、元々性的欲求を抱えていた場合、本当に好きだから身体を求めるのであって、邪な気持で身体だけを求めているのではないといった歪んだ攻撃に変じやすくなる。

 地域性の違いというものもあるだろうが、この事件の報道に接したとき、東京の夜の渋谷や新宿、池袋を徘徊する女子中学生や女子高校生たちが「バカな女、私だったら逆におカネを請求してやるのに」とか、「アメリカ人とエッチなんて、私だったら絶好のチャンスにしたんだけどな」と言っているシーンがなぜか頭に浮かんだ。

 小遣いのカネにするチャンスに一夜限りの関係や月決めの援交を目的に自分から見知らぬ中年に声をかける彼女たちの姿はすべて自発行為としてあるものだろう。14歳の沖縄の女子中学生がオートバイに乗ったことが自発行為としてあったものなら、軍曹や沖縄駐留米軍のみを非難の生贄に祭り上げるのは公平性に欠けることになる。
 * * * * * * * *
 参考までに「読売」記事の引用。

 ≪女子中学生に乱暴、沖縄の米兵を逮捕…知事「極めて遺憾」≫

 <沖縄県警沖縄署は11日、女子中学生(14)に乱暴したとして、同県うるま市の米海兵隊キャンプコートニー所属の2等軍曹タイロン・ルーサー・ハドナット容疑者(38)を、強姦容疑で逮捕した。
 調べによると、ハドナット容疑者は10日午後10時半過ぎ、同県北谷町北前の海岸部にある公園付近の路上に止めた車内で、沖縄本島中部地区に住む女子中学生に乱暴した疑い。
 「キスをしたり、抱きついたりしたが、乱暴はしていない」と容疑を否認している。
 ハドナット容疑者は同日午後8時半ごろ、同地区の市街地を友人と3人で歩いていた女子中学生に「(家まで)送ってあげる」と声をかけ、オートバイに乗せた。同県北中城村の自宅へ連れて行って乗用車に乗り換えたが、女子中学生の家には向かわず、北谷町へ行ったという。
 女子中学生の友人が、「外国人のオートバイに乗って行った友達の携帯電話に連絡したら、助けを求められた」と通報。現場近くをパトカーで巡回していた警察官が急行、歩いていたところを保護した。
 同県では、1995年に海兵隊員3人が小学生女児に暴行する事件などがあった。
 仲井真弘多知事は県庁で報道陣の取材に応じ、「女性の人権を侵害する重大犯罪。決して許すことはできない。またもや、このような事件が発生したことは極めて遺憾で、米軍などに強く抗議する」と話した。>――

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バラック・オバマはアメリカ合衆国第44代大統領の場合は自らの言葉を自ら裏切ることにならないか

2008-02-11 05:29:27 | Weblog

  「改革」は政治家すべてが担うべき政治行為

  
 バラック・オバマ「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。黒人のアメリカも白人のアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ。・・・・イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」

 ジョン・ケリー上院議員を2004年の大統領選民主党候補として選出した党大会での基調スピーチだとWikipediaに出ている。次期大統領選民主党候補予備選でヒラリーに猛追、接戦に持ち込んで逆転しかねない勢いが黒人初の大統領誕生かと思わせ、その関係からの先取りなのか、マスコミが格調高い優れたスピーチとして最近再び取り上げ、多くの人に共感を与えているらしい。

 文字に起こした言葉を一読しただけでも格調高く理想を謳い上げたスピーチに思えるから、力強くイントネーションをつけた言葉を一語一語直に聞いた人間のその感動は相当なものがあったに違いない。

 だが、この格調高い優れた理想論には残念ながら人間が利害の生きものであることへの客観的視点がまったく欠けている。逆説するなら、客観的視点を欠くことによって展開し得る理想論となっている。客観性を欠いた政治家とは二律背反を意味するのみである。一言で言うなら、オバマが「ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と言える程にアメリカはユートピア社会だと言えるのかということである。

 理想論は一般的には社会その他の「現実の姿」を前提に、それを改める形で語られる。「リベラルと保守」の衝突、「白人と黒人」あるいは「黒人とアジア系」、「白人とラティーノ」等との人種的対立、あるいは人種間の軋轢、国の富を過剰に占有した一部富裕層と貧困層との利害の対立、あるいは金持ちの、我々は努力した、奴らは怠けて努力しなかったのだ、低所得者の、汚い手を使ってカネと地位を得たのではないのかといった相互反感。また富める州と貧しい州との感情レベルの相互不信等々のアメリカ社会の現状は政治家の誰もが消去し得ずに現在進行形で存在し続けている姿であろう。

 黒人とアジア系の対立の例として、1992年4月の黒人による韓国系アメリカ人商店を襲撃したロス暴動を挙げることができる。昨2007年4月の在米韓国人男子大学生が在籍していたバージニア工科大学で銃を乱射し、教師を含めて32名を殺害、自身は自らの銃で自殺。事件後アメリカの一部で反韓感情が噴き出したということだが、そのことはアメリカが決して「ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」ではない現実を教えている。

 イラクで現実に戦争しているアメリカ兵とそれを支持するアメリカ人は同じアメリカ人でありながら戦争のない母国という安全地帯で命の危険を曝すこともなくイラク戦争に反対するアメリカ人を果たして愛国者と見做すことができるだろうか。

 また逆にイラク戦争に反対しているアメリカ人は自分たちの主義・主張を裏切る存在としてイラクで戦争を遂行しているアメリカ人を世界に於けるアメリカの地位を貶める存在として、あるいは下らない戦争で尊い生命をムダに落とす愚か者として真の愛国者と見做すことができないのではないだろうか。

 ある党派は主として富裕層の利害代弁者となり、別の党派は中間層以下の階層の利害代弁者となる。すべての階層の代弁者となり得ないのは人間が利害の生きものであり、それぞれの立場、階層で利害が異なるからなのは言うまでもない。異なる利害のすべてを代弁するのは二律背反以外の何ものでもない。従業員の給料を下げたい経営者と自分たちの給料を上げたい労働者のそれぞれの利害を双方共に満足させる方法はない。程よく妥協させたとしても、双方共に不満が残る解決しか見い出せないだろう。

 2005年8月末にルイジアナ州を襲ったハリケーン・カトリーナにしても、昨07年10月のカリフォルニアの山火事にしても、収入・財産の違いで事後の生活状況に違いが生じているし、現在世界中を騒がせているアメリカのサブプライム問題にしても、家を失い戸外生活を送らざるを得ないかどうかの分れ目はその収入・財産によって決まるのは仕方ないにしても、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”」だから、それぞれの生活の姿が「みな同じ」と言うわけには決していかない現実を示している。

 そうであるにも関わらず、バラック・オバマの格調高いスピーチは上記アメリカの現実を踏まえて、こうあるべきではない、それを改革して私が語るようなアメリカになるべきだと訴えたわけではない。政治党派的には「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」と言い、人種的には「黒人のアメリカも白人のアメリカもラティーノのアメリカもアジア人のアメリカもなく、ただ“アメリカ合衆国”があるだけだ」と言い、「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”なのだ」と現実の姿としてある相違・矛盾、利害の対立を一切捨象し、相互の利害の違い、あるいは立場の違いが生み出すどのような矛盾も相違もないアメリカのユートピアを提示したのである。

 いわばバラック・オバマは実際には存在しないアメリカの姿を語ったに過ぎない。だとしても、自分が既にそんなアメリカだとバラ色に描いて見せたアメリカを現実の姿として実現させるなら、彼の語る格調高いスピーチはウソを補うことができる。

 果して人類が地球上に生存して以来、誰もなし得なかった理想の姿――ユートピアをバラック・オバマはアメリカ合衆国第44代大統領として実現させ得るのだろうか。第44代大統領に就任しなければ、スピーチはスピーチとして片付けることができ、ウソは気づかれないままに葬り去られるだろう。アメリカ合衆国全体を立脚点とした政治改革者の立場にはないことになるからだ。

 だが。アメリカ合衆国第44代大統領の地位に就いたなら、「ただ“アメリカ合衆国”があるだけ」、「みな同じアメリカに忠誠を誓う“アメリカ人”」とする理想のアメリカ・ユートピアを実現させる責任を負う。格調高いスピーチのウソを曝け出さないために。大統領となった政治家の言葉は例え過去に発した言葉であっても重い。多くの国民にそうと思わせたのだから。

 オバマの格調高いスピーチで思い出すのは安部前首相の「美しい国・日本」なる主張である。オバマのスピーチと同様に所詮現実の姿を踏まえて、その先に見据えた国の姿ではなかった。当然外側のハコだけを立派に見せ口先だけで弄んだだけのハコモノに過ぎない「美しい国・日本」であった。

 政治は様々な形で常に再生産されていく社会の矛盾や相違を踏まえ、それを改革していくことであろう。だが、人間が利害の生きもので、相互に異なる利害を抱えているために社会の矛盾や相違、格差は調整したり抑えることはできても、なくすことはできない。一方によく、一方に悪いといったことが起こり、そのことがまた新たな矛盾や相違、格差を生じせしめる。再び露な姿を見せることとなった矛盾や相違、格差との闘いに立ち立ち向かわなければならない。その終わることのない闘いが政治の務めであり、政治の歴史であろう。

 また、政治が負の要素を肯定的な要素に変革する行為だとするなら、政治家の発する「改革」なる言葉は特定の政治家のみが持ち得る特定のキャッチフレーズではなく、すべての政治家の一般的は言葉であって、問われるべきは「改革」の対象と方向、その具体化の能力であろう。人間が利害の生きもので、そこから生じる矛盾を払拭しきれない限り、「改革」は無限循環の宿命にあると言える。

 「改革」なる言葉を特定の政治家の特定の言葉だと勘違いすると、過つことになる。中には「改革」を唱えながら、当選回数を重ねることだけが目的であったり、大臣の椅子に座ることを夢見、それを果たすことを念願としている政治家もいる。

 現実の姿を把えることのできない政治家は「改革」をよりよくなし得ない。その語る「理想」は「理想」を語るための「理想」といった自己目的化に陥りやすい。

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『朝日』記事≪捜査阻んだ三つの壁 力士急死、逮捕まで7カ月≫の疑問

2008-02-10 09:25:21 | Weblog

 今日(08.2.10)の朝刊に載っていた。早速グーグルで検索。最近歳のせいで新聞記事を直接入力するのが面倒になって、つい簡単・便利のインターネット記事に頼ってしまう。死亡「直後に検視をしないまま病死と判断した愛知県警の初動ミスのほかに、三つの壁があった」と記事が書いている捜査が難航した理由を箇条書きで要約すると、

最初の壁は、師弟関係の強さ。前親方による口止めの疑いが最近明らかになったが、急死直後の
 事情聴取にも、全員があうんの呼吸で「けいこ中に突然倒れた」と口をそろえていたために事実関係
 の解明が難航した

②遺体解剖で、けいこでは説明できない傷の存在が判明。7月になって、死亡前夜の前親方によるビー
 ル瓶での殴打や、兄弟子の暴行などを認める供述が得られたが、前親方による指示や木の棒での尻の
 殴打を話す弟子はいなかった。県警内でも指導の延長線との見方が強く、傷 害致死と違って故意の
 立証が不要な業務上過失致死容疑の適用が検討されていた

③前親方主導の疑いが強まったのは9月。「鉄砲柱に縛り付けてやれ」との指示内容が分かったのは10
 月終わり。

もう一つの壁は、プロの格闘家がけいこ中に死んだとして刑事責任を問えるか、との難問。刑法
 の規定で、正当な業務による行為は刑事罰の対象にならない。プロボクシングの試合で相手が死んで
 も刑事責任は問われない。「かわいがり」と呼ばれるしごきで力士が死亡したケースが刑事事件にな
 った前例はなかった。

⑤一部の兄弟子は制裁目的だったと認め、他部屋の親方は「30分ものぶつかりはけいこの範囲を超える
 」と証言。だが、「通常のけいこ」とする前親方の主張を覆す科学的な裏付けがなかったために時間
 がかかった。

⑥県警は昨年末、力士に5分間のぶつかりげいこをしてもらい、筋肉の破壊で現れる酵素や筋運動で生
 じる乳酸などを計測。30分にわたったぶつかりげいこの異常さを浮き彫りにし、「けいこではない」
 と断定。

三つ目の壁は、暴行と死の因果関係の医学的な立証

⑧新潟大の解剖鑑定が死因とした「多発外傷による外傷性ショック死」は急性呼吸窮迫症候群(ARD
 S)を起因とするが、それは発症まで数日かかり、死因としては疑わしいとする異論が、臨床分野の
 専門家を中心に上がったこと。

⑨名古屋大に再鑑定を依頼したところ、筋肉が強い衝撃を受けると血中に流出、一定時間で心停止を引
 き起こす原因となる高濃度のカリウムが遺体の血液から検出された。

⑩この鑑定が2日間に亘った暴行が死に結びついたことの裏付けとなった。

 結論。
⑪2回の鑑定に計約5カ月を要した。再鑑定結果が報告されてから逮捕までは6日間だった。
* * * * * * * *
 この記事には名古屋場所が開催されると、時津部屋の名古屋場所宿舎に日常的に通って相撲の稽古を見学するファンの暴行目撃談について何ら触れていない。テレビで放映していただけではなく、『朝日』も昨年の10月25日朝刊に≪「けいこではなくリンチ」 目撃者が証言 力士急死≫と題する記事を載せているのである。忘れてしまったのだろうか。

 その記事によると、26日午前の総稽古の<見学時間が終わって宿舎の駐車場にいた午前11時ごろ、「ギャー」と大きな悲鳴が聞こえたため土俵に戻ると、斉藤さんが土俵上で暴行されていた。3人の兄弟子が斉藤さんを取り囲んで投げ倒し、繰り返し殴るけるの暴行を加えていた。斉藤さんは「アー、アー」とうめき声をあげていたという。
 前親方は土俵脇のいすに腰掛け、暴行の様子をじっと見ていた。男性は同部屋のけいこを見て約30年になるが「明らかに相撲ではなく、いたぶっていた。こんなひどいことをなぜ親方は止めないのかと思った」>・・・

 目撃者が駐車場から土俵までわざわざ戻らざるを得ないほどの「うめき声」だった。しかし暴行に加わっていた本人たちは警察に<「通常のけいこ」>と証言。その矛盾を追及したのだろうか。
 
 また、いくら親方に口止めされていたとしても、「明らかに相撲ではなく、いたぶっていた」という印象を受けた<斉藤さんを取り囲んで投げ倒し、繰り返し殴るけるの暴行>だったとする直接目撃した証言から、どうしたら<指導の延長線との見方>とか、<傷害致死と違って故意の立証が不要な業務上過失致死容疑の適用の検討>を導き出さすことができるのだろうか。

 <プロの格闘家がけいこ中に死んだとして刑事責任を問えるか>といった捜査判断にしても、「けいこ中」を前提とした、なぜか理解に苦しむが、目撃証言排除の捜査であるばかりか、捜査に予断があってはならないとする捜査上のルールにも違反している。

 もし<プロの格闘家がけいこ中に死んだとして刑事責任を問えるか>とした判断がその時点では間違っていないとするなら、ファンの目撃証言は「けいこ」の範囲外の行為である(「明らかに相撲ではなく、いたぶっていた」)と認めるに足る証言とはなり得なかったとする経過発表を警察は行うべきだったろう。

 本人がテレビで喋り、新聞でもその発言を取り上げていた証言がどこかに吹っ飛んでしまうからだ。それとも警察に吹っ飛ばしたい気持ちがあって、<プロの格闘家がけいこ中に死んだとして刑事責任を問えるか>とする判断に飛躍させてしまったのだろうか。

 目撃証言を当たり前に素直に受け止めるとしたなら、<故意の立証が不要な業務上過失致死容疑>で立件といった考えに傾くはずはない。少なくとも一時期は目撃証言からは考えることができない、それとは相矛盾する<故意の立証が不要な業務上過失致死容疑>の方向で事件を片付ける意志を働かせていたわけである。「けいこ中」を前提としたい衝動を働かせていたわけである。

 『朝日』記事はこういったことにいかがわしさを感じなかったらしい。それとも当方の判断が間違っていて、何らいかがわしいところはないとの判断の方が正しいるのだろうか。

 確かに「暴行と死の因果関係の医学的な立証」とか「『通常のけいこ』とする前親方の主張を覆す科学的な裏付」は必要で、欠かすことはできまい。しかし新潟大学の父親からの依頼による解剖結果を踏まえた被疑者や目撃者等の証言の「裏付け」捜査を第一段階に据え、その真偽の確認と並行して必要不可欠に行わなければならない前者の捜査のはずだが、記事を読む限り、第一段階の捜査で方向違いを演じていたために時間がかかったとしか受け取ることができない。なぜなのか。

 その疑問を解くには「指導の延長線との見方」、あるいは「けいこ中の死」と判断した目撃証言に反する警察の対応をやはり問題としなければならない。目撃証言の真偽の確認に誤りがあったのか、それとも誠実に取り上げなかったのか、そのどちらかしか考えることができない。

 誠実に取り上げなかったとしたら、既に書いたように<故意の立証が不要な業務上過失致死容疑>の方向で事件を片付ける意志を働かせていた、つまり「けいこ中」の事故、「指導の延長線」の事故としたかった意思を働かせていたのではないかという疑惑がますます正当性を帯びることになる。
* * * * * * * *
 ≪捜査阻んだ三つの壁 力士急死、逮捕まで7カ月≫

 <大相撲・時津風部屋の力士急死事件は、昨年6月の斉藤俊(たかし)さん(当時17)の死から前時津風親方山本順一容疑者(57)ら4人の逮捕まで7カ月余と、異例の長期捜査となった。立件までには、直後に検視をしないまま病死と判断した愛知県警の初動ミスのほかに、三つの壁があった。
 最初の壁は、師弟関係の強さ。前親方による口止めの疑いが最近明らかになったが、急死直後の事情聴取にも、全員があうんの呼吸で「けいこ中に突然倒れた」と口をそろえたという。事実関係の解明が難航した。
 遺体解剖で、けいこでは説明できない傷の存在が判明。7月になって、死亡前夜の前親方によるビール瓶での殴打や、兄弟子の暴行などを認める供述が得られた。
 しかし、前親方による指示や木の棒での尻の殴打を話す弟子はいなかった。県警内でも指導の延長線との見方が強く、傷害致死と違って故意の立証が不要な業務上過失致死容疑の適用が検討されていた。前親方主導の疑いが強まったのは9月。「鉄砲柱に縛り付けてやれ」との指示内容が分かったのは10月終わりだったという。
 もう一つの壁は、プロの格闘家がけいこ中に死んだとして刑事責任を問えるか、との難問だった。刑法の規定で、正当な業務による行為は刑事罰の対象にならない。プロボクシングの試合で相手が死んでも刑事責任は問われない。「かわいがり」と呼ばれるしごきで力士が死亡したケースが刑事事件になった前例はなかった。
 一部の兄弟子は制裁目的だったと認め、他部屋の親方は「30分ものぶつかりはけいこの範囲を超える」と証言。だが、「通常のけいこ」とする前親方の主張を覆す科学的な裏付けがなかった。
 県警は昨年末、力士に5分間のぶつかりげいこをしてもらい、筋肉の破壊で現れる酵素や筋運動で生じる乳酸などを計測。30分にわたったぶつかりげいこの異常さを浮き彫りにし、「けいこではない」と断定した。
 三つ目の壁は、暴行と死の因果関係の医学的な立証だった。
 昨年10月に出た新潟大の鑑定書は、死因を「多発外傷による外傷性ショック死」とした。指摘されたのは、急性呼吸窮迫症候群(ARDS)で、破壊された筋細胞が血中に流れ込み、肺の毛細血管に栓をすることで肺水腫となり、呼吸不全に陥るとされる。ところが、ARDSは発症まで数日かかり、死因としては疑わしいとする異論が、臨床分野の専門家を中心に上がったという。
 そこで、名古屋大に再鑑定を依頼した。浮上したのが、遺体の血液から検出された高濃度のカリウムだ。筋肉が強い衝撃を受けると血中に流出、一定時間で心停止を引き起こすことが知られている。これで2日間にわたった暴行が死に結びついたことが裏付けられた。

 2回の鑑定に計約5カ月を要した。再鑑定結果が報告されてから逮捕までは6日間だった。
* * * * * * * *
 ≪「けいこではなくリンチ」 目撃者が証言 力士急死≫(07.10.25/朝刊)

 <大相撲の時津風部屋の力士急死問題で、死亡直前の「ぶつかりげいこ」を目撃した男性が24日、朝日新聞の取材に「けいこではなくリンチのようだった」と証言した。前・時津風親方=元小結双津竜、本名・山本順一氏=も居合わせたが、兄弟子の暴行を黙認していたという。愛知県警も男性から同様の証言を得ており、6月26日にけいこの名目で暴行があったことを示す手がかりとみて注目している。
 男性は26日午前、同部屋の総げいこを見学した。見学時間が終わって宿舎の駐車場にいた午前11時ごろ、「ギャー」と大きな悲鳴が聞こえたため土俵に戻ると、斉藤さんが土俵上で暴行されていた。3人の兄弟子が斉藤さんを取り囲んで投げ倒し、繰り返し殴るけるの暴行を加えていた。斉藤さんは「アー、アー」とうめき声をあげていたという。
 前親方は土俵脇のいすに腰掛け、暴行の様子をじっと見ていた。男性は同部屋のけいこを見て約30年になるが「明らかに相撲ではなく、いたぶっていた。こんなひどいことをなぜ親方は止めないのかと思った」と話す。
 男性によると、26日は午前10時半ごろまで時津風部屋の各力士による総げいこがあったが、斉藤さんは参加せず、土俵外でしこを踏んでいた。額が割れて顔は腫れ、腕や足など体中に切り傷や赤いあざがあったという。
 県警の調べでは、斉藤さんは同11時40分ごろ土俵上に倒れ、午後2時10分に搬送先の病院で死亡が確認された。前親方は県警や日本相撲協会に対し、25日夜の暴行は認めたが、26日は「通常のけいこ」と説明している。>

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前時津風親方逮捕/大相撲改革は個人で立つ・個人で立たしめることから

2008-02-09 06:06:00 | Weblog

 大相撲の時津風部屋の力士、入門して2ヶ月の時太山が愛知県犬山市内の宿舎で親方と兄弟子たちから暴行を受けて17歳の若さで殺害された。名古屋場所前の昨07年6月26日。愛知県警は身体中に打撲痕やアザの跡がありながら検視も司法解剖も行わず、医師の診断を根拠に虚血性心疾患による病死と断定。

 身体の傷に不審に思った父親の依頼で新潟大学が死亡の2日後の6月28日に遺族の同意を得て行う公費承諾解剖を行った結果、死因を多発外傷によるショック死と断定。警察は事件として扱うことにして捜査を開始し、そして逮捕まで7ヶ月余経過している。

 逮捕の報道に接したとき、なぜそんなに時間がかかったのだろうというのが第一印象であった。暴行を加えたのが一人で目撃者がいなければ、その人間の自白に頼らなければならないが、兄弟子たちも加わり、目撃部外者もいる。例え口裏を合わせていても、何から何まで完璧に合わせることなど不可能であろう。一人ひとりの証言を取り、一致しない点を追及していけば簡単に崩れる口裏だと思うが、素人考えなのか、半年以上かかった。

 例え素人考えであっても、それを承知で疑問を解くとしたら、親方が所轄署の犬山署署長とタニマチ的な知り合いだというから、当初の不審死の段階で親方から「何分よろしく」があって、父親が一目見てこれはおかしいと思った外部から加えられたと分かる無数の傷がありながら、それを無視して検視も司法解剖も行わなかった手前、簡単に立件できなかったのではないか。簡単に立件してしまったなら、そんなに簡単に立件できるなら、なぜ最初から立件しなかったのだと、逆に警察の初期処置の不適切さが暴き立てられて、「何分よろしく」に行き着きかねない。逆に時間ををかけることで立件が困難な事件だったと思わせて、最初の取扱いの不適切さにフタをした?・・・・

 何しろ解剖医が<愛知県警が県警本部の検視官の出動要請をせず、病死と判断したことについて「無数の外傷があり、事件の可能性を考慮すべきだった。初動捜査がなっていない」と批判し>た上で、<遺体を見た時の印象について「すぐに病死でないとは言い切れないが、解剖しないといけないと感じた。検視官の出動要請は最低限すべきだった」と批判>(07.10.15/時事通信社≪「初動捜査なってない」=力士死亡で新潟大解剖医-愛知県警を批判≫)しているのである。当初から警察は果たすべき役割を裏切っている。それが無能もしくは怠惰からきていたものなのか、テレビで報道していたように名古屋場所が開催されるたびに時津風部屋のチャンコに招かれていたといったタニマチ的付き合いがあったがために意図的に捜査の手を緩めてしまったのか、疑問が残る。

 いずれにしても暴行死の原因となった相撲界全体にはびこっている稽古や私生活上の態度に関する親方の弟子たちに対する、あるいは兄弟子の弟弟子に対する教えが「身体で覚えさせる」類のへとへとになるまで長時間申し合いをさせたり、体罰まがいに竹刀や棒で直接身体に物理的な打撃と苦痛を与えて叱咤する、それを育って欲しいための「かわいがり」だ「指導」だとする古い体質を浮かび上がらせた。

 こういったことは「大人」がすることなのだろうか。「大人」とは自律(自立)した存在を言う。

 また暴行死に適切な対処ができなかったとして各相撲部屋を統括する立場の北の湖理事長率いる相撲協会が批判の的となった。文部科学省は前親方と3人の兄弟子が傷害致死の疑いで逮捕されたのを受けて相撲協会に対して現在力士OBだけで構成されている協会理事会に外部からの理事の受入れを要請し、相撲協会も受入れる意向だという。

 今回の事件と外部から理事を相撲協会のメンバーに加えるといったその後の処置が功を奏して各相撲部屋から体罰まがいの稽古や指導が姿を消したとしても、それで根本的な解決ができたとすることはできまい。07年9月29日の当ブログ記事≪時太山暴行死は親方の自律性(自立性)欠如が原因≫で、親方・弟子双方共に自律(自立)していないから命令・支配の方法に頼ることでしか稽古や指導をつけることができない、下の者も上の者の命令・支配を受けることでしか稽古ができない、日常生活のルールづくりもできないといったことを書いたが、そういった体質を身に染みつかせているとしたら、自律性(自立性)の問題を解決せずに放置したなら、喉元通れば熱さ忘れるで、いつ何時再発しないとも限らない「かわいがり」であり、「指導」ということになりかねない。

 上記ブログにこう書いた。<支配と被支配の関係は相互に自律(自立)していない関係を言う。上が下を従わせ、下が上に従う権威主義を両者間の行動力学としているからだ。
 支配が厳しい稽古やハードな練習によって強まれば強まるほど、相互の自律(自立)性は狭まっていく。指導する側が指導を受ける側にすべてを任せることができないから、自らの自律性(自立性)を自ら狭めて指導という支配を強め、その支配を受け入れることによって、指導を受ける側も自らの自律性(自立性)を狭めていく。言ってみれば、指導や練習を厳しく要求すればする程、自律性(自立性)は相互縮小が進む。
>・・・・

 体罰まがいの身体に覚えさせる命令・支配とその受容双方共にどのような自律性(自立性)を認めることができるだろうか。それぞれが個人として立っている「大人」の状況にあると言えるだろうか。

 親方も弟子も相互に自律(自立)的存在であること。各相撲部屋も相撲協会に対して自律(自立)的存在であること。相撲協会も各部屋を支配するのではなく、対等の関係を結ぶことで自らを自律(自立)的存在たらしめること。

 上の者も下の者もそれぞれが個人として立つことから始めて、上の者は下の者に対して常に個人として立たしめる指導を模索することをしなければ、真の大相撲改革は成し遂げることができないのように思えて仕方がない。

 その具体的方法は先のブログでも言っているように稽古も生活態度も本人に任せる。相撲に関する技術を教えること以外に口を出さない。強くなるのもならないのも本人の姿勢次第だと任せる。任せても、兄弟弟子や兄弟子、他の部屋の力士に対してライバル意識を持って申し合いや稽古ができないようなら、見込みはないからとやめさせれがばいい。

 モンゴル人の朝青龍が持っていて日本人力士にないものは一に気迫であろう。身体に覚えさせる「かわいがり」や「指導」で気迫がつくとでも言うのだろうか。だとしたら、日本人力士も朝青龍と同程度に気迫があっていいはずだが、大人と子供ぐらいの差があるのはなぜなのだろう。あるいは同じ厳しい稽古や指導を受けたすべての力士が同じ程度の気迫を身につけていいはずだが、そうとはならないはずだ。

 気迫を身につけることができるかどうかは力士それぞれの姿勢にかかっている。進んで稽古をする、進んでライバルに負けまい、勝とうと努力する、進んで上位力士にいつかは追いつき、追い越そうと稽古に励む。そのよう積極性、進取の気概が「気迫」を生む。

 「進んで」とは何にもまして自発的・自力的なもので、決して他発的・他力的に与えられるものではない。自ら獲得するものである。他発性そのものである命令・支配からは生まれない。生まれるとしたら、他力に頼った「進んで」でということになって、自己矛盾を侵すことになる。あくまでも本人の姿勢を条件とした取り組みでなければならない。

 自ら獲得する精神性である以上、よりよく個人とした立っていることが獲得の絶対条件となる。個人として立つとは他からの命令・支配を受けていない状態を言うからだ。受けていたら、自ら獲得することにならないし、「進んで」の姿勢から離れることになる。力士としてどうあるべきか、どう存在し、どのように自己を存在づけるか、何を以って自己存在の証明とするか。いわばどのように自己実現を図るかは個人として立っていることを条件として、初めて可能となる。そういう指導は「任せる」ことでしか達成できない。

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一筋縄でいかない天下り問題/天本直人氏のブログを読んで

2008-02-08 03:52:22 | Weblog

 天本氏のブログ記事≪誰も言わない事を言うことの勇気≫は、「民から民への天下り」経験者が感じたその弊害と子会社の活性化のためにその是正の必要性を説いた新聞の投書記事を取り上げたものである。

 『朝日』を購読しているが、その記事に気がつかなかった。私自身が「民民」天下りに関して抱いている事柄を少し述べたいと思う。

 最初は自身の人生経験からの考察。1990年代半ばの4年間ほど名前は言えないが、「世界の日立」と言われる(月並みなダジャレ)日本有数の大企業の清水工場でその子会社の期間工として働いていた。年齢は50代前半。

 仕事は業務用エアコンとその室外機の板材を使った梱包作業で、四方の枠と天井と呼んでいた上蓋をエアー式の釘打ち機と金槌の両方で釘を打ちつけていくのだが、背丈よりも高いエアコンがあるから、側面の枠など簡単には持てない重さがあって、なかなかの重労働である。

 子会社の所在地が日立清水工場内にあることからも分かるように「日立」そのものの会社で、社長を始めその他幹部は日立から天下った人間で固められていた。期間工とか女性パートといった採用はすべてその子会社が行い、本体である清水工場そのものは一切タッチしない。梱包その他の業務だけではなく、それ以外に殆どが中高年の出入の激しい臨時職員の雇用と無訓練で働かせる労働に関して起こりかねない面倒を何から何まで引受けていて、本社は手を汚さない、手を汚すことはすべて子会社にやらせていると本社の現場従業員までが噂する、面倒が本社に及ばないよう吸収し、和らげるクッションの役目をも担ってもいた。

 期間工の現場従業員として働いていたから、子会社事務所で天下ってきた者が幹部職を占めていて一般社員が一定以上の昇任が望めない関係にあり、労働意欲を失っている状況にあるのか、あるいはそんなこと「関係ねえ、オッパッピー」で喜々として働いているかは窺い知れなかったが、現場で仕事を指図する係長や組長等もすべて本社の現場従業員の定年退職者で占められていた。

 日本のホワイトカラーの生産性は欧米に劣るが、現場労働者(ブルーカラー)の生産性は欧米のそれと遜色ないと言われている。それは現場上司の自分たちの成績に直接響くことからの監視の目が常に行き届いていることと、ベルトコンベア作業であることから否応もなしに一生懸命働かざるを得ないこと、仕事量が直接数値で出て、厭味や苦情で尻を叩かれるといったことを原因とした生産性の高さに過ぎないだろう。

 一つの仕事にモタモタしてラインを止めることが何回か続くと、ラインから外されて他の仕事に回される。そこでも必要とされる能力を発揮できなかった場合、期間工の場合は次の契約の機会が与えられず、工場から姿を消すことになる。身分が不安定なことと生活がかかっていることから、能力があるなしに関わらず全体的には一番一生懸命に働くのは期間工やパートといった皮肉な現象が起きる。後がない者の一生懸命さである。

 当時バブル崩壊の傷が深まると、期間工やパートのクビを切るだけでは間に合わなくなって子会社社員から希望退職者を募るようになっていたが、そんなことは露知らず依然として学者や文化人といった著名人は新聞やテレビで日本の労働形態は終身雇用で家族的制度だと、それを他国にない日本の優れた労働慣習であるから守るべきだといったようなことを喧伝していたが、遥か以前から不況になれば最初にクビを切る対象に位置づけて雇用調整の安全弁の役目も担わせていた期間工やパートであって、その犠牲の上に成り立たせた正社員に限った限定付きの終身雇用・年功序列の家族的形態であり、そのことに無知であったから言えた日本の優れた労働形態に過ぎない。

 失われた10年も末期に近づくと正社員も人員カットの対象とされるなり振りかまわない終身雇用崩しが展開されたが、日本の優れているとする価値観を見事裏切る皮肉な現象としか言えない。

 問題にしたいのは清水工場本体の定年は60歳だが、人員確保のために子会社に移ると定年は65歳まで延長され、賞与も含めた給与は退職時の水準を確か1年間保証し、それ以降20%ダウンという当時の制度である。

 これは一種の天下り制度であった。なぜなら、そこに鎮座するだけで役に立たない場合でも子会社はクビを切ったりはできず65歳定年を守り、鎮座させるに任せるしかないのは天本氏が取り上げている「民から民への天下り」にも重なる状況だからである。

 天下った定年退職者の1年後にカットされる給与にしても期間工の給与の比ではない点は天下った人間と天下り先の一般従業員との給与格差に似ている。何しろ清水工場本体に20年30年と働いていたのである。それだけの給与保証は当然かもしれないが、それが子会社に移って、全く別種の仕事に取り組まなければならない。小中、もしくは高校まで暗記教育で教育を受け、殆ど一つ現場で同じ仕事をなぞるだけで用を足していたから、ただでさえ柔軟性がないところへ持ってきて年齢も重なって能力そのものにひび割れが生じているといった状態で新しい仕事についていけない。足手纏いになる人間が結構いた。そしてそれでも期間工を遥かに上まわる給与が保証されていた。

 足手纏いの連中は新しい仕事に於ける自らの無能力を補うために「俺は日立に20年いた、30年いた」とそれだけを勲章に自己存在証明の口実とする。言外に「お前ら期間工とは違う」といった蔑みを含んでいた。「日立」という名前を葵の御紋の威光に変えて、そこでの勤続年数を勲章とし、そういったメッキでしかない箔を元手に子会社の現場に君臨しようとする。そのような無能のために犠牲となった期間工がどれ程いたことか。仕事が減り、人手が余ると、メッキたちの終身雇用を保証するために有能・無能関係なしに期間工やパートが先にクビを切られていったのである。

 滑稽なことに6つか7つあったラインのうちの2つのラインは殆どがクビを切られて残り少なくなった期間工が責任者を務めていた。天下ってきた連中がラインの責任者となって満足に梱包の仕事をこなす能力がなかったからである。例えばコンベアに乗ってくる製品が完成する直前に製品名と製品番号が一目で分かるようにそれを大きな文字で書き入れたポスター(選挙用のポスターとほぼ同じ大きさ)を製品の左右と正面に貼り付ける仕事を与えるとする。ラインの途中で欠陥が見つかった製品はその場でフォークリフトで降ろされるから、製品が続き番号でつながって流れてくるとは限らない。製品は完成するまで指示票なる小さな札が取り付けてあって、そこに製品名と製品番号が書き入れてあり、それを確認して同じ番号のポスターを貼るよう教えてあるのだが、クビを切られるまでパートのオバサンが完璧にこなしていた作業であるにも関わらずたびたび間違える。

 よく確認しないからなのだが、日立で20年も30年もしてきた仕事と自分の能力に優越的価値を置いていて、そのことの自尊心に囚われるあまり、過去の仕事との比較でパートのオバサンがしてきたポスター貼りを半端仕事だと見做し、素直に取りかかることができないから確認が疎かになる。

 どんな仕事でも一生懸命にやるという姿勢があったなら、仕事に優劣をつけなくなる。当然どんな仕事でも注意深く丁寧にすることとなって、そう滅多に確認が疎かになるはずはない。

 このように純粋に天下りの形を取って子会社に移ってきたわけではなくても、親会社の威光を背景に君臨するという点で「民から民への天下り」と変わらない天下りもどきの労働姿勢は親会社とその従業員は上の地位、子会社とその従業員は下の地位、期間工はさらにその下の地位と固定的に位置づける権威主義が許し、その反映としてある姿なのだから、権威主義を行動様式としている日本人の日本全国に亘って蔓延している一般的な構図だと見ることができ、簡単にはなくならないという点で一筋縄でいかない問題であろう。

 天下った官僚の元勤務先官庁への影響力を利用して利益を得る官民天下りと同じ構造の民民天下り雇用もある。天下り先企業の利益に絡んでくるから、単純に「弊害」を理由にやめるべきだと主張しても、簡単には受入れられないに違いない。

 例えば小中、高の修学旅行の売込みを重要な営業品目の一つにしている旅行会社はそれぞれの退職校長を採用して、その顔で一つではない、何回か異動している複数のかつての勤務校を訪問させて修学旅行を獲得する仕事に就かせているというが、これなどは官民天下りの「民民」版であって、本質的には同じ構造のものだろう。

 この場合の「顔」とは学校在任中に校長が下の地位に位置させていた教頭以下の教師に対して自らを上の地位の者として立たしめることで獲ち得た「権威」を後ろ盾とした影響力のことだろう。それが教育現場を離れても効き目を失わずに維持される。権威主義的人間関係が如何に日本社会に根づいているかの証明でもある。

 かなり前の新聞記事だが、訪問される学校の修学旅行担当教師の「元校長に頼まれると断りにくい」と言っていた言葉を紹介していたが、権威主義の人間関係を当たり前としている現在でも変わらない束縛となっているに違いない。その束縛が旅行会社にはカネのなる木――利用価値へと変身する。なかなかに一筋縄でいかない天下りである。

 旅行会社は元学校長を雇うについても、修学旅行を獲得してこればきたなりに報酬を支払わなければならないだろうから、その分修学旅行費に上乗せされる。決して「弊害」はないとは言えないが、旅行会社としては会社存続にかかっているから、当然価値観を異にすることとなって簡単には捨てられない「弊害」ということになる。

 03年10月に東京都教育委員会の複数の指導主事が教科書会社から温泉旅行の接待などを受けていたことが判明しているが、教科書会社の中には自社教科書の採用を目的に教科書選定の決定権を持つ教育委員会の退職者の中から天下りを受入れているところもあると疑ってかかれないこともない。

 官民天下りにしても、民民天下りにしても、上の地位にある者と下の地位にある者との間に反応し合う権威主義の行動様式によって有効となる著しく日本人の人間関係に添った雇用形態であり商慣習であるから、その弊害を取り除くには日本人の行動様式から権威主義性を剥ぐことから始めなければ原因療法とならないに違いない。やはり一筋縄ではいかないということになる。それが単に定年退職後の居場所の付与の場合に於ける弊害であっても、企業利益獲得用の「顔」、もしくは口利き役の場合に於ける弊害であっても。

 定年退職後の居場所の付与の場合の天下り人間が持つ権威主義性は弊害以外の何ものでもないだろうが、企業利益獲得用の「顔」、もしくは口利き役の権威主義性は強力な程、民間会社にとって有難い歓迎すべき利用価値ということになって、なおさらに始末に悪い。

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右翼の恫喝に屈したプリンスホテル/たいしたことではないこととする恐ろしさ

2008-02-06 11:55:52 | Weblog

 日教組が毎年開催している教育研究全国集会のうちの全体集会が会場としていた新高輪プリンスホテルに使用を断られて中止に追い込まれた。そのイキサツを「信濃毎日」の2月3日インターネット記事≪集会拒否 憲法の精神に反する≫で見てみると。

①日教組は昨07年5月に会場使用の契約を新高輪プリンスホテルとの間で結んだ。
②11月になってプリンスホテルは右翼団体による妨害行為の可能性などを理由に解約の申し出。
③日教組は裁判所に解約を不当とし会場使用を認めさせる仮処分の申請。裁判所側は東京地裁、東京高
 裁共に申し立てを認めてホテル側に解約は不当との仮処分を決定。
④しかしホテル側は裁判所の仮処分を無視して、会場使用を認めず、日教組側は全体集会を中止するに
 至った。

 新高輪ホテルの使用拒否のイキサツと理由が2月3日付(08年)「読売社説」≪ホテ使用拒否 司法をないがしろにする行為だ≫に詳しく載っている。

①日教組がホテル側に会場使用を申し込んだ際、例年、教研集会の会場周辺では右翼団体の街宣活動が
 あり、警察に警備を要請していることを伝えた上で、契約を結んだ。
③解約理由――契約後、過去の例を独自に調べた結果、100台を超す街宣車の拡声機による騒音や大規
 模警備で、他の利用者や住民に多大な迷惑をかけることが分かったから。

 この種の右翼の妨害は前例がいくつもあり、そのことに無知であったわけではないだろう。大人であるなら、過去の例を調べるまで無知であったは許されない。いわば過去の例を調べるまでもなく既知の事実として、つまり右翼の妨害を覚悟して契約を結ぶ社会的常識上の責任を負う。

 ところが契約後、右翼から電話や手紙、メール等で様々な威しがあったに違いない。どちらに従うのが自己利害に適うか打算を働かせたのち、「他の利用者や住民に多大な迷惑をかける」云々を切札とし(「私たちも商売ですから」とでも言ったかもしれない。)、裁判所の仮処分の決定をも撥ね返す強い意志で会場使用を断ったといったところだろう。

 尤も仮処分をも撥ね返す強い意志とは右翼の要求に従うことに向けたそれ以上に強い意志を背景として生み出された意志であろう。逆ということはあり得ない。例えホテル側がそういった経緯を否定したとしても、右翼の威嚇や妨害の影(=過去の例)に怯えた事実は拭い去ることはできない。憲法が保障している言論の自由、集会の自由、思想・信教の自由を右翼の妨害を避けるために犠牲にしたのである。

 しかし「100台を超す街宣車の拡声機による騒音や大規模警備で」生じる「他の利用者や住民に」かける「多大な迷惑」は民主主義の社会に生きる人間として乗り超えなければならない憲法の保障に対する国民としての義務と責任であろう。

 そうでなければ憲法の保障は有名無実と化す。新高輪プリンスホテルは憲法の保障を有名無実化することで、日本国憲法そのものを蔑(ないがし)ろにしたのである。

 このことは日本国憲法と民主主義に対する重大な犯罪ではないか。尤も日本の民主主義はホンモノでないということなら、民主主義に対する重大な犯罪という告発は取り下げなければならないが、日本国憲法の条文に違反する犯罪である事実は残る。

 だが、日本の著名な企業が犯した重大な犯罪であるにも関わらず、新聞、テレビ、特にテレビのワイドショーはどれ程に取り上げたのだろうか。少なくとも中国の農薬入り餃子と同程度に取り上げていい問題だと思うが、取り上げたのか取り上げなかったのか、一度も目にもしなかったし耳にもしなかった。取り上げたとしても事実をそのまま伝える通り一遍の取り上げ方をしたのではないのだろうか。どのチャンネルを回しても中国製餃子は大仰な言葉回しで放送していたが、偶然なのか、新高輪プリンスホテルが犯した基本的人権犯罪は取り上げていなかった。

 それ程にも日本人の意識に反応しない出来事なのだろうか。だから日本の民主主義は民主主義の衣装を纏ったに過ぎないニセモノだと言われるのかもしれない。

 中国餃子問題に関しては舛添厚労相が製造元の「天洋食品」の全製品を食品衛生法に基づいて輸入禁止措置を取ることを検討するとしていたが、これは国家機関による不買活動そのものを意味する。

 だが、プリンスホテルに対しては文部科学省の銭谷真美事務次官が「会場の理由で全体集会を中止せざるを得なかったのは残念。一般論として、法治国家である以上、司法決定は尊重されるべきだ」(≪日教組の教研集会終わる プリンスホテル会場使用拒否で文科次官も「司法尊重を」≫MSN産経ニュース/2008年2月4日)と、日本国憲法に定めた基本的人権規定に反する重大な犯罪であることは抜きにして、民法に関わる「一般論」を披露するにとどめる事勿れな対応をしただけで、何らかの懲罰を示しもしないし、中国餃子不買活動に相当するプリンスホテルに向けた不利用活動にしても誰も訴えもしないし、誰も宣言もしない。

 江戸時代、最高権力層に所属する日本の誇り高く最高の品格を備えたサムライは自身に無礼を働いた懲罰として農工商の被支配層の人間に対する「切捨て御免」が許されていた。このことは被支配層の人間にとって、少なくとも表向きは「切捨て御免」は当然のこととして受け止められていたということである。

 プリンスホテルは右翼の威嚇に屈して、少なくとも威嚇の影に怯えて「司法の決定」を無視し、思想・信教の自由、集会の自由、言論の自由等の憲法の保障に反する基本的人権犯罪を犯しながら、社会的糾弾を何ら受けずに何の支障もなく企業活動を存続させていく。そしてこのことは記憶の彼方に葬り去られて、何事もなかったこととなっていく。

 憲法の保障に関わるこのような推移は先程触れたように社会全体的に日本人の意識に反応しない出来事となっていることの反映であって、江戸時代の「切捨て御免」のようにある意味当たり前のこと――たいしたことではないこととなっていることの証明でもあろう。

 たいしたことではないから、マスコミも大騒ぎしないし、国民も騒がない。憲法の言葉よりもパン(=食べ物)の方が大騒ぎの対象となる。

 こういった事態は私自身には恐ろしいことのように思えるが、第三者から見たら大騒ぎのし過ぎなのだろうか。誰もがもう少し敏感になって、テレビでも取り上げ、不利用運動も起きて然るべきだと思うが、そういった方向に進む気配は一切ない。

 それとも騒ぎたくても右翼が怖くて騒げないということなのだろうか。その恐怖と戦ってこそ、真の自由と民主主義を知ることになると思うのだが、そうではないと言うことなのだろうか。

 戦前の国家権力や軍部の言論統制が戦後の右翼に許され、社会に横行するままに任されている。そのことにもう少し過剰にに反応してもいいのではないか。反応しないことが横行を許している最大の理由だろうから。
* * * * * * * *
 ≪集会拒否 憲法の精神に反する≫(08.2.3/「信濃毎日」)

 <日本教職員組合(日教組)が毎年開いている催しが中止に追い込まれた。東京で始まった教育研究全国集会のうちの一つ、全体集会である。
 会場に予定していたグランドプリンスホテル新高輪が使えなくなったからだ。いったん受け入れたホテル側が、後から拒否した。教研集会で会場使用をめぐるトラブルはこれまでもあった。中止は初めてのことだ。
 ホテルにも事情や言い分はあるのだろうが、今回の対応にはいくつか問題点がある。見過ごすわけにはいかない。
 まず、司法判断を突っぱねたことだ。ホテルは裁判所の仮処分決定に従わなかった。
 日教組とホテルが会場使用契約を交わしたのは昨年5月だ。その後11月に、ホテルは右翼団体による妨害行為の可能性などを理由に契約破棄を通告した。
 これに対し、日教組が申し立て、東京地裁は会場使用を認める仮処分を決めた。東京高裁も同じく使用を認めている。
 疑問なのは、ホテルの基本的な姿勢だ。なぜ契約が成立して半年もたって、集会が近づいてから解約を言い出したのか。やりとりを聞く限り、日教組側の落ち度はいまのところないようだ。ホテルは、利用者の納得がいくように、背景を含めてきちんと説明してもらいたい。
 企業も社会の一員である。法治国家の下、ルールを守らなければならないのは当然のことだ。イメージダウンは避けられない。
 重要になるのが憲法との兼ね合いだ。使用拒否は、憲法が保障する集会の自由にかかわる。
 右翼団体はこれまで、日教組が大規模な集会を開くたびに街宣車を出すといったやり方で妨害してきた。会場管理者や周辺住民はそれに悩まされながらも、警察などの助けを得て集会を実現してきた。
 今回のホテル側の対応は、これまでのそうした努力にも水を差す。利用者の安全、安心を考えるなら、警察や警備会社と十分連携し、混乱が起きないように努力すべきだった。ほかへの影響が心配だ。
 今回は教職員組合が対象だった。これが例えば、政府や政党ならばどうか。右翼団体が妨害する恐れがあれば、使わせないのか。ホテルの対応が異なるようなら、弁明しても通らない。国民の視線は厳しいことを自覚してもらいたい。
 いちばん責められるべきは、これまで集会を妨害してきた右翼団体である。忘れてはならない。
 全体集会は中止されたものの、分科会は開かれている。会合を最後まで無事に進めてほしい。

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