走るのが好きで、中学校の部活に陸上競技部を選んだ。短距離やフィールド競技よりも長距離がいい成績が出る。長距離に特化して高校は1万メートルや駅伝、大学は駅伝とマラソンとの掛け持ちで練習を積み上げ、それなりにいい成績を残したお陰で、大学卒業前から企業の陸上部から卒業後の進路にと誘いを受けて社会人としてもマラソンと駅伝の練習に打ち込むこととなり、国内外の大会に出場して将来のオリンピック金メダル候補として嘱望され、国内の選考マラソンで優勝、ついにオリンピック代表の座を獲得する。
金メダルの期待を背負い、自身の名誉のため、多くは日の丸を背中に背負ってと考えて日本のために金メダルを目指す。
これはマラソンだけではなく、オリンピックに選手として選考された者の殆どが当たり前のように進む道筋であろう。目標は金メダル。金メダルが駄目なら、せめて銀メダルか銅メダル。目標は高いところに置き、それを目指して苦しい練習を乗り越えていく。
そう、目標は金メダル。一点集中主義の機械性に自らを委ねる。自らの全存在を賭ける。練習と結果のみ。そのこと以外の「言葉」は必要としない。
だが、今日2月5日の『朝日』夕刊の記事がそうではないマラソンランナーがいることを教えてくれた。
男子マラソン世界記録保持者のハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)――彼は言う。
「マラソンと1万メートルどちらに出るかはまだ決めてない」そして、「北京で2時間強も外で走るのは健康によくない。北京五輪組織委員会はマラソンのために対策をとるべきで、そうでなければ走るのは困難だ」
1万メートル金メダルの栄誉とマラソン金メダルの栄誉とでは雲泥の差があるだろ。人々の記憶にも違いが出てくる。1万メートル優勝者は忘れ去られても、マラソン優勝者はなかなか忘れられない。多くの人の記憶に長くとどまる。
だが、ハイレ・ゲブレシラシエは単純機械的にマラソンの金メダルを目指さない。例え結果的にマラソンに出場するとしても、アスリートとして自己が持つ「言葉の影響力」を利用して北京でたった「2時間」走ることが如何に危険か、それ程にも空気が汚染していることを世界に知らしめ、返す刀でその対策を北京当局と中国政府に要求している。
これは一見したところではたいしたダメージを与えているようには見えないが、後で効いてくるボクシングのボディーブローのような圧力となるに違いない。もし中国当局が無視したら、いつどのような形で当局の無能力・放置姿勢の批判となって撥ね返ってこない保証はない。少なくとも現在以上に空気汚染対策を緊急に講じる姿勢を見せないわけにはいかない。
ハイレ・ゲブレシラシエは自己と自国の名誉を背負って機械的に金メダルを目指すことでそのこと以外の「言葉」を取り立てて発しない機械的存在で通すのではなく、北京の空気汚染対策を求める自らの「言葉」を発することで、北京の空気汚染がどれ程であるかを知らしめただけではなく、一般アスリートの機械性から離れた主体性・自律性を持った存在であることを証明したのではないだろうか。
≪ゲブレシラシエ、北京五輪マラソン欠場も≫
<男子マラソン世界記録保持者のハイレ・ゲブレシラシエ(エチオピア)が4日、訪問先の北京体育大学で、「マラソンと1万メートルどちらに出るかはまだ決めてない」と語り、同五輪でマラソンに出場しない可能性を示した。
ゲブレシラシエは北京の空気の汚さと高温多湿の気候がマラソン出場を迷う原因だとして「北京で2時間強も外で走るのは健康によくない。北京五輪組織委員会はマラソンのために対策をとるべきで、そうでなければ走るのは困難だ」と話した。北京五輪自体の欠場は否定し、2カ月以内にどちらに出場するか決めると明らかにした。
また、世界記録更新については、「記録には天気などの条件がそろう必要がある。北京五輪では、特に長距離の記録更新は難しい」と話した。>・・・・
それでも中国製品を必要とする
二、三ヶ月前、100円ショップに中国製の皮付き落花生を求めにいったら、いつもあるのにどこを探してもない。たまたま売り切れたのかと思ったので、そのときは諦めた。100円ショップで買うと消費税と共に105円になるが、同じ製品が業務用スーパーでは消費税込みで98円で買える。ただちょっと遠いので、月初めのその他の食品と合わせたまとめ買いのときに5袋買うことにしているのだが、酒の肴に急に食べたくなって買うときはつい近くの100円ショップに自転車を漕いで買いに行くことにしている。
去年の夏に自転車を買ったのも、ガソリン対策の節約から。10日程してから再び100円ショップに行って落花生を探したが、やはりどこにもない。店員に聞いたら、菓子が並べてある棚をあちこち眺めてから、「すみません、切らしているようです」と言う。
だが、月が替わって業務用スーパーに行ったとき、100円ショップに落花生が置いてなかった理由がすぐさま分かった。98円で買えた落花生が138円の値札をつけている。40円もの値上がりである。これでは100円ショップに置くことはできない。「いえ、値が上がって100円ショップでは扱えなくなりました」と言えなかったのかもしれない。今後とも値上がる製品が続き、100円ショップから姿を消していく商品が跡を絶たないに違いない。
スーパーで一パック100円で買えた肉厚の生しいたけが値上げしたのはもう2年も前のことではないだろうか。中国農産品の残留農薬問題が騒がれ、店頭から一時姿を消していたが、暫くして再び同じ値段同じ量で並べられていたが、それもほんの短い間で、値がかなり高くなった。日本製はそれ以上に高すぎてとても手だ出ない。だが、中国製野菜も値が上がりつつあり、なかなか手が出せない状態となっている。
今回の農薬入り中国製餃子問題でテレビに出ている連中はどの局でも同じように「中国製食品はもう信用できない」とか、「中国製食品に対する不信感はもう拭い去ることができないところまで来ている」、「中国製食品を食べることはやめて、少しぐらい高くても安心・安全な日本の食品を食べた方がいいのではないか」と言っている。
あるいは中国人は人間の生命ということを深く考えていないのではないかと、チッソ水俣病やエイズ非加熱製剤問題、C型肝炎問題等の人命軽視の生命の引き剥がしをケロッと忘れて、さも日本人が人間の命の大切さをいつも考えているかのようなことを言う。
同じ連中が暫く前は国内の食品偽装・食品偽造問題で食品不信を並べ立ていたのである。「何を食べていいのか分からなくなった」、「賞味期限が信用できないなら、何を基準に買っていいかのか」、「私たちは新米と信じて、新米でない物を食べていたのだ」
連中の健忘症はテレビに選ばれて出ている者――テレビエリートだけのことはあって、そのご都合主義は見た目は分からない残留農薬のように見えにくい。連中に健忘症を許しているのはテレビに出て喋ることの正義性であろう。あるいはマスコミが抱えている正義性と言ってもいい。勢い中国製品を槍玉に挙げることで自分たち自身を正義漢に仕立てなければならない。TBSの「朝ズバッ」のみのもんたなど、その最たる存在だ。
自分を正義漢に置いた正義の批判は魔女狩りの姿を取りやすい。最近のいい例がテレビで盛んに展開された朝青龍問題であろう。朝青龍を一人極悪人に仕立てて、自分たちは言葉で仕立てた正義の刃を振り回し好きなように攻撃していた。
これは「栄光欲」の逆説的行為と言える。「栄光欲」の心理は高い評価を受けている他者と自己を結びつけて自己自身の評価を高めようとする心理機制のことで、その典型的な例が有名人の名前を挙げて、俺はだれそれを知っていると自慢し、さも自分がたいした人間であるかのように振舞うことに現れているが、その逆説とは中国製餃子問題に当てはめて言うと、非正義に対して自己を正義に置くことで自己自身の評価を高める心理機制となる。
「栄光欲」の心理機制は既に合理的な客観性、あるいは客観的な自己認識性を失っていることによって発揮可能となる。この構図をさらに逆説すると、テレビで何様の正義漢を演じるには合理的な客観性、あるいは客観的な自己認識性を欠いていることが絶対条件となる。合理的な客観性、あるは客観的な自己認識性を欠いた者のテレビでの発言とは何と倒錯的であることか。
地球温暖化の観点から、中国やオーストラリアといった遠い外国から農産物や肉類を船や飛行機で運ぶとCO2の排出問題があって安いようで高くつくから、日本の食糧自給率を上げるためにも国産品を買うべきだと言っていた女がいたが、生活格差問題を扱うときは貧乏人の味方であるかのようなことを言っていて、これも見事な健忘症である。
生活保護を打ち切られて、食べ物を買う資金がなく餓死する人間も出ている。世の中には生活保護費よりも安い国民年金で生活している人間も相当いる。そういった人間が外国からの安い製品に頼らずに生きていけると思っているのだろうか。
またそれなりに不自由しない生活を送っていても、まだ幼い子供の将来の教育資金に収入の一部をまわさなければならない、あるいは家のローンを抱えているといったことから生活を切り詰めている家庭の多くがいくつかのスーパーのチラシを並べて安売り食品だけをピックアップし、スーパー巡りしているといった光景は当たり前の状況となっている問題で、スーパーがそのような機会を提供し得るのは安売り商品の多くが外国産の安い食品だからであろう。
そういった買い物を経験したこともないし、例え知識として頭にはあっても元々客観的認識を欠いているから、別の話題に頭が集中すると、他のことは健忘症の生贄としてしまう。日本人はテーマを与えてやると、そのテーマだけに集中して力を発揮すると言われているが、上に従ってなぞる権威主義からの一極集中性のテレビエリート版である。
非正義を批判するのはいい。だが、決して自己を正義漢の立場に置かないことだ。利害の生き物であることから免れることができない人間が純粋に正義漢に変身できようがないからだ。
昨年12月28日に千葉市の36歳の主婦が中国製ギョーザの食後、嘔吐・下痢の症状が出て救急車の出動を依頼、一旦救急病院に搬送。続いて119番が同じ家から通報を受け、二女を搬送。
救急病院から移送された市立病院の医師が食中毒の疑いを把握しながら、食品衛生法に基づく保健所への届け出を怠る。
当主婦は次の日、購入先の生協に経緯を訴える。訴えを受けた生協は事食品に関することとしてだろう、商品の残りを回収し、千葉保健所に報告すべく電話したが、保健所が正月休みに入っていてつながらず、メールで主婦の訴えを伝える。
生協側は自前の検査センターで検査、異臭がしたので、外部機関に再調査を依頼したが、下痢原因の特定に至らなかった。
生協はここまで一応の「危機管理」を働かせている。
保健所が生協からのメールを開いたのは正月休み明けの1月4日。主婦は食べ残しの餃子を千葉市保健所に持っていき、異物混入の検査を求める。だが、流通状況や同様の苦情についての調査を約束するが、生協が微生物検査する予定を伝えて、ギョウザ自体の検査を断る。
保健所は地域住民の健康や衛生を支える公的機関である。健康や衛生に基本的に関わる食品状態を検査せずに流通状況や他の苦情の調査から手をつけるのは危機管理意識が全く欠けていたからではないか。その苦情が最初の報告例であったなら、次の苦情が寄せられるまで単に流通状況を調べたで終わる可能性が発生するからだ。
事実そのとおりになったが、想定しない危機に備えることも危機管理であるなら、他人任せの検査ではなく、自らが食品検査から取り掛かって流通関係及び他の苦情の有無を同時進行で行うべきだったろう。
児童相談所が親の子供に対する虐待を把握していながら、自宅訪問はせず、電話で応対するだけの座仕事で済ませて子供を死なせてしまう横着な危機管理を思わせる。
自ら積極的に動く危機管理意識を備えていなかった。また地域住民の健康や衛生を支える公的機関であるなら、正月休みに保健所に交代で詰めろなどとは言わない、転送電話という便利な利器が存在する今の時代、そのような設備で備える危機管理意識ぐらいはあってもいいのではないだろうか。全員が全員正月休みに海外旅行だ、国内温泉巡りだするわけではあるまい。例えそうであっても、転送は携帯電話にもつながるのだから、他の機関に連絡するとか、その場その場で臨機応変な対応を心がける心の備えだけは持つべきだろう。
主婦のみが危機管理行動を取った。それが危機管理意識からではなく、あくまでも例えとして、少しでもカネにしようという不純な動機だったとしても、保健所側は結果的に無駄骨となることがあっても、地域住民の健康や衛生に備えた危機管理として扱う義務と責任を負っているはずである。常々言っているように、「危機管理」とは常に最悪のケースを想定して、最悪を回避するよう備え、行動することだからである。結果としてたいしたことが起きずにカネばかりかかったとしても、人間生命が最悪の状態に見舞われなかったことを以ってよしとすべきだろう。
1月5日には兵庫県高砂市で同じ中国の食品製造会社製のギョーザを食べた家族3人がが食中毒を起こしている。この件のイキサツをちょっとややこしいから2月1日(08年)の読売新聞インターネット記事≪都、情報生かせず・FAX送信漏れも…中国製ギョーザ≫をそのまま引用してみる。
<中国製ギョーザ問題
今回の中国製冷凍ギョーザの問題では、関係機関の情報がうまく集約されず、対応の遅れにつながったことが明らかになってきた。
東京都や品川区によると、兵庫県高砂市で1月5日、JTFが中国から輸入した冷凍ギョーザを食べた家族3人が、有機リン中毒を疑わせる症状を発症しているとの連絡が、同7日に同県から都に寄せられた。
都はこの情報を、JTFの本社がある品川区に伝えて調査を要請し、同区保健センター職員がJTFの食品管理室に電話で聞き取り調査を行った。
その際、JTFからは、〈1〉2007年6月、消費者から「ギョーザを食べて体調不良になった」との電話がJTFの販売店にあった〈2〉同年8月、居酒屋から「ギョーザを食べた客が味がおかしくて吐いた。下痢もしている」と届け出があった――ことが報告された。品川区の担当者は都にもこの情報を伝え、兵庫県にも連絡された。
しかし、行政側が兵庫県のケースとこの2件を、結びつけて対応を取ることはなかった。その後、22日には、中国の同じ工場で製造されたギョーザを食べた千葉県市川市の家族5人が、吐き気や下痢の症状で病院へ搬送される事故が発生。都と品川区は30日になってJTFに立ち入り調査に入り、警察当局やJTなども事実を発表した。
一方、都は31日、7日に兵庫県から連絡を受け、品川区側に調査を依頼した際、農薬中毒症状を示す書類を誤ってファクスしていなかったことを明らかにした。都は食中毒が起きた状況などを示した4枚の報告書をファクスで受け取り、同区保健センターにJTFへの調査を要請するとともに、この報告書もファクスした。しかし、「患者の血中コリンエステラーゼ活性が低くなっている。縮瞳(しゅくどう)もみられる」と、農薬中毒を疑わせる症状を記載した4枚目の報告書を送らず、誤って問題の商品の写真を送付してしまったという。>・・・・
昨年来、一昨年来から賞味期限切れ食品の再利用、腐った肉を混ぜた食品といった食品に関わる偽装・偽造問題が頭に記憶できない程に多発していながら、何ら学習し得ていない食品に対する危機管理意識の希薄さ。例えJTフーズの報告した2件と兵庫県のケースが関連はなかったとしても、関連の有無の調査を経た上での結論とすることが危機管理上の手続きのはずが、そこまでは頭が回らない危機管理不足。
千葉市の保健所は1月21日になって、1月4日にギョウザを持ち込んで調査を依頼した主婦に対して「ギョーザと女性らの中毒に因果関係は認められない」とする流通状況などの調査結果を伝えて、一旦調査を打ち切ることを報告したと中日新聞≪保健所が検査断る 千葉市の被害女性、ギョーザ持参≫(08年2月2日)が伝えているが、流通状況に食品の欠陥の判定を任せること自体にその危機管理の程度を窺うことができる。
ホームグランドの千葉市内に限った流通状況の把握だったのか、翌1月22日に上記「読売」記事にもあるように千葉市から習志野市を挟んで東京方面に20キロほど離れた市川市で同じ中国製ギョーザを食べた一家5人が中毒となり、5歳の女児が一時重体に陥っている。
最初は残留農薬が原因に疑われたが、混入していた有機リン系農薬成分メタミドホスの濃度の濃さから何者かの故意による混入の疑いが有力になってきた。兵庫県の事件のギョウザの袋に小さな穴が開けてあって、内部のトレイにまで達していたと言う。トレイは皿の役目を果たすものだから製品の底に位置した場所に置く。そこからメタミドホスを混入したとするなら、人目から隠すために裏側を狙ったということだろう。
悪意を持った人為的犯行ということなら、それが中国の食品工場内で起きた事件であっても、和歌山毒物カレー事件と同列の犯行者の悪意の程度に応じることとなって防ぐに困難な事件の範疇に入り、問題はやはり事後の対応――危機管理が重要な問題となる。
日本人の危機管理無能力は今に始まった事柄ではない。何事も上は下を従わせ、下は上に従う権威主義に災いされた機械的になぞるだけの行動様式・思考様式がその機械性を離れて柔軟、かつ想像的(創造的)に臨機応変に行動できないことから発している。だからこそ、マニュアル人間だとか横並び症候群だとかあり難い名前をつけられる。
マニュアル人間であっても、マニュアルを忠実になぞって行動していればそれ程大きな間違いは起きないように見えるが、あくまでもなぞり思考だから、これまでの食品偽装・食品偽造事件で何か重大な健康障害を起こしていれば、そのことに備えた姿勢は用意できるが、そういった前例がないケースではそれをなぞってインプットする機会を逸するから、当然のこととしてなぞるべきマニュアルが存在しないことになり、まさしく羅針盤を失った船同然に役目上与えられている責任を果たせなくなる。
尤も前例があってそのことに適切に対応するマニュアルをつくり上げたとしても、機械的なぞり思考であることに変わりはないから、前例に少しでも食い違う新たな事態に対してはマニュアル自体が食い違うことになって、なぞりに不適合が生じ、それがそのまま危機管理行動の不適合となって現れたりする。
民主党の管代表代行が自民党の名は正体を表わしていない古賀誠と顔が正体を表している二階俊博に対して名誉毀損の発言をしたから、正体は顔の下に隠している伊吹幹事長が法的措置を取ると強硬態度に出たそうな、オッパピー。
各インターネット記事から要点を拾い出してみると、
舞台は1月30日のテレビ朝日の情報番組「ワイド!スクランブル」
MNS産経≪自民党、テレ朝と民主党の菅代表代行に法的措置≫(2008.2.1 12:09)記事。
菅直人(古賀誠選挙対策委員長と二階俊博総務会長を引き合いに出して)「顔を見るからに道路利権
だけは放さないという決意が表れている」
伊吹文明「名誉を傷つけられ、党のイメージも著しく損なわれた」
〃 「メディアがこのような発言を平然と垂れ流すのは非常に問題だ」
テレビ朝日に対しても法的措置を検討する考えだという。
日経新聞≪「菅氏発言で法的措置」、自民・二階氏≫(08.2.2)
菅直人「古賀(誠)さんとか二階さんとか顔を見るからに利権だけは離さない決意が表れている」
二階俊博「身体に関係する発言に深い憤りを感じる。明らかに名誉棄損だ。近く法的措置を講ずる」
時事通信≪菅氏発言に抗議、謝罪要求=二階、古賀氏は「利権顔」-自民≫(2008/02/01-16:55)
菅直人「道路族のドンは、古賀さんとか二階さんとか、顔を見るからに利権だけは離さない決意が表
れている」
細田博之幹事長代理「回答の内容によっては民事、刑事上の法的措置を講じる」
日刊スポーツ≪自民が菅直人氏の中傷に謝罪要求≫(08年2月1日22時46分)
菅直人「古賀氏や二階氏の顔は、見るからにこの(道路)利権だけは放さないという決意が表れてい
る」
釈明・謝罪要求の内容「政策論争を根も葉もない中傷にすり替え、国民に誤った理解を与えようとし
た」
鳩山由紀夫民主党幹事長「自民党の本質的な部分をえぐる発言をしたからこそ怒っている。・・・多
少は感情的に訴えて国民の関心を引くことはある」
* * * * * * * *
時事通信が≪二階、古賀氏は「利権顔」≫と直截的な比喩で良くぞ表現したものだと感心した。誰でも思っていることだからではないだろうか。
【直截】(ちょくせつ)「回りくどくないこと。ずばり言うこと」(『大辞林』三省堂)
しかし菅直人の発言は古賀、二階のことを直接的に「利権顔」していると言っているわけではない。「利権だけは放さないという決意が表れている」と言っているに過ぎない。それは顔の表情にだけではなく、道路特定財源を論ずるときの言葉の端々にも現れている「決意」であろう。
また、古賀、二階の政治に他にどんな「決意」があるというのか。「利権」に関わる決意だけで政治の世界をのさばってきたのではないのか。そのような顔をしているように思えるが、私だけのことだろうか。当然、「国民に誤った理解を与えようとした」とはとても思えない。逆に「正しい理解を与える」発言と称賛すべきである。
「誤った理解を与える」といった解釈はこれまでの自民党道路政策、旧道路公団の天下り体質・談合体質、それを何ら正すことができなかった自民党内閣の面々の不甲斐なさからしたら、自民党に許されることではない。自民党に必要なことは先ず我が身を振返ることだろう。
古賀にしても二階にしても常に我が身を振返っていたなら、誰の目にもそう見える「利権顔」に染まらなかったはずだ。
まさしく鳩山由紀夫が言うように菅直人の発言は「自民党の本質的な部分をえぐる発言」だったのであり、我が身を振返る素直さ、振返る能力がないからこそ名誉毀損だ何だと「怒っている」ということなのだろう。
吠えるだけの「名誉毀損」に過ぎないのは最初から分かっている。裁判となったなら、古賀・二階の地元の公共事業がどれ程に利権が絡みに絡んでいるか、あるいは絡んでいないかが審理の中心になるだろうから、顔に表れないように腹の奥底に必死になって押し隠している本質部分のドス黒さまで暴かれることになって、訴えたら都合が悪くなるのは二人の方である。
二階俊博は「身体に関係する発言」と言っているが、直接的にモノとしての身体について発言したわけではなく、あくまでも比喩的は言葉をそうと解釈するのは、本人自身、自分の顔が不健康極まりない「利権顔」になっていることに薄々気づいているからなのではないか。
伊吹の「メディアがこのような発言を平然と垂れ流すのは非常に問題だ」は言論統制意思表示以外の何ものでもない。テレビという公の場での発言であっても、発言の内容自体を問題にすべきで、発言そのものを隠す資格はマスコミにも政治家にもない。例え他人の名誉をどのように傷つける発言であってもである。
「疑わしきは罰せず」を例に取るなら、「疑わしきを罰せず」を一度でも破って「疑わしい」だけで罰したなら、罰する側の恣意が紛れ込むことになって、際限もなく「疑わしい」だけで罰することになる。それを避ける意味からの「疑わしきは罰せず」であろう。
発言が適切ではないからとその場で隠したなら、隠す側の人間にとって都合のいい発言ばかり表に出し、都合の悪い発言は抹殺することとなって、戦前の世界に逆戻りとなる。
また公平・客観的に判断して発言が不適切と思えても、それを隠したなら、発言と同時にその人間と人となりまで隠すことになって、その人間を判断する材料を失うことになる。
伊吹文明は顔の下に単一民族主義者と言論統制者の正体を隠しているのである。民主党とマスコミは伊吹の上記発言を言論の自由を否定する発言として問題にすべきだろう。
道路特定財源の一般財源化と暫定税率廃止に反対する自民党政治家は自民党内の反対勢力というだけではなく、日本の政治に対する反対勢力に位置づけ、落選という手段で政治の世界から追放すべきである。安倍晋三の方法ではない、このような追放こそ、少しは日本を「美しい国」とする方法ではないか。
参考までに引用。
≪自民党、テレ朝と民主党の菅代表代行に法的措置≫(MNS産経)
<自民党の伊吹文明幹事長は1日の記者会見で、揮発油(ガソリン)税などの暫定税率を維持する歳入関連法案(日切れ法案)に関連し、民主党の菅直人代表代行が民放番組で古賀誠選対委員長らに対して行った発言について、「名誉を傷つけられ、党のイメージも著しく損なわれた」して名誉棄損で告訴するなどの法的措置を取る考えを明らかにした。
菅氏は1月30日のテレビ朝日の情報番組「ワイド!スクランブル」で、古賀誠選挙対策委員長と二階俊博総務会長を引き合いに出し、「顔を見るからに道路利権だけは放さないという決意が表れている」と発言。また、民主党の大江康弘参院議員が道路特定財源の暫定措置維持を求める総決起大会に出席したことについて、「(二階氏に)選挙で応援してもらったお返しではないか」と語った。
伊吹氏は「メディアがこのような発言を平然と垂れ流すのは非常に問題だ」として、テレビ朝日に対しても法的措置を検討する考えを示した。
≪「菅氏発言で法的措置」、自民・二階氏≫(日経新聞)
<自民党の二階俊博総務会長は1日の記者会見で、民主党の菅直人代表代行の1月末のテレビ番組での発言に抗議し法的措置をとる考えを示した。菅氏が「古賀(誠)さんとか二階さんとか顔を見るからに利権だけは離さない決意が表れている」と発言した点をあげ、「身体に関係する発言に深い憤りを感じる。明らかに名誉棄損だ。近く法的措置を講ずる」と述べた。>
≪菅氏発言に抗議、謝罪要求=二階、古賀氏は「利権顔」-自民≫(時事通信)
<自民党は1日、テレビでの発言で二階俊博総務会長と古賀誠選対委員長が侮辱されたとして、民主党の菅直人代表代行に書面で謝罪を求めた。この後、記者会見した自民党の細田博之幹事長代理は「回答の内容によっては民事、刑事上の法的措置を講じる」と述べた。
同党によると、菅氏は先月30日午後のテレビ朝日の番組で、揮発油(ガソリン)税などの暫定税率問題に絡み「道路族のドンは、古賀さんとか二階さんとか、顔を見るからに利権だけは離さない決意が表れている」などと述べた。
≪自民が菅直人氏の中傷に謝罪要求≫(日刊スポーツ)
<自民党は1日、民主党の菅直人代表代行に対し、民放番組で道路特定財源の暫定税率維持をめぐって二階俊博総務会長や古賀誠選対委員長を「中傷した」として、釈明と謝罪を求める「通告および質問」書を菅氏側に提出した。
回答次第では党としての法的措置も取るとした異例の姿勢で、国会論戦とは別の“場外戦”が過熱する可能性がある。
これに関連し、民主党の鳩山由紀夫幹事長は記者会見で「自民党の本質的な部分をえぐる発言をしたからこそ怒っている」と反発し、「多少は感情的に訴えて国民の関心を引くことはある」と菅氏を擁護した。
文書は、菅氏が「古賀氏や二階氏の顔は、見るからにこの(道路)利権だけは放さないという決意が表れている」などと発言したと指摘。「政策論争を根も葉もない中傷にすり替え、国民に誤った理解を与えようとした」などとして、発言を裏付ける具体的な根拠を示すことも求めている。
「栄光欲」をキーワードに読み解く
中東チームに身贔屓な笛の吹き方をされることから名づけられた「中東の笛」をテレビ各局が取り上げて以来注目を集めることとなったハンドボール競技・北京五輪アジア予選のやり直し戦が東京代々木競技場で日本と韓国の男女両チーム間で行われた。
その観客動員である。1月29日の女子戦の場合は4200人の観客を集め、翌30日の男子戦は1万257人も集めている。日本のハンドボール人口の殆どが高校、大学の部活か実業団のチーム内にとどまっている状況の中での、あるいは実業団の公式試合でも数百人程度の観客しか集めないこともあるという状況の中でのかつてない一大フィーバーであったらしい。ハンドボール人口そのものは8万5000人だと、蒲生男子総監督自身が言っている(≪蒲生総監督に聞く 女子29日、男子30日“日韓決戦”≫スポニチ/08.1.27)。
観客のフィーバー以上に今までに経験したことのない報道各社のテレビカメラの放列フィーバーではなかったか。どの民放もワイドショーを含めた報道番組の殆どが一日中試合の展開と同時に続々と集まる観客と試合中の興奮振りを伝えていた。
男子の試合の場合、<地鳴りのような声援に代々木第1体育館が揺れる。スタンドは2階席の隅々までジャパンブルーで染まった。>(08.1.31/サンスポ≪【ハンドボール】会場で1万人熱狂!日本中でハンド“狂騒曲”≫ )
男子戦では徹夜する者も出たという。観客席が埋まることはなかったに違いないハンドボールの試合では前代未聞のことだったろう。但し6名のみ。この人数は象徴的でもある。
収容人員が1万3千人程度だということだし、入り切れなかったファンがいたという報道もない。ハンドボールの試合でそのような事態が生じたなら、異常と見做されただろう。天変地異が起こる可能性を疑った方がいい。なぜ6人は必要でもない徹夜までしたのか。
上記記事は伝える。<一番乗りの神奈川・茅ケ崎市の村山直樹さん(29)=会社員=は、前夜の最終電車に乗り午前2時に到着したという。「試合を見るのに徹夜なんて初めて。どうしても観戦したかった」と顔を上気させた。>
マスコミのインタビューを受けて、彼は大満足したに違いない。「午前2時に到着」してまで徹夜したことを知らせたくて。運悪くマスコミに知らせることができなかったなら、友人・知人、誰彼なしに徹夜の事実を伝えていただろう。
テレビで二十歳前後の若い女の子が「テレビを見て、カッコいいなと思って・・・」と高潮した顔で観戦に来た理由を話していた。彼女自身もテレビカメラを向けられ、テレビに自分の顔が映ったことで満足したはずだ。注目を浴びたのである。「中東の笛」のお陰でマスコミに注目されて世間から脚光を浴びることとなった日本の男女ハンドボールチームのようにその試合を観戦に来て、自分もマスコミの報道を通して世間の目が自分に向けられたことを知ったろう。
観客の殆どが男女とも若者で占められていたが、日本ではマイナーに位置づけられているハンドボールの状況から考えると、その多くはハンドボールの試合を満足な形で見たこともないだろうし、関心すら持ったことがない者も多くいたに違いない。そうでないとしたら、多くのファンを抱えながら、「中東の笛」以前は観客席を埋め尽くすには程遠い入りを続けていたという辻褄の合わない奇妙な逆説を生み出すことになる。
マスコミを含めた世間から「注目」の機会を得るには肯定的・否定的ケースの別なく大いなる活躍主体であることを条件とする。例えそれがテレビがつくり上げた虚像であっても。
裏返すなら、何もしなければ、注目されることはない。例え殺人という否定的なケースであっても、また殺害者自身が意図しない活躍として発生した事件であっても、誰でもできるわけではない特定の行為であるゆえに倒錯的にではあるが、大いなる活躍行為の一つに入れることができ、否応もなしにマスコミからも世間からも注目を受ける活躍主体として扱われることになる。その結果、実像とは違う残忍無比といった虚像までテレビがつくり出し、世論が疑わずにそうと信じ込む場合も生じる。
一般的には殺人を犯して世間から注目されたいと考える人間はいないだろうが、時には注目されるために殺人を犯す人間がいる。そういった人間にとっては殺人は活躍行為そのものであろし、殺人を犯す自己を大いなる活躍主体と受け止めているに違いない。自分から進んで自分を殺人に関わる活躍主体としなければ、当初の目的を果たせなくなるからだ。
「中東の笛」をマスコミが一斉に取り上げ、世間の注目が注がれた時点で日本のハンドボールチームは世間の目には活躍主体として映るに至った。その延長線上にハンドボールという競技を知らない人間までもが熱心に代々木体育館に駆けつけるシーンが生じたはずである。
マスコミが騒ぎ世間の注目を集めるに至った活躍主体に一斉に駆けつけること自体が駆けつける者にとっては活躍行為であろう。駆けつけること自体もそうだし、その多くが俄かサポーターとなって「ジャパンブルー」のユニフォームに誰も彼ものように身を包んで観客席から体育館を揺るがす程の「地鳴りのような声援」を送ることも自己を活躍主体とした活躍行為でなければできない芸当である。
すべてはマスコミの過剰な報道をキッカケとして突如出現した他の活躍主体に活躍主体となった自己を添わせ、自己自身の活躍行為とする。そうだからこそ、前例がないにも関わらずたった6名でしかなかったが、徹夜を張ってまで観客の一人となる活躍を目指したのであり、二十歳前後の若い女の子が「テレビを見て、カッコいいなと思って・・・」わざわざ直接観戦に来る活躍を演じたのだろう。
このように他の活躍主体の活躍行為に添わせて自己を活躍主体に高め、自己を活躍させる構図――自己自身の能力発揮を一次的動機として自らを活躍主体に高め活躍する構造のものではない構図――は社会心理学で言うところの他者の栄光を借りた活躍で自己を輝かせようとする「栄光欲」のメカニズムを取った行動反応であろう。
「栄光欲」の心理は往々にして自己自身に特有の活躍能力を持たない者が陥る。例え長年野球ファンであったとしても、中年のオバサンまでがハンカチ王子としてマスコミが騒ぎ、世間が騒ぐ早実、そして早大と籍を置いてきた斎藤佑樹投手にそこまでベッタリでなくていいと思うのだが、マスコミのマイクを向けられて「大好き。試合は全部観戦している」とか、「私の青春、私の息子」だと高揚感も露にするのは、他者の力を借りたものではない自分自身の力を用いた活躍で高揚感を手にすることができないことの代償行為としてあるハンカチ王子という他者の活躍を利用した自己活躍であろう。世間の注目に便乗して自己をその注目対象の一部とする。そのような活躍を以て自らの人生の記念碑とする。そのような活躍を価値ある自己実現の方便とする。
当然のこととしてマスコミのインタビューを受けようものなら、前記ハンカチ王子ファンのオバサンの様に大袈裟に熱狂的ファンであることを訴える。ハンドボールの徹夜組6人も徹夜までする熱いファンを演じることで自己自身を活躍主体とし、注目対象の一部としたかったからだろう。マスコミのインタビューを受けて、それを果たしたわけである。
今朝(2月1日)のNHKテレビニュースでプロ野球が一斉にキャンプインしたことを告げていたが、楽天ゴールデンイーグルスがキャンプ地の久米島入りしたとき、背伸びして人垣の間からデジカメを構え、自分のカメラの方に向かせようとしたのだろう、「マー君、マー君」と声を上げていた結構年のいったオバサンを映し出していた。そのときの出来事は家族だけではなく、知人にまで会うごとに熱く物語られることになるだろうし、写真が上手に撮れていたなら、自慢の種とし、うまく撮れていなければ、大袈裟に残念がって活躍次元で扱われるに違いない。
日常では得られない、非日常の活躍の瞬間であったのだ。そしてそのときの活躍行為は彼女の人生に於ける輝かしい記念碑に位置づけられることとなる。
2005年(平成17年)9月11日の郵政選挙でも同じ光景を見ることができた。選挙応援中の選挙カーの上でマイクを握り、熱弁を振るっている小泉首相にとても選挙権があるとは思えない女子高生の制服を着たギャルたちが「純ちゃん、純ちゃん」と黄色い声を張り上げながら携帯のカメラを向けたり、飛び上がるようにして手を振ったりしていた。
マスコミがテレビカメラを向けて撮影した中に自分たちが入っていたことは自己活躍の価値を高め、それ相応に人生の金字塔として友達に語り継いだに違いない。「どこそこで選挙演説するって言うから、行ってみた。純ちゃん、カッコーよかった。思わずシビレて純ちゃん、純ちゃんて声を上げちゃった。バカみたいだったけど、あたしたちをテレビが撮影していたから、友達ちんちへ行って、ビデオ、セットしておいた。ニュースのとき流すはずだよ」と自己活躍があってこそ獲得できる有意義な時間だったかを告げる。
既に何日か前のブログに書いたが、大阪府知事選で当選した橋下徹が徒歩で選挙遊説中に成人式に出席する前か、出席した後か和服姿の女性の一団に手をあげて近づくと、彼女たちの方からも手を前に差し出して声を上げ小走りに近寄ってきたが、マイクを握っていない方の手で一人ひとり順番に握手するとき、争うように手を差し出したものの順番が回ってこなくてまだ握手して貰えない女性の殆どが握手が待ち切れないといったふうにその場で足をバタバタさせていた。
あの瞬間は彼女たちの日常では得られない、得られないからこそ大仰な振舞いとなった活躍の瞬間であったに違いない。自己の記念すべき活躍譚として後日まで語り継がれることとなる活躍行為。成人式で和服に装い、歩き回ること自体が活躍行為そのものであったろう。
橋下がテレビで活躍していた「有名人」でなければ、大衆の注目はああまで集めなかっただろうし、例え選挙中に握手を求められて応じたとしても、記念すべき自己活躍とはならなかったはずだ。相手がテレビ有名人であり、マスコミや世間の注目を集めて騒がれている人間であればある程にその人物に便乗した自己の活躍度は増す。握手を待ち切れなくて足をバタバタさせたのは活躍主体が橋下ではなく、自分たち自身だったからだろう。そうでなければ、橋下以上に目立つことはできないはずだし、目立とうとはしなかったはずである。
きっと若者の多くは、俺は、私は橋下弁護士に1票入れたと、1票入れたことの活躍を人に自慢げに話し、自らの活躍を誇っただろう。
橋下は票と引き換えに大衆に、特に男女若者層に栄光欲を動機とした活躍の機会を与えたのだ。気づいていたかどうかは不明だが、自分に向けられているマスコミや世間の注目に便乗させて彼らを活躍主体に高めてやった。彼らの栄光欲を誘発できた要因は断るまでもなくテレビの力を借りてつくり上げた人気であり、知名度という名の世間の注目である。
今どきの若い者はアメリカの首都がどこにあるか知らないものが多い。テレビでやっていたことだが、ロシアの領土の一点を指して、この辺かしらと当てずっぽうに言っていた若い女の子がいた。私自身は生きる力さえ持つことができたなら、アメリカの首都がどこにあろうが、そのような無知は問題にしないが、政治家の多くが問題にして基礎知識の必要性を口にしていた。彼女たちは大阪が多くの借金を抱えていることは知っていても、具体的なことは知らないに違いない。財政再建団体というものがどのような団体なのか詳しく知っているだろうか。若者の多くが橋下徹が与えてくれた一時の、だが他ではなかなか得難い栄光欲によって誘発されることとなった人生の記念碑ともなる活躍行為のお返しに1票を投じたに違いない。
その証拠として示すことができる記事がある。JANJANの1月29日(08年)の記事≪大阪府新知事選、橋下徹氏に垣間見えた“ポピュリズム”の芽≫だが、<選挙期間中の1月12日、大阪市内でも若者が多数行き交う北区梅田の富国生命ビル前での演説は若者層の心を強く揺さぶるような演説だった。「みなさんのことを君たちと言ってしまうかもしれない」。そう切り出した演説では「歴史を変えるのは君たち」「歴史が変わる立会人になろう」などと繰り返し、新知事誕生に歴史的な意味合いを持たせた。そして「もう僕らの世代なんです」と絶叫すると若者たちの中には手を突き上げて「ウォー」というような声を発する人がいた。>・・・・・
なかなかのアジテーションである。「歴史を変える」かもしれない活躍行為を約束したのである。そのときの若者たちの高揚感は橋下という活躍主体のテレビや世間から与えられた注目がつくり出す活躍行為の総体に若者たちが栄光欲を通してつながり合えた活躍行為が発した感情の高まりであり、それはアジテーター・ヒトラーの華々しい活躍行為と結びつけることで手に入れることができたヒトラーユーゲントの活躍行為に対応する栄光欲からの高揚感になぞらえることができるはずである。
いわば橋下徹の訴えた改革だ何だといった政策が大勢を決めた当選ではなく、ハンドボールやり直し戦で見せた若者たちの栄光欲を発信源とした仮構の活躍行為が熱烈なサポーターシーンとなって現れたように、橋下のテレビ知名度が刺激した大阪の若者たちの栄光欲を媒介とした活躍行為が方向を決した当選ではなかったかということである。
1月28日(08年)の「asahi.com」記事≪橋下氏、無党派層の半数獲得 若者票も集める≫の中で特に冒頭部分で言っている<初当選した橋下徹氏=自民府連推薦、公明府本部支持=は、無党派層で50%の支持を得たほか、女性から6割近い支持を集めたことが分かった。>がこれまでの推論の傍証足り得ないだろう。
参考までに引用。<朝日新聞社が27日の大阪府知事選で、投票者を対象に行った出口調査によると、初当選した橋下徹氏=自民府連推薦、公明府本部支持=は、無党派層で50%の支持を得たほか、女性から6割近い支持を集めたことが分かった。
調査は府内90箇所で実施し、4513人から有効回答を得た。政党支持率は、自民が29%、民主が25%と続き、公明が9%、共産が8%だった。
自民が大敗した昨年7月の参院選大阪選挙区で、出口調査の各党支持率は自民が28%、民主22%、公明10%、共産9%で、無党派層は22%。今回の選挙で政党支持にほとんど変化がなかった。
今回、投票者全体の25%を占める無党派層では、橋下氏は半数の支持を集め、29%と伸び悩んだ熊谷氏を大きく引き離した。共産党などが推す梅田章二氏は19%だった。
支持政党ごとの投票先を見ると、自民支持層は81%が橋下氏に投票したのに対し、民主支持層は熊谷氏に70%しか投票しておらず、橋下氏に22%が投票、梅田氏にも8%が流れていた。支援を受けた社民支持層でも48%と半数を割った。橋下氏は、支援を受けた公明の支持層でも96%を固め、梅田氏も共産支持層の81%をまとめた。
投票の際に重視したのは「候補者個人の魅力」が39%と最も多く、「主張する政策」で選んだ36%を上回り、今回は政党や政策より個人が前面に出る選挙となった。
「魅力」で選んだ層では橋下氏への投票が72%と突出。21%にとどまった熊谷氏に大差をつけた。「政策」で選んだ層では、橋下氏が37%、熊谷氏が36%と競り合い、梅田氏も26%だった。
男女別でみると、橋下氏は女性の好感度が高く、57%が橋下氏に投票したと回答、熊谷氏に倍以上の差をつけた。年代別でも、橋下氏はすべての年代でトップで、30代で6割を超え、60台を除く年齢層で5割以上を占めた。熊谷氏が橋下氏を上回ったのは、60代の男性だけだった。
一方、「8年間の太田府政を評価するか」との質問では、「ある程度評価する」が38%と最も多かったが、「大いに評価する」はわずか3%。逆に「あまり評価しない」(37%)と「全く評価しない」(20%)を合わせると「評価しない」層は過半数を超えた。>・・・
<投票の際に重視した><「候補者個人の魅力」>にしても<「主張する政策」>にしても、テレビがつくり上げ世間に「注目」させるに至った人物像(=キャラクター)への期待感に軸足を置いた反映値でもあろう。その正体がどう転ぶかは今のところ未知数でしかない。