国家主義者安倍晋三が韓国の雑誌「月刊朝鮮」のインタビューに応じた発言を次の記事が伝えている。
《首相 戦後70年で談話発表したい》(NHK NEWS WEB/2013年3月19日 4時26分)
安倍晋三「韓国人に筆舌に尽くしがたい苦痛を過去に与えた。歴史問題は歴史家に任せ、政治家は未来に対して責任を負わなければならない。
戦後50年には村山総理大臣が談話を、戦後60年には小泉総理大臣が談話を出した。戦後70年には談話を出さなければならないと考えており、機会が来たら熟考して作成する。
自衛隊の名称を国防軍に変えることや集団的自衛権を認めるべきだとする私の政策は韓国のマスコミから極右だとたびたび批判されている。私は韓国も含めた大多数の国と同じ安全保障体制にすべきだと主張しているにすぎず、私の主張が極右なら世界のすべての国が極右国家になる」――
1995年の「村山談話」、2005年の「小泉談話」は共に「植民地支配と侵略」という言葉を使って、反省し、平和への誓を内容としている。
村山談話「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」――
小泉談話「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です」――
そして共に日本の「植民地支配と侵略」による「損害と苦痛」の対象を「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々」としている。
だが、この記事を見る限り、日本の「植民地支配と侵略」による「損害と苦痛」の対象を「韓国人に筆舌に尽くしがたい苦痛を過去に与えた」と、韓国人に限っている。
もし他のアジアの国々の国民をも対象に入れて発言していたなら、「韓国人のみならず多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に筆舌に尽くしがたい苦痛を過去に与えた」といった言葉使いをしたはずだし、記事もその通りに伝えただろう。
もし韓国の雑誌のインタビューだからと言って、韓国人に限ったとしたら、視野狭い単細胞がそのまま出た発言ということになる。日本の首相の発言なのだから、例えどの国で発言しようと、どの国の雑誌や新聞のインタビューであろうと、NHKが取り上げたように他の国々が取り上げないことはないことを予定調和として公平を期すべきが、韓国人のみを犠牲の対象としていることによって他の国々の国民を犠牲の対象から外す公平さを欠く発言となっている。
日本の「植民地支配と侵略」によって多大な「損害と苦痛」を被った国が記事として取り上げていた場合、「何だ、俺達の国の国民には迷惑をかけなかったというのか」と不満を与えかねず、与たとしたら、全体を見ない偏った認識だとの批判を免れかねない。
安倍晋三は、「歴史問題は歴史家に任せ、政治家は未来に対して責任を負わなければならない」と、なかなか体裁のいいことを言っているが、「歴史問題は歴史家に任せ」るどころか、「A級戦犯は国内法的には犯罪者ではない」とか、「従軍慰安婦に関して官憲による狭義の意味での強制連行はなかった」とか、歴史問題について日本の戦争を無罪とする国家主義に立った歴史観を何度も披露しているのである。
あるいは「侵略戦争の定義は定かでない。政府が歴史の裁判官になって単純に白黒つけるのは適切でない」と言いつつ、「侵略戦争の定義は定かでない」とすることによって日本の戦前の戦争の侵略性を間接的に否定する歴史観を自ら述べる矛盾を平気で犯している。
要するに「歴史問題は歴史家に任せ」るとすることによってかつての日本の戦争の侵略性・犯罪性に対する定着している評価を抹消しようと企んでいるに過ぎない。
少なくとも日本の戦争は歴史家がつくり出した歴史ではない。当時の政治家や軍上層部がつくり出した戦争である。だからこそ、節目の年に反省と平和への誓を内容とした「談話」を出さなければならないことになる。
当時の政治家や軍上層部がつくり出した戦争である以上、現在の政治家がその責任を引き継がなければならないし、引き継いでいるということであって、引き継ぎぐことこそが真の反省と平和への誓となるはずである。
責任を引く継ぐ、あるいは責任を引き継いでいるということは歴史問題を歴史家に任せるのではなく、現在の政治家自らが戦争を検証し、総括することをも負っているということを意味する。
ことさら言うまでもなく、検証・総括して評価を定めなければ、責任の引き継ぎようもないからであるし、責任を引き継いでいることにもならないからである。
逆説するなら、安倍晋三は日本の戦争を正義の戦争、アジア解放の戦争、自衛の戦争等々と見ていて、戦争の責任を引き継いでいないから、「歴史問題は歴史家に任せ」るなどと言うことができるのだろう。
とすると、「韓国人に筆舌に尽くしがたい苦痛を過去に与えた」は、そう言わないと政治問題化・外交問題化となることから、それを避ける意味での口先だけのマヤカシということになる。
安倍晋三の、特に歴史問題に関わるマヤカシには気をつけなければならない。
安倍内閣の最新の支持率は60%から70%超と高いものがある。円安、株高と実行力のあるところを見せつけ、その経済政策がアベノミクスと称賛を受けているだけのことはある。
尤もこの円高、株高、アメリカの景気回復が後押ししていると指摘する識者もいる。だとしても、安倍首相は自信に満ちている。3月18日(2013年)夜、自民党東京都連の会合で7月参院選挙の勝利に自信のあるところを見せた発言を披露したようだ。
勿論、目標は自民・公明両党で過半数の議席確保だろう。内心、単独過半数を目論んでいるかもしれない。目論んでもいい現在の支持率の高さを見せつけている。
《参院選は親のかたき討つで過半数目指す》(NHK NEWS WEB/2013年3月18日 21時31分)
安倍晋三「去年の衆議院選挙で多くの議席を奪還し、政権を取り戻すことができた。この政権奪還によって、日本を覆っていた雰囲気が大きく変わり、だんだん景気はよくなり始めているが、まだまだ多くの人たちに実感を持ってもらうまでには至っていない。
ことし夏の参議院選挙で、自民党と公明党で過半数を取り戻すことが、日本を取り戻すことにつながる。6年前の参議院選挙で、自民党が惨敗したことには、わたしにも大きな責任があり、参議院選挙の戦いは、親のかたきを討つようなものだ。これに勝たなければわたしは死んでも死にきれない」
「だんだん景気はよくなり始めているが、まだまだ多くの人たちに実感を持ってもらうまでには至っていない」と言っているが、十分に自覚しているようだ。
「産経・FNN合同世論調査」が「アベノミクスの効果による景気回復」を聞いている。
実感する28.7%
実感しない68.2%
円安による為替差益によって一部の外需型企業と株高によって株を資産の一部としている所得余裕層がアベノミクスの多大な恩恵を受けているが、一般国民は円安による輸入生活物資やエネルギーの高騰によって逆の立場に立たされている状況を如実に映し出している世論調査結果と言える。
国会議員の多くが株を資産としているから、一般国民の生活不安を他処にこれだけ資産が増えたと腹勘定しているかもしれない。
「6年前の参議院選挙で、自民党が惨敗した」、「参議院選挙の戦いは、親のかたきを討つようなものだ」と言っている。
2006年9月20日の小泉純一郎任期満了に伴う自民党総裁選で安倍支持の雪崩現象を引き起こし、対立候補の麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党総裁に選出され、9月26日の臨時国会で首班指名を受け、戦後最年少、戦後生まれ初の栄誉と期待を担って内閣総理大臣に就任。
だが、2006年12月、本間正明政府税制調査会長が東京の公務員宿舎に愛人を入居させていたスキャンダル、2007年事務所費の不透明支出と光熱費問題で追及を受けていた松岡利勝農水相の5月自殺のスキャンダル、その他閣僚の事務所費問題等のスキャンダルが影響して2007年7月29日の参議院選挙で改選64議席のうち37議席当選、27議席落選の自民党大敗。参院第1党を民主党に譲り、ねじれ国会を現出させ、政権運営に困難を来すこととなった。
そして2007年9月10日に第168回臨時国会開催、所信表明演説、2007年9月12日衆議院本会議代表質問の当日、記者会見を開いて辞任表明。約1年の安倍内閣に幕を閉じた。
要するに自民党戦後一党独裁政治状態の幕引き――政権交代の幕開けのキッカケをつくった。
だが、参院選自民党大敗は有権者の選択である。有権者が安倍内閣にノーを突きつけた。安倍晋三が口にした「参議院選挙の戦いは、親のかたきを討つようなものだ」という言葉を当てはめると、有権者を親の敵討ちの敵(かたき)としたことになる
有権者を親の敵討ちの敵(かたき)として憎悪の対象、倒すべき相手と認識したことになる。
これはお門違いと言うものだが、実際にはそのようには具体的には認識してはいなかったろう。
だとしても、ごく常識的に言うと、身近に迫った参院選に臨む姿勢は衆院選以後の内閣運営及び政策に対する結果を参院選での有権者の判断材料として、議席獲得はその選択に委ねるというのが選挙の一般的なルールであって、2007年参院選敗北のリベンジを果たすと言うならまだしも、親の敵(かたき)云々の発想とは無縁であるはずである。
有権者の判断に委ねるという選挙のルールに厳然と従う。このような姿勢があって初めて、有権者の判断を尊重することになる。
だが、そういった姿勢とは無縁の発言を口にした。無意識下に有権者の判断を尊重していない意識があり、知らず知らずのうちに有権者を親の敵討ちの敵(かたき)に見立てる趣旨の発言となってしまったといったところではないだろうか。
この見方が穿(うが)ち過ぎだとしても、少なくとも安倍晋三なる政治家は参院選に「親の敵(かたき)を討つような」姿勢で臨もうとしていることだけは確実に言うことができる。
とすると、やはりここには有権者の判断を尊重して、その選択に全てを委ねるとする一般的な選挙に於ける謙虚さを欠いていることになって、発言から有権者を親の敵討ちの敵(かたき)に見立てている姿勢だと解釈したとしても、さして差はないことになる。
安倍晋三は好んで「国柄」という言葉を使う。このことは彼の国家主義と深く関係している。
最近では3月15日(2013年)のTPP交渉参加決定記者会見と2日後の3月17日の自民党大会で続け様に使っている。
TPP交渉参加決定記者会見――
安倍晋三「最も大切な国益とは何か。日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化。その中から生まれた世界に誇る国民皆保険制度を基礎とした社会保障制度。これらの国柄を私は断固として守ります」――
自民党大会――
「国益とは麗しい日本の国柄だ。日本は古代より朝早く起きて田畑を耕し、病気の人が出ればみんなでコメを持ち寄って助け合った。ここから生まれた国民皆保険制度は断固として守る」――
前者は直接的に「これらの国柄を私は断固として守ります」と言って、守る対象としているが、後者は直接的には言っていないものの、国益とは国家の利益を指し、守るべき対象として義務付けているのだから、「国益とは麗しい日本の国柄だ」と言っていることは日本の国柄を国家の利益の対象として守ることを自らの義務としているという譬えとなって、前者も後者も同じ意味となる。
また、守る対象としている以上、日本の国柄を肯定的に把えていることになる。ここから、「日本には世界に誇るべき国柄があります」という発想となる。
では、「国柄」の意味を辞書で見てみる。
『国柄』
・その国やその地方の風俗・習慣・文化などの特色。
・その国の成り立ち。国体。
・その国が本来備えている性格・性質。(『大辞林』三省堂)
この3つの意味を総合すると、安倍晋三が言う「国柄」とは日本古来から今に続く国の形を指しているはずだ。古来から今に続く国の形であるから、そこに日本独自の変わらない伝統・文化を存在させていることになる。
そして国の中心を国民ではなく、天皇と見ているが、この思考構造も国家優先の国家主義によって成り立っているはずだ。
安倍晋三「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」(自著『美しい国へ』)
安倍晋三「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね」(2012年5月20日放送「たかじんのそこまで言って委員会」)
要するに安倍晋三が問題とし、重要視しているのはあくまでも天皇中心の日本という国家=国柄である。
また、国柄を強調すること自体が国民よりも国家を優先させていることを証明することになる。勿論、ここに安倍晋三の国民を従属的位置に置いて国家を優先させる国家主義が現れている。
例えば記事冒頭で取り上げたTPP交渉参加決定記者会見の安倍晋三発言で、「世界に誇るべき国柄」として「息を飲むほど美しい田園風景」を挙げてから、続いて農村の少子高齢化、若者の農村離れ・農業離れ、耕作放棄地の増大等々に触れているが、「美しい田園風景」を裏切る農業が内在させている現実として対比させたのではなく、「美しい田園風景」はあくまでも日本の国柄として固定的・不変的に存在する伝統・文化であるが如くに捉えて、それとは別個に存在する農村の少子高齢化以下の風景の数々としているところにも国家優先の思想を見て取ることができる。
TPP参加決定記者会見発言からさらに証拠固めとして言うなら、冒頭発言には交渉に参加した場合の国家経済のプラス・マイナスの視点からの発言はあっても、「国民の生活」、あるいは「生活」、「消費者」という言葉を一言も発していない国民目線、あるいは国民生活目線、消費者目線の不在にも国家優先を窺うことができる。
但し記者との質疑で初めて消費者とか生活とかの言葉が出てくる。
記者が「安い外国米や畜産物が入ってくることを望む消費者と、農業の聖域化の狭間にある溝を総理はどのように受けていらっしゃるか御説明ください」と、冒頭発言では触れていなかった「消費者が受ける恩恵の優先順位」について尋ねたのに対して次のように答えている。
安倍首相「多くの関税が撤廃されていくことによって物の値段が下がっていく。これは消費者が享受できる利益だと思います」――
記者は自民党が先の総選挙で公約とした、主として農産物を対象とした「聖域なき関税撤廃を前提とする限り、TPP交渉参加に反対」を念頭に置いて、消費者のメリットとの関係で聞いたのである。安倍晋三にしても記者会見中、「一方で、TPPに様々な懸念を抱く方々がいらっしゃるのは当然です。だからこそ先の衆議院選挙で、私たち自由民主党は、『聖域なき関税撤廃を前提とする限り、TPP交渉参加に反対する』と明確にしました」と言っているのだから、日本の農産物の関税維持の観点から、その点に於ける消費者のメリットを説明しなければならないはずだが、農産物以外の関税撤廃と差し引きさせた利益を言っているが、一般的な国民、一般的な消費者にとって農産物が最も身近で、最も多消費、日常的な生活物資であって、そうである以上、農産物の関税維持と消費者の利益の直接的な関係に言及しなければならないはずのところを言及せずに済ましていることも、日本の国の形としての国柄を強調するが、国を構成する国民の生活を強調しない点、国民を優先順位として国の下に置いているからこそであって、国家優先・国民後回しの姿勢の現れと言えるはずだ。
第183回国会施政方針演説で、「日本は瑞穂の国です。息を飲むほど美しい棚田の風景、伝統ある文化。若者たちが、こうした美しい故郷(ふるさと)を守り、未来に『希望』を持てる強い農業を創ってまいります」と言い、若者を生活者としてそこに置いてはいるものの、日本を「瑞穂の国」と日本書紀時代以来の美称で呼んでいるところに若者に優先させた国の形、国柄の重視――国家優先・国民後回しの思想が見えてくる。
安倍政治がこのような政治であることが徐々に露わとなってくるはずだ。
安倍晋三は新ローマ法王就任式に日本政府の代表として森本首相を派遣すると発表した。
菅官房長官「就任式にふさわしい方という中で、森氏が最適と考えた」(MSN産経)
ローマ・カトリック教会の最高位聖職者である新ローマ法王の就任式にふさわしく、最適の人物が森喜朗だというのだから、最適任者とした安倍晋三の感覚を疑う。
誰かの推薦であったとしても、最終判断は首相の安倍晋三だから、自らの感覚、人間を見る目に於いても最適任者と見たのだろう。
宗教とは究極的には人間のあるべき生命(いのち)の姿を問い、安らぎを与えようとする科学であろう。
また人間の生活とは時々刻々、あるいは1日1日、生きて在る生命(いのち)を紡いでいく、その連続であるはずである。
当然、新ローマ法王の就任式に出席するにふさわしい人物は、常にではなくても、状況に応じて人間を生命(いのち)ある存在と受け止める感受性を十分に持ち、その感受性を、宗教者の人間のあるべき生命(いのち)の姿を問い、安らぎを与えることを自らの使命としている感受性と響き合わせることができなければ、その資格を有しないはずだ。
では、森喜朗がそういった人間か見てみる。
既に多くの国民が周知の事実としている出来事で、多くの国民が忘れているかも知れず、ぶり返すことになるが、首相時代の2001年2月10日、ハワイ州のオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦「グリーンビル」に衝突され、5分程度で沈没する事故が起きた。
事故の一報はSPの携帯電話に入り、知らされた。だが、森喜朗はプレーを続けた。第一報後、直ぐにはその場を離れないように言われたからだと弁解しているようだが、携帯電話で連絡を取り合う時代、しかも携帯電話を所持している者が身近にいる場合、その場所自体に危機管理上の機能を持たせている場合を除いて、その場を離れないでいるようにという指示は意味をなさない。
直ちにプレーを中止して車なりで首相官邸に向かったとしても、いつでもどこでも携帯で連絡を受けることもできるし、指示を出すこともできる。
だが、クラブハウスで待機するならまだしも、プレーを続けていたのである。プレーを続行していても、携帯で随時指示ができるという弁解も成り立つが、どこにいようとも犠牲者数に変りはなかったとしても、直ちに首相官邸に向かうかどうかで国民の生命の安全に対する姿勢――事故遭遇者を生命(いのち)ある存在と受け止める感受性に違いが出てくる。
このことこそが問題であって、国民の生命・財産を預かりながら、そのような姿勢に応えることができなかった。
えひめ丸の乗組員である教師や高校生たちを生命(いのち)ある存在と受け止める感受性を持ち合わせていなかったからこそ、プレー続行となって現れた国民の生命に対する危機管理の希薄性だったはずだ。
特にえひめ丸乗員の高校生たちの若い生命(いのち)の行く末を考える神経を持たなかった。
このような生命(いのち)への想いを蔑ろにした前科に時効はないはずだ。
生命(いのち)の感受性を欠いた人物を、例え元首相であろうと、新ローマ法王の就任式に日本政府代表として派遣する。きっと安倍晋三の感覚が森喜朗の感覚と響き合って適格性を認めることとなった人選に違いない。
響き合わなければ、頭にさえ浮かばなかったろう。
いわば両者の精神となっている生命(いのち)の感受性が同レベルだからこそ、森喜朗は最適人物として安倍晋三の目に適った。
文科省が3月13日(2013年)、《体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について》なる通知を全国の教育委員会教育長や各都道府県知事等に宛てて出しのをマスコミ報道で知った。
マスコミが「体罰と指導の違い」を伝える通知との趣旨で報道しているところを見ると、要するに大津中2男子のイジメ自殺や桜宮高2男子体罰自殺で学校や教育委員会が満足に対処し得えず、自らのその不始末をゴマカし、責任回避を図る目的で事実を隠す情報隠蔽や異なる事実を発表したりする情報操作を図ったりしたが、その一方で指導としての体罰必要論やどこまでが体罰でどこまでが指導なのかといった声が噴出したことを受けて、体罰と指導との違い、その線引きに一定の指針を与える目的での通知ということなのかもしれない。
文科省のHPにアクセスして、件(くだん)の通知をダウンロード、その中に6年前の2007年2月5日に、《問題行動を起こす児童生徒に対する指導について》という通知を同じく全国の教育委員会教育長や各都道府県知事等宛てに出していることを知った。
但しイジメや体罰に関する文科省通知を出すのは何も2007年が初めてではあるまい。
このことを前提として、2007年通知の冒頭を見てみる。
〈いじめ、校内暴力をはじめとした児童生徒の問題行動は、依然として極めて深刻な状況にあります。
いじめにより児童生徒が自らの命を絶つという痛ましい事件が相次いでおり、児童生徒の安心・安全について国民間に不安が広がっています。また、学校での懸命な種々の取組にもかかわらず、対教師あるいは生徒間の暴力行為や施設・設備の毀損・破壊行為等は依然として多数にのぼり、一部の児童生徒による授業妨害等も見られます。
問題行動への対応については、まず第一に未然防止と早期発見・早期対応の取組が重要です。学校は問題を隠すことなく、教職員一体となって対応し、教育委員会は学校が適切に対応できるようサポートする体制を整備することが重要です。また、家庭、特に保護者、地域社会や地方自治体・議会を始め、その他関係機関の理解と協力を得て、地域ぐるみで取り組めるような体制を進めていくことが必要です。〉――
「問題行動への対応」は「未然防止と早期発見・早期対応の取組」だと言い、このような対応に反することになる問題行動の隠蔽を、「学校は問題を隠すことなく」と戒め、教職員一体の対応と、学校が適切に対応できるサポート体制の整備を教育委員会に求めている。
だが、大津中2イジメ自殺や桜宮高2体罰自殺では事実の把握を積極的に行わなかったり、あるいは怠ったりして未然防止の機会を失ったばかりか、イジメや体罰を受ける側の精神的ダメージを過小評価して自殺自体の未然防止の機会さえ失い、当然、「早期発見・早期対応の取組」を機能させることができなかった上に、自らの不始末・無能を知られないようにするためにだろう、学校は初期的には問題を隠そうとした。
そして2007年から6年後に今回再び通知を出したということは、全国の法務局が去年1年間にいじめに関する相談を受けて調査を行った件数は3988件、前の年に比べて682件、21%増え、教職員による体罰に関する調査件数に関しては370件、前年比で91件、33%増え、いずれも平成13年(2001年)以降最多だと「NHK NEWS WEB」記事が伝えていることと、相談しなかったイジメや体罰もあるだろうから、そのことも併せて考えると、要するに多くの教育委員会や学校が文科省の2007年通知を、冒頭の文言を読んだだけでも生徒指導や教育に生かすことができなかったことを証明することになる。生かすだけの能力を持っていなかった。
生かす能力とは考える能力を言う。
逆に文科省にしても出した通知は多くの教育委員会や学校に対してその内容通りに生かさせる力を持たなかったことになる。
教育委員会や学校側が生かすだけの考える能力を備えていないことが主たる理由なのだろうが、文部省側にしても教育委員会や学校側が生かすことができる内容の通達とはなっていないということも原因となっているということもあり得るはずだ。
要するに文科省が「ハイ、通知を出しました」で終わり、多くの学校が(多分、殆どの学校でだろう)「ハイ、通知を受け取りました」で終わらせていることになる。
教育委員会や学校にしても学校で何か問題が起きるたびに文科省から通知を受け取って、ああしなさい、こうしなさいと指導されること自体、教育委員会も学校も考える力を持たないことを意味する。
2007年通達で、既に体罰と指導との線引きを行なっていながら、今なお線引きが問題となっていることも、教育委員会や学校の考える力の不在の証明としかならない。
〈体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械的に判定することが困難である。また、このことが、ややもすると教員等が自らの指導に自信を持てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いているとの指摘もなされている。ただし、教員等は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合においても、身体に対する侵害(殴る、蹴る等)、肉体的苦痛を与える懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間保持させる等)である体罰を行ってはならない。体罰による指導により正常な倫理観を養うことはできず、むしろ児童生徒に力による解決への志向を助長させ、いじめや暴力行為などの土壌を生む恐れがあるからである。〉等に相当する指導を体罰として厳禁し、体罰に替わる指導方法として「出席停止制度の活用」や、昭和60年2月22日の浦和地裁判決である「生徒の心身の発達に応じて慎重な教育上の配慮のもとに行うべきであり、このような配慮のもとに行われる限りにおいては、状況に応じ一定の限度内で懲戒のための有形力(目に見える物理的な力の行使)が許容される」を持ち出して許可とし、有形力以外の許可例として、別紙で、放課後等の教室残留(但し用便の外出は許可)、授業中の教室内起立、学習課題や清掃活動の強制、学校当番の順番外の割り当て、叱責による強制等を挙げている。
そして2013年の今回の通知でも〈懲戒と体罰の区別等についてより一層適切な理解促進を図るとともに、教育現場において、児童生徒理解に基づく指導が行われるよう、改めて本通知において考え方を示し、別紙において参考事例を示しました。懲戒、体罰に関する解釈・運用については、今後、本通知によるものとします。〉と、改めて線引きを行わなければならない状況に立ち至っている。
その例として、別紙ではなく、追記の形で、〈退学(公立義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、停学(義務教育諸学校に在籍する学齢児童生徒を除く。)、訓告のほか、児童生徒に肉体的苦痛を与えるものでない限り、通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為として、注意、叱責、居残り、別室指導、起立、宿題、清掃、学校当番の割当て、文書指導などがある。〉と、2007年と同様のことを指導している。
2007年通知に続いて似たような内容の今回2013年通知を出さなければならなかったことを考えると、やはり教育委員会や学校自体が自ら考えて対処する力を持っていないことの証明にしかならないはずだ。
さらに既に触れたように2007年の通知が初めてではないことを前提とすると、教育委員会にしても学校にしても通知の指導を生かす考える力を持たずに今日まで推移するに任せ、文科省も指導を生かすことのできる効力ある指導内容をつくるだけの考える力を持たずに延々と通知を繰返してきたことになる。
要するに生かす力も考える力も発揮できない無為・無策の前科を重ねてきた。その間、何人かの児童・生徒を自殺という形で死なせきた。
2007年通知には、〈昨年成立した改正教育基本法では、教育の目標の一つとして「生命を尊ぶ」こと、教育の目標を達成するため、学校においては「教育を受ける者が学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことが明記されました。〉と書いてあるが、「未然防止と早期発見・早期対応」を機能させることができずに何人かの児童・生徒を死なせてしまった教育委員会や学校の責任回避からの繰返される情報隠蔽や情報操作からは「生命を尊ぶ」姿はどこにも見えてこない。
こういった経緯から、今回改めて通知を出したとしても、何かを期待できると言えるのだろうか。
学校の教師にしても暗記教育で育ったから、自分たちが進んで対処する方法を見い出していこうとする自律的に考えていく力を持たなかったことが原因のように思えて仕方がないし、文部省の役人にしても、暗記教育形式で上に立つ者として、ああしろ、こうしろと口を出さずにいられないから、下の自律性をいつまでも阻害する悪循環が通知の無力を誘発しているように思えるが、どんなものだろうか。
昨日、2013年3月15日夕方6時から、安倍首相がTPP参加決定を、「なぜ私が参加するという判断をしたのか、そのことを国民の皆様に御説明をいたします」と冒頭言い、報告する記者会見を首相官邸で開いた。相変わらず自信に満ちた言葉遣いとなっているが、認識能力の程度も相変わらずのものを曝していた。
トップの認識能力は日本の交渉当事者に対策を指示する場合に於いても、会議が提供する情報の解釈に於いても、何らかの判断の決定に於いても、結果の良し悪しを左右し、当然、成果に影響していく。
勿論政治はチームプレーだから、周囲の認識能力がトップの認識能力を補うが、やはりトップの認識能力は陰に陽に政策に影響していくはずだから、問題としないわけにはいかない。
私自身はTPP参加に賛成である。特に農産物の聖域なき関税撤廃の面から積極的なTPP参加論者となっている。いわば低所得生活者の利害からの賛成である。
立場立場でそれそれが利害を異にする。低所得生活者の立場からのみ言うと、農産物の聖域なき関税撤廃が実現された場合、確実に現在以上に可処分所得が増えることになる。少額年金生活の中で安心して人生末期を過ごし、死に向かって踏み出すことができるというものである。
但し農産物の聖域なき関税の全面撤廃は、日本農業復活の政策が伴えばいいが、伴わなかった場合、これまでの経験則から言うとその確率の方が高いだろうから、そのことによって打撃を受ける農業に対する補助金を逆に増やすことになり、消費税等の税金となって跳ね返ってこない保証はない。
当然、農産物の関税をかなりの程度引き下げ、かつ日本の農業を復活させる政策に期待したいところだが、果たして安倍晋三にはその能力が期待できるだろうか。
自民党政治は日本の農業を保護するために輸入関税に高い壁を拵え、その上国の財源を補助金として多大に消費してきた。その分、製品価格の面で国民に負担を強いてきた。負担は消費税負担と同じで低所得生活者程逆進性を持つ。
戦後自民党が一貫して高い関税と多額の補助金で農業を保護して2009年の民主党政権交代までの60有余年で日本の農業が力をつけ、世界的に競争力を持つ産業に育成し、自給率が高まったというなら、我慢もできる。
ところが逆で、日本の農村は都市と比較しても進行した少子高齢化社会となり、キーワード化して久しい「限界集落」、「耕作放棄地」、「後継者不足」、「コメ離れ」、「若者の農村離れ」等々によって表現される農村と化した。
逆説するなら、戦後自民党政治が成果とした「少子高齢化」、「限界集落」、「耕作放棄地」、「後継者不足」、「コメ離れ」、「若者の農村離れ」等々のキーワード化だということである。
では、安倍晋三が記者会見で日本の農村と農産物の関税についてどう話しているか見てみる。
安倍晋三「最も大切な国益とは何か。日本には世界に誇るべき国柄があります。息を飲むほど美しい田園風景。日本には、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら五穀豊穣を祈る伝統があります。自助自立を基本としながら、不幸にして誰かが病に倒れれば村の人たちがみんなで助け合う農村文化。その中から生まれた世界に誇る国民皆保険制度を基礎とした社会保障制度。これらの国柄を私は断固として守ります。
基幹的農業従事者の平均年齢は現在66歳です。20年間で10歳ほど上がりました。今の農業の姿は若い人たちの心を残念ながら惹き付けているとは言えません。耕作放棄地はこの20年間で約2倍に増えました。今や埼玉県全体とほぼ同じ規模です。このまま放置すれば、農村を守り、美しいふるさとを守ることはできません。これらはTPPに参加していない今でも既に目の前で起きている現実です。若者たちが将来に夢を持てるような強くて豊かな農業、農村を取り戻さなければなりません」――
何と言う素晴らしい認識能力だろうか。言っていることの矛盾に気づかない。日本農村に於ける基幹的農業従事者の平均年齢が20年前と比較して10歳程度上昇、66歳となっている少子高齢化を言い、若者の農村離れを言い、20年間で約2倍に増えた耕作放棄地を言い、そのように日本の農村の疲弊した危機的状況を自らの口で描き出しながら、「息を飲むほど美しい田園風景」だと言い切ることのできる感覚、認識能力は世界一ではないのか。
外見だけ美しくても、中身がボロボロなら、外見は単なるハコモノと化す。外見と中身が一致してこそ、ハコモノはハコモノであることから脱して、「美しい田園風景」が生きてくる。
既に触れたが、ボロボロの中身は戦後自民党一党独裁時代の無能政治がつくり出した成果である。日本の農村の危機的状況を一方で言いながら、農村風景を「息を飲むほど美しい田園風景」だと言い、「世界に誇るべき国柄」だと言っているのはボロボロの中身をつくり出した自民党政治に対する反省意識がないからに他ならない。
もし少しでも反省意識があったなら、「国柄」や「田園風景」よりも、自分たちがつくり出したのだから、中身のボロボロにこそより目を向けるはずだ。
だが、中身のボロボロよりも「国柄」を「世界に誇るべき」と言ったり、田園風景を「息を飲むほど美しい」と言ったり、外見により目を向け、必要以上に価値づけている。中身を誇ることができなければ、意味はないにも関わらず。
尤も国の中身の国民を問題とせずに国の形を重視する国家主義者らしい発言だとは言うことができる。
「若者たちが将来に夢を持てるような強くて豊かな農業、農村を取り戻さなければなりません」――
確かに言うとおりである。だが戦後自民党政治がダメにした日本の農業、日本の農村である。60有余年もかけてダメにするしか力がなかった自民党の政治力が、いくら口先で「自民党は変わった」と言おうが、一朝一夕に変身するとは思えない。
このことは日本の農村が「自助自立を基本」としていると言っているところにも現れている。補助金漬け、補助金頼みを植えつけた親方日の丸体質、各種規制による保護頼み体質の他力本願が逆に日本農業を衰退させてきたのであり、「自助自立を基本」は幻想でしかない。
ごく一部の農業従事者にしか当てはまらない「自助自立」であろう。
「世界に誇る国民皆保険制度」と誇っていることにしても最近は制度疲労が著しく、2010年度国民年金納付率は42.1%まで落ち込んでいるという記述もある。
保険料の支払いにしても財源不足で消費税増税や支給年齢の引き上げで賄わなければならないところにまで来ている。現在以上に制度の維持に四苦八苦するようでは、世界に誇っていた制度が中身の伴わないハコモノと化さない保証はない。
そのことへの危機感もなく、しかも国民会議で社会保障制度の設計がまだできていない時点で、「世界に誇る国民皆保険制度」と誇ることができる認識能力も素晴らしい。
かくまでも安倍晋三の認識能力にクエスチョンマークをつけざるを得ない。この程度の認識能力であるなら、日本農業を自立させ、復活させる政治も、TPP交渉で日本農業を自立的に維持可能とする範囲の農産物の関税率で決着させる交渉力も望めはしないだろう。
そう確信させる安倍晋三の認識能力であった。
茨城県牛久市の名児耶匠(なごや・たくみ)さん(50)が選挙があるたびに楽しみにして投票所に出かけ、投票する選挙権を行使してきたが、ダウン症で知的障害がある彼女の将来を考えてのことなのだろう、6年前の2007年に父親と妹が彼女に代わって財産管理を行う2000年開始の成年後見制度を利用して後見人となり、彼女自身は成年被後見人となった。
但し問題があった。公職選挙法では後見人がついて成年被後見人となると選挙権を失うと規定されていて、彼女は選挙権を失い、楽しみにしていた投票の権利を奪われることとなったという。
そこで匠女史は敢然として立ち上がり(多分)、「障害者を守るはずの制度が逆に権利を奪うのはおかしい」と東京地裁に国を相手取り訴訟を起こした。
《成年後見制度で選挙権喪失 違憲判決》(NHK NEWS WEB/2013年3月14日 14時47分)
NHKテレビでは匠女史は選挙公報を熱心に読み、誰に投票するか決めていたと、確か話していた。
昨日、3月14日(2013年)午後、判決が降りた。
定塚誠東京地裁裁判長「選挙権は憲法で保障された国民の基本的な権利で、これを奪うのは極めて例外的な場合に限られる。財産を管理する能力が十分でなくても選挙権を行使できる人はたくさんいるはずで、趣旨の違う制度を利用して一律に選挙権を制限するのは不当だ。
(彼女に)どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」
記事解説。〈成年後見制度の選挙権については全国のほかの裁判所でも同じような訴えが起きていますが、判決はこれが初めてです。
平成12年に始まった成年後見制度で後見人がついた人は最高裁判所のまとめで全国で13万6000人に上り、高齢化が進むなかで利用者は増え続けていて、判決は国に法律の見直しを迫るものとなりました。〉――
匠女史(勝訴に)「うれしいです」
記者「今度の選挙に行こうと思いますか」
匠女史「思います」
名児耶清吉氏(父親の)「うれしかったです。裁判長にあそこまで言ってもらえるとは思わなかった。
それまで選挙に行けたものが成年後見制度を利用したとたんに行けなくなるというのは明らかにおかしいと思っていた。判決で裁判長がきちんと述べてくれたのはわが意を得た思いだ」
裁判長が判決文を読み上げるだけで終わらずに、「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」という言葉を添え、彼女に対する餞(はなむけ)としたことは大岡裁きそのものであろう。
【餞】「旅立ちや門出に際して激励や祝の気持ちを込めて、金品・詩歌・挨拶などの言葉を贈ること」(『大辞林』三省堂)
裁判長は選挙権行使を通した社会参加への再度の旅立ちと把えて、「堂々と胸を張っていい人生を生きてください」と励ましの言葉を贈った。
励ましの言葉通りの状況となるべきが人間の当然の権利だとの思いが判決を導いたということもあるはずだ。
訴えと判決が何を問題としたかというと、法律によって人間の判断能力を権威主義的に一律的に判断し、価値付け、制限を加えたことであろう。NHKテレビでは彼女はおカネの勘定が苦手だとか言っていたが、だからこその成年後見人制度の利用ということなのだろうが、成年被後見人になったことを以って公職選挙法はすべての判断能力を不十分と見做して、選挙の権利を遮断した。
《裁判長「堂々と胸張って生きて」 成年被後見人の選挙権、安易な制限に警鐘》(MSN産経/2013.3.14 20:49)が彼女の日常生活を紹介している。
〈匠さんは養護学校卒業後、30年近くにわたり雑貨のラベル貼りなどの仕事に従事。休日にはスポーツジムに通ったり、趣味の編み物を楽しむ。中程度の知的障害を抱えるが、ごく普通の日常を送ってきた。
テレビのニュースにも関心を寄せ、成人後は選挙公報を熱心に読み込み、欠かさず投票所に足を運んだ匠さん。しかし、平成19年の参院選以降、選挙案内のはがきは届かなくなった。清吉さんが匠さんの将来の財産管理に備え成年後見制度の利用を申し立て、後見人に選任されたためだった。〉――
私自身が使っている「権威主」義という言葉を改めて説明すると、上を上位権威に置き、下を下位権威に位置づけて、上の権威が下の権威を従わせ、下の権威が上の権威に従う上下の従属的関係性を以って権威主義と言っている。
成年後見人制度に関わる公職選挙法の判断(=規定)に不合理性を抱えていながら、公職選挙法を絶対的な上位権威と見做して、その判断(=規定)を、法律が定めているから絶対だとする体の権威主義的固定観念とし、下位権威に置いた有権者をその判断(=規定)に一律的に従わせて固守させる権威主義が力学として働いていたということであろう。
例えばかつては東京大学出身者は東京大学に入学して卒業したという事実のみで頭脳明晰、人格的にも優れた人物と見做され、上位権威者として社会一般に価値づけられていたために自ずと東大以外の大学卒業生や大学等の学歴のない者と社会的にも経済的にも、さらに社会的評価の点でも権威主義的上下関係を築くこととなっていた。
このことは上層官僚の多くが東大出身者によって占められていたことと一流大学出身ではない者は一般的にはキャリアになれないことが東大卒と一般大学卒との間の権威主義的上下関係を証明し、その反映でもあった。
だが、東大卒等のキャリア官僚でありながら、公金の私的流用や不正接待、収賄等の事件や不祥事が情報化社会を受けたマスコミ等の報道媒体によって広く知られるようになり、上位権威としてのメッキが剥がされ、その権威を失墜する事態が頻繁に生じた。
このことは政治家も証明している。東大出身者にもロクでなしがゴロゴロいることが分かってきた。鳩山由紀夫・邦夫兄弟然り。朝言うことと夕方言うことが違うと言われている原口一博然り。
調べれば、いくらでも例を挙げることができるはずだ。
いわば能力や人格は東大卒等を絶対的権威として価値づけ、判断するのではなく、人物の個々で判断し、価値づけるべきだと分かってきた。
そうでありながら、公職選挙法は有権者の能力を個別に判断し、価値づける時代的な人物評価に逆行して、今以てその法律を絶対的権威と見做して、成年後見人制度によって成年被後見人となった者は選挙立候補者の人物判断は不可能だと一律的に判断し、価値づける不合理性を法律的解釈とし、固定観念としていることから免れないでいた。
そして今回裁判によって指摘を受け、公職選挙法所管省庁である総務省が対応を迫られることとなった。
人物の能力判断の権威主義的一律性の崩壊を意味するはずだ。
法律では一般的には何ら制限を設けていない権利を法律によって特定の人間に制限を課す場合、その制限に意義を申し出る者に対しては法律を絶対的権威として権威主義的に一律的に判断するのではなく、人物個々で制限に値するか否かを判断し、価値づける思考の柔軟性が求められる時代に、あるいは社会に入っているはずだが、あくまでも法律を絶対的権威とする権威主義を墨守し、そこから一歩も出れないでいた。
今回の成年後見制度で言えば、当地の選挙管理委員会が面接すれば、済んだ話である。面接によって法律の規定に適合しない例外に気づけば、当然、選挙管理委員会の総務省に対する申し出によって法律の改正に迫られることになる。
勿論、法律の改正を待つのではなく、例外規定として総務相が通達か何かで次の選挙に間に合わせる権利の回復は必要であろう。
上記NHK記事が他の裁判所でも同様の訴訟が起きていると解説していたが、訴訟という手間と時間をかけなくても、物事の決定にスピードと柔軟性ある社会の実現を必要としているはずだ。
今年の1月16日、イスラム過激派のテロ集団がアルジェリアの天然ガス関連施設を襲撃、日本国籍を含めた複数国籍の従業員を人質に取り、立て籠もった事件で、日本政府かプラント大手「日揮」かがアルジェリア政府に人質の身代金の提供を申し出ていたと、ウルドカブリア・アルジェリア内相が3月11日、訪問先のアラブ首長国連邦(UAE)で開かれた現地在住のアルジェリア人らとの会合で発言したとマスコミが伝えている。
10人の邦人人質がテロリストたちに殺されている。
《アルジェリア人質:日本側、身代金打診か 内相が発言》(/2013年03月13日 15時11分)
会合への出席者による発言として伝えている。
ウルドカブリア内相「日本側から人質解放のために必要な資金を提供するとの申し出を受けた。
(資金提供申出者について)日本側の高位の責任者」
記事は、〈日本政府や、施設運営に参画していたプラント大手「日揮」(本社・横浜市)の幹部を表している可能性がある。〉と解説している。
ウルドカブリア内相「イスラム過激派による誘拐事件では身代金支払いを拒否するアルジェリアの方針に基づき、申し出を拒否した」(この発言個所のみ解説文を会話体に直す)
但し我が日本の安倍政権菅官房長官が3月13日の記者会見でこの報道事実を否定している。《アルジェリア人質:身代金提供の打診を否定…菅官房長官》(毎日jp2013年03月13日 18時36分)
菅官房長官「「わが国として身代金の支払いを申し出た事実は全くない。テロには絶対屈しないというのが日本政府の基本姿勢だ。
(内相が)どういう状況でそういう発言をしたかを調べてみたい」
内心決然とした決意を持って、「テロには絶対屈しないというのが日本政府の基本姿勢だ」と述べ、身代金提供の報道を強く否定したはずだ。
菅官房長官の発言が事実とすると、日本政府が例えテロと交渉することはあっても、相手の要求には応ぜず、こちらの要求を相手に飲ませるか、飲ませることができなければ要求を断念して初めて「テロには絶対屈しない」日本政府の姿勢が貫徹可能となる。
逆にテロリストの要求に応じた場合、人質解放に成功したとしても、テロに屈したことになるから、その選択肢は初めから放棄していることになる。
このことを逆説すると、テロとの戦いに屈しない過程で、人質の命を犠牲にすることもあり得ることを宣言したことになる。
ここから読み取ることができる日本政府の姿勢は人質解放(=人質の人命優先)よりも、「テロには絶対屈しない」姿勢を絶対とするということである。
「テロには絶対屈しない」の姿勢を絶対前提とした場合、人質解放は優先順位が相当に低位に置かれることになる。
日本政府のテロ襲撃と人質との関係に於けるこの構造はアルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の制圧優先・人質の人命非優先の姿勢とかなり響き合うことになる。
安倍首相は日本政府を代表する一番の人として、第一番に「テロには絶対屈しない」の基本姿勢に基づいて人質邦人保護の危機管理に動いたはずである。アルジェリアのセラル首相との2度の電話会談でも、国会等の発言でも、「テロには絶対屈しない」姿勢を反映させた発言だったことになる。
日本政府の基本姿勢と日本政府を代表する首相の基本姿勢が異なるとしたら、滑稽なことになる。
とすると、事件に関わる安倍発言はそういった姿勢を反映させた発言でなければならなかった。そういった観点から発言を読み解き直さなければならない。なっていないとしたら、情報操作された発言と見做すことになる。
タイ訪問中だった安倍首相は1月16日日本時間午後1時頃の事件発生から1日と11時間30分後の18日日本時間夜中の0時30分頃にアルジェリアのセラス首相と第1回目の電話会談を行なっている。
直ちに電話せずに17日の1日を間に置いたのか不明である。既に軍事作戦は開始されていた。
安倍首相「アルジェリア軍が軍事作戦を開始し、人質に死傷者が出ているという情報に接している。人命最優先での対応を申し入れているが、人質の生命を危険にさらす行動を強く懸念しており、厳に控えてほしい」
セラル首相「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ。作戦は続いている」
安倍首相「解放された人質の国籍など具体的な情報を知らせて欲しい」(この発言個所のみ解説文を会話体に直す)
セラル首相「作戦は継続中で確認できない」
安倍首相「とにかく日本人を含め、人質を全員無事に保護してほしい」
セラル首相「最善の努力を尽くす。必要に応じて、アルジェリアにいる城内政務官に情報を入れるようにしたい」(以上NHK NEWS WEB記事から)――
セラル首相は「相手は危険なテロ集団で、これが最善の方法だ」と制圧作戦を擁護、アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の姿勢を貫徹させている。
だが、安倍首相の会話からは、アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の姿勢と響き合うはずの日本政府の「テロには絶対屈しない」の基本姿勢が見えてこない。「テロリストとは交渉せず」の姿勢に基づいて制圧作戦が開始された以上、テロリストたちが投降してくるか、全滅させる以外、もはや交渉の余地はどこにも存在しなくなったと見なければならないはずだし、既に触れたように「テロには絶対屈しない」の姿勢を絶対前提としている以上、人質解放の優先順位を相当に低位に置いているはずだが、しかも制圧の軍事作戦が開始されているにも関わらず、「とにかく日本人を含め、人質を全員無事に保護してほしい」と、「テロには絶対屈しない」の姿勢に反する、それゆえにその場にそぐわない発言を行なっている。
逆に安倍首相が「テロには絶対屈しない」の姿勢でいたなら、アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の姿勢に基づいて人命優先を後回しにした軍事作戦を擁護してもいいはずだ。
日本政府にしても人質解放の優先順位を相当低く置いているはずだからだ。
果たしてマスコミが報道する通りの発言を行ったのだろうか。情報操作された発言ではなかったのだろうか。
セラル首相との2度めの電話会談は1月20日午前0時半から15分間行われている。
セラル首相「人質救出に向けたすべてのオペレーションが終了し、全テロリストは降伏した。現在、まだ見つかっていない人質を捜索中だ」
安倍首相「わが国として、テロは断じて許容しない。今回の事件は極めて卑劣なものであり、強く非難する。これまでアルジェリア政府に対し、人命を最優先にするようにと申し入れてきたが、厳しい結果となったことは残念だ。
現地の状況について、以前から情報が錯そうしている。日本および関係国に、アルジェリア政府が把握している情報を緊密に提供するよう重ねて求めたい」
セラル首相「あらゆる指示を出して最大限の協力をしたい」
電話会談ご記者団に――
安倍首相「邦人の安否につい、厳しい情報に接している。今後とも、人命最優先で取り組んでいくし、邦人の安否の確認にも全力で取り組んでいく」(NHK NEWS WEB記事から)
置かれた状況に応じた自然な会話に見えるが、安倍首相の発言からは、「テロには絶対屈しない」とする日本政府の基本姿勢を表すどのような言葉も見当たらない。
「わが国として、テロは断じて許容しない」と言っている以上、セラル首相が「人質救出に向けたすべてのオペレーションが終了し、全テロリストは降伏した」と発言したことに対して日本政府の「テロには絶対屈しない」の基本姿勢を示す何らかの言葉で応えてもいいはずだが、何も応えていないのは不自然である。
「我々としてもテロには絶対屈しないというのが日本政府の基本姿勢です。貴国の軍事作戦は止むを得ない対応です」とでも応えてこそ、基本姿勢にふさわしい。
果たして安倍首相は「これまでアルジェリア政府に対し、人命を最優先にするようにと申し入れてきたが、厳しい結果となったことは残念だ」とセラル首相に面と向かった位置から言う意味となる、このような礼を失する発言を行ったのだろうか。
但し、「厳しい結果となったことは残念ですが」と前置きした上で日本の基本姿勢を伝えてアルジェリア政府の軍事作戦を擁護する上記の言葉を続けたなら、自然な起承転結となる。
果たして安倍、あるいは菅官房長官はセラル首相との会談に於ける安倍発言を正直に伝えているのだろうか。情報操作はないのだろうか。
安倍首相は2月19日(2013年)の参院予算委員会で小野次郎みんなの党議員の質問に次のように答弁している。
安倍首相「えー、我々はでき得る限りのすべての手は打った、とこのように思っております。えー、つまり、現地に於いてオペレーションを行なうのは、アルジェリア政府、であってですね、残念ながら、我々にとっては限界があると」
日本は交渉当事国ではないから、交渉当事国のアルジェリア政府に任せるしかなかった、人質全員救出には限界があったと言って、自らの危機管理を正当化している。
だが、安倍首相は「テロには絶対屈しない」という日本政府の基本姿勢を自らに反映させていたはずで、その姿勢が人質解放の優先順位を低位に置いている以上、交渉当事国であったとしてもアルジェリア政府とさして変わらない結果で終わる可能性は高かったはずだ。
また交渉当事国ではなくても、交渉当事国アルジェリア政府の「テロリストとは交渉せず」の国家危機管理に近親性を持って対応してこそ、「テロには絶対屈しない」の日本政府の基本姿勢の正直な誇示となり、その誇示に対して「限界」という言葉は相対化され、言葉通りの意味を失う。
要するに日本は交渉当事国ではないから、交渉当事国のアルジェリア政府に任せるしかなかった、人質全員救出には限界があったと言っていることは言っている通りの意味ではなく、言葉の裏でアルジェリア政府の対応を支持しながら、自らの危機管理対応を正当化するタテマエとして言っている言葉に過ぎないことになるはずだ。
勿論、どういう危機管理の姿勢を取ろうと、政権の意志であり、選択である。ただ、今頃になって菅官房長官を通して国民に対してその姿勢を明らかにするのではなく、人質事件が発生した時点で正直に明かすべきだったろう。
明かさないまま、安倍首相の対応は菅官房長官が言った「テロには絶対屈しない」とする日本政府の基本的姿勢が、そういう姿勢を取る以上、人質の人命優先が無視される可能性を孕んだ基本姿勢を同じ運命としていながら、それを無視して「人命優先」がさも至上命令であるかのような危機管理姿勢を演じていた。
不正直以外の何ものでもない。
安倍晋三は自著で「(国を)命を投げうってでも守ろうとする人がいない限り、国家は成り立ちません」(『この国を守る決意』 と言っているように国民よりも国家を優先する国家主義者である。何をどう言おうとも、国家主義の立場からの人質の人命優先順位であることに変りはないはずだ。
安倍晋三が昨日、3月12日(2013年)衆院予算委員会で、「大戦の総括は日本人自身の手でなく、いわば連合国側の勝者の判断によって断罪がなされた」(毎日jp)と発言したことをマスコミ報道で知り、録画しておくことを忘れていたので、「衆議院インターネット審議中継」から動画をダウンロードして、文字に起こしてみた。 2013年3月12日衆院予算委
相変わらずゴマ化しとインチキを散りばめた答弁となっていることが分かる。
大熊利昭議員「戦後の直後のですね、昭和20年11月に当時の幣原(しではら)内閣によりましてですね、戦争調査会というのが、正式な日本政府の内閣の機関として設置をされたわけでございます。残念ながら、当時日本は独立、GHQの施政下でございますので、まあ、GHQの意向というのが強く働き、結局大蔵省の予算措置が取られそうになったものの、GHQの解散命令を受けてですね、解散ということで、残念ながら活動はあまりできなかった。
ただ、分科会いくつか作って、相当当時の軍人さんだとか、哲学者だとか、経済学者だとか、政治家だとか集めて、相当の議論の緒に就いた、いうふうには国会図書館の調査資料で確認をさせて頂いているところでございます。
えーと、次の時代に進むのであればですね、前の時代をきちんと検証して、総括をするっていうことが私には大事なんじゃないかなあと思っておりまして、えー、今般の原発事故に於きましてでもですね、まあ、国の、政府の、あるいは国会の事故調査委員会っていうことでやってらっしゃるように、まあ、時間は60数年経っておりますが、そうした検証をですね、えー、総理が政府としてやっていく必要はどうなんだろうという、これも問題提起でございますが、総理、如何でございましょうか」
安倍晋三「えー、今委員がご指摘になった、えー、戦争調査委員会については、えー、国会図書館の調査局が作成したレポートによれば、えー、昭和20年11月に、幣原内閣に於いて、設置をされて、翌年3月末から、えー、約5ヶ月間に亘って、自主的な活動を行なっていたが、ま、しかし、対日理事会によって、その存在について否定的な意見が出されたことを受けて、ま、9月末に廃止をされたと、ま、こういうことでございまして、そのため報告書が作成・公表される段階には至らず、えー、内定した調査方針と、調査項目も一般的には公表されなかったと、いう、ことであります。
先の大戦に於いての総括っていうのはですね、日本人自身の手によることではなくて、東京裁判という、いわば、連合国側が、あー、勝者の判断によって、その、えー…、断罪がなされたと、いうことなんだろうと、このように思うわけであります。
えー、あんときに、では、なぜ対日理事会がですね、えー、この研究をやめさせようとしたかと言えば、今委員がご指摘になったように、軍人等も含まれているということ、に対しての懸念を持った、ということですね。
えー、大体方針としては二つあって、えー、考え方が二つあってですね、一つは、戦争遂行の上に於いて、えー、どうして負けてしまったのか、いう、いわば、この作戦、戦略、戦術等についての、ですね、分析するという、そういうアプローチと、もう一点はですね、ではなぜ、大戦に至ったのか、ということに於いて、それは止めることができたのではないか、という考え方、後者の方に力点が置かれて、いたわけでございますが、えー、同時にですね、そこに力点が置かれた、力点が置かれる中に於いて、中で色んな議論があったというふうに承知をしておりますが、いわば敗戦ということから、ではなぜ、戦争が始まってしまったのか、というのは議論が欲しいのではないのかというのは内部でも議論があったわ、けでありましたが、国際情勢の中での、開戦に至る過程ということに於いてですね、いわば恐らく連合国に対して、ある種都合の悪い、えー、考え方、えー、についても、議論がなされているのではないかと、いうことに於いてですね、そうした議論を封殺されたと、いうことではなかったのではないかなあと、こんなように思うところでございます」
いずれにせよ、ま、こうしたですね、えー、歴史に対する評価等に、ついては専門家や、えー、まあ、歴史家に、まさに、任せるべき問題ではないかと、いうのが私の考えであります」
大熊利昭議員「えーとですね、まああの、例えば、まあ、これはどう思われるのか歴史家、専門家と言われるよりやはり、国策としてやったことについては、原発もそうですが、やはり国としての総括・検証が必要なのではないかと思うのですが、この点は如何でしょうか」
安倍晋三「これですね、例えば、戦争遂行の上に於いてですね、えー、ま、この戦術・戦略はどうだったか、という検証に於いてはですね、えー、国に於いて、えー、もしかしたら可能かもしれませんが、しかしそれに至る、えー、世界史的な、あー、いわば、動きの中に於いて、どうして開戦に至ったかという分析に於いてはですね、これは、えー、関係する国々、も多いわけでございまして、えー、政府そのものが、そうした検証・研究を行い、あるいは意見を述べていくということはですね、これは外交問題に発展していくという可能性もあるわけでございまして、外交問題・政治問題になるということを、考えながら、えー、こういった、えー、検証を行うことはですね、別の観点、本来ファクトに基づく観点をですね、歪めていく危険性も私はあるのではないのか、とこう思うわけでありまして、えー、それはやはり、専門家か専門家の、まあ、アカデミックな、まあ、純粋な立場として、えー、ファクト、自分が信じるファクト、えー、を求め、えー、そしてその上に於いて検証をする、べきではないかとなあと、え、こんなように思います」
大熊利昭議員「残念ながら政府としてはちょっと難しいかというような、お話しかと思いますが――」
時間がないからと次の質問に移る。
安倍晋三は次の言葉に繋げるのに「えー」とか「まあ」の接続語を普段よりも多用していて、言葉の展開にかなり苦労している。東京裁判否定論者、戦争総括不要論者である安倍晋三にとって得意分野でありながら、立て板に水の滔々たる弁舌の展開とはいかなかったようだ。
理由は東京裁判否定・戦争総括不要を如何に主張しようとも、そこに無理があるからだろう。
大熊利昭議員が「次の時代に進むのであればですね、前の時代をきちんと検証して、総括をするっていうことが大事なんじゃないか」と言っていることは尤もである。
幣原内閣設置の「戦争調査会」は昭和20年11月、翌21年3月末から活動開始。
活動内容を安倍晋三は戦争遂行上の過ち・失敗の分析と、なぜ大戦に至ったのかの開戦事情の分析としていて、後者に力点が置かれていたと説明している。
だが、GHQの諮問機関である対日理事会がその活動を廃止したことによって、戦争の検証・総括が潰えてしまった。
結果、「先の大戦に於いての総括は日本人自身の手によることではなくて、東京裁判によって連合国側が勝者の判断によって断罪がなされた」と言っている。
「勝者の判断」だとか、「断罪」だとか、東京裁判否定論者らしい批判的な言葉を投げつけている。
だったら、尚更日本の側からの「敗者の判断」としての検証・総括の必要性を求めてもいいはずだ。勿論、検証・総括が提示した“事実”、安倍晋三が使う“ファクト”の妥当性・正当性は「勝者の判断」の妥当性・正当性と争い、厳しく問われることになる。
だが、日本政府による検証・総括に腰を上げようとしない。「歴史認識は歴史家に任せるべきだ」と言って、争うべき妥当性・正当性の提示から逃げ回っている。
これを卑怯な態度と言わずに他に表現する言葉があるだろうか。
安倍はGHQが「戦争調査会」を廃止した主たる理由を「戦争調査会」がなぜ大戦に至ったのか、その開戦事情の分析に力点を置いていた中で、「いわば恐らく連合国に対して、ある種都合の悪い考え方についても、議論がなされているのではないかということに於いて、そうした議論を封殺されたということではなかったか」と自ら証言しているが、「世界史的な動きの中に於いてどうして開戦に至ったかという分析に於いて関係する国々も多いわけで、政府そのものがそうした検証・研究を行い、あるいは意見を述べていくということは外交問題に発展していくという可能性もあるわけでございまして」と後から言っている言葉と併せて考えると、要するに欧米の植民地主義(=「世界史的な動き」)が明らかにされることを恐れたから、「戦争調査会」を廃止したと見ていることになる。
だが、欧米の植民地主義は欧米の植民地主義である。日本の植民地主義が先行していた欧米の植民地主義にどう触発されたのか、どう便乗しようとしていたのか、検証・総括の課題に入るのは当然のことであって、例え日本の植民地主義が欧米の植民地主義に触発を受け、便乗したものであったとしても、日本軍の戦争に於ける数々の非人道的行為・戦争犯罪は免罪されるものではない。
いわば真に検証・総括すべきは欧米植民地主義から受けた触発・便乗といった戦争開戦の発端であるよりも、開戦から敗戦に至るまでの全戦争過程での非人道的行為・戦争犯罪であるはずだ。
安倍晋三は先行していた欧米の植民地主義を持ち出して日本の植民地主義を後発だ位置づけ、欧米植民地主義の罪をより重くし、日本の植民地主義の罪をより軽くしようとする衝動を働かせている。
日本の戦争は日本の戦争として、あるいは日本の植民地主義は日本の植民地主義として総括・検証しなければならないはずだが、欧米の植民地主義を持ち出して比較するのは明らかに卑怯な責任回避に過ぎない。
殺人者が他の殺人を持ち出して、あっちの殺人の方が凶悪で罪が重いというような責任回避に相当する。
欧米植民地主義の罪は罪として、日本の植民地主義、戦争行為の罪を先ずは日本自らの手で検証・総括の断罪を行うべきが潔い、卑怯ではない態度というものであろう。
安倍晋三は従軍慰安婦の強制連行を認めた河野談話を、「孫の代までこの不名誉を背負わせるわけにはいかない」と見直しに言及しておきながら、総理大臣である自分が踏み込むと外交問題化・政治問題化するから、歴史認識の判断は歴史家に任せるべきだと発言していたように、ここでも戦争総括は専門家に任せるべきだ言っている。
だが、GHQが幣原内閣設置の「戦争調査会」で「連合国に対してある種都合の悪い考え方について議論」がされていると懸念して「議論を封殺」したとする判断は、安倍自身が判断した結果の歴史認識である。
かくかように安倍晋三という政治家の立場から従軍慰安婦問題でも、河野談話でも、東京裁判でも、A級戦犯に関しても(「(A級戦犯は)国内法的には戦争犯罪人ではない」)歴史に対して自らの認識を下している。
自ら判断し、自らの認識を下していながら、歴史認識は歴史家・専門家に任せるとする。
任せるとする以上、自らが委員会なりを設置して歴史家・専門家を動員して戦争検証・総括に動くならまだしも、動きもせずにあれこれ口実を設けてただ単に歴史家・専門家に任せると言っているに過ぎない。
いわば歴史家・専門家の歴史認識は日の目を見ないことによって国民の記録にも記憶にも残らないが、安倍晋三自身が判断した歴史認識は国会や記者会見で明らかにされ、それをマスコミが取り上げ、あるいはテレビを通じてそれのみが記録に残る、あるいは国民の記憶に残すことになって、あるいは安倍歴史認識のみが人口に膾炙され、流布することになって、それを狙っていると疑いたくなるが、一方のみの提示は公平とは言えず、卑怯な遣り方となる。
安倍晋三は「専門家がアカデミックな純粋な立場で自分が信じるファクトを求めて検証すべきだ」と、迂闊にも「自分が信じるファクト」と言っているが、要するに“安倍晋三が信じるファクト”としたい強い思いが働いて、このような言葉遣いになったのだろう。
ファクト(=事実)とは所詮解釈に過ぎない。その事実をどう見るかの解釈によって成り立つ。当然、それぞれの解釈によって成り立つゆえに真正・絶対な事実など存在しない。
解釈した事実がより多くの人間に妥当性・正当性を持って受け入れられるかどうかに事実の事実はかかっている。あるいは事実として決定される。
当然、安倍歴史認識の妥当性・正当性は他の歴史認識の提示によって争われなければならない。
だが、歴史認識は歴史家・専門家に任せると言いながら、歴史家・専門家に歴史認識を提示させることはしない。
安倍晋三という政治家は卑怯この上ない人間である。
安倍首相が東日本大震災二周年となる昨日3月11日、首相官邸で記者会見を開いた。冒頭、次のように発言している。
安倍首相「あの東日本大震災から、2度目の3月11日を迎えました」
数え方からしたら、2度目になるのかもしれないが、厳密には巨大地震・巨大津波に見舞われた2011年3月11日が最初の3月11日で、今年で3度目の3月11日になると思うが、違うのだろうか。悪夢の起点はあくまでも2011年3月11日であって、その日を1度目としなければ、復興への覚悟が定まらないように思える。
安倍首相「昨年12月の総理就任以来、私は、毎月、被災地を訪問してまいりました。2年を経た今でも、多くの皆様が仮設住宅での暮らしを強いられています。『いつまでこんな生活が続くのか?』先が見えないことへの不安の声を被災地で何度も耳にいたしました。福島では、多くの方々が今も福島第一原発事故の被害に苦しんでいます。子供たちは屋外で十分に遊ぶこともできません。被災地の厳しい現実から目を背けることはできません。東日本大震災は、今もまだ現在進行形の出来事であります」――
安倍晋三は安倍晋三らしくなく、「東日本大震災は、今もまだ現在進行形の出来事であります」と、被災地に対する自らの認識を客観的に的確に提示している。
東日本大震災が「現在進行形」だということは、復興が未だ途上で、多くの被災者の生活の不安や生活の不自由、生活の苦悩が癒されずに続いているということを意味する。
では、現在進行形を過去形とするどのような政策を提示するのだろうか。早くも期待に胸が膨らむ。
いや、焦ってはいけない。客観的認識に基づいた被災地の現状把握が続いた。
安倍首相「一部ではありますが、復興住宅の建設も進み出しました。被災した工場を再び立ち上げた方もいらっしゃいます。その光は、未だ微かなものかもしれません。しかし、被災者の皆さんの力によって、被災地には希望の光が確実に生まれつつあります。この光を更に力強く、確かなものとしてまいります。全ては実行あるのみです。その鍵は現場主義です」――
最初に生活の不安や不自由、苦悩を抱え、未だ苦しんでいる被災者の状況を伝え、一転して「希望の光が確実に生まれつつあ」る状況を伝えている。
当然、「希望の光」を見い出しているのは一部被災者に限られていることになる。
これが全体的な「希望の光」なら、「2年を経た今でも、多くの皆様が仮設住宅での暮らしを強いられています。『いつまでこんな生活が続くのか?』、先が見えないことへの不安の声を被災地で何度も耳にいたしました」とか、「福島では、多くの方々が今も福島第一原発事故の被害に苦しんでいます」といった言葉は出てこない。
そして「この光を更に力強く、確かなものとしてまいります」と言っている以上、現在進行形を過去形とする、その政策方法論としての「被災者お一人お一人が生活再建に取り組める環境」の整備、「住まいの復興工程表」の取り纏めは、それが「現場主義」をカギとしようがしまいが、「確実に生まれつつあ」る「希望の光」を見い出している一部被災者を対象とした政策を意味することになる。
要するに小平が唱えた先富論「先に豊かになれる者から豊かになり、取り残された人を助けよ」と同じで、国家主義者らしい発想である。
小平の言葉は美しいが、しかし現実には中国は格差社会となっている。0以上1以下の数値のうち1の数値に近い程格差が大きいことを表し、社会的な警戒ラインは0.4とされるジニ係数の2010年度の中国は世界平均0.44を大幅に上回る0.61だと、2012年12月10日付「サーチナニュース」が伝えている。
都市部のジニ係数は0.56、農村部で0.6といずれも社会的警戒ラインの0.4を大きく上回る格差社会となっている。
いわば小平は国家を先ず富ませ、多くの国民を富から取り残す国家主義を地で行った。
そして日本の現在の経済に於いても円安・株高によって先ず富める者が富み、円安による輸入生活関連物資の高騰によって中低所得層の生活を圧迫し、格差を強めようとしているアベノミクスも国家主義を背景とした政策の展開であろう。
国家主義は国民を全体的に俯瞰するのではなく、一部のエリートのみを俯瞰し、重用する視野狭窄によって成し得る。
この矛盾を是正しようと企業に賃金アップをお願いしているが、アベノミクスが国家主義からの経済政策であることに変りはないし、企業は内部保留を手段とした自己保身に頑なな姿勢を維持、賃上げよりもボーナス等の一時金で自己保身を貫こうとしている。
また、「生活再建に取り組める環境」整備は今後の課題であるし、「住まいの復興工程表」は取り纏めたというだけのことで、両者とも具体的な形を取って一定程度成果を見ないことには希望と言える期待感は持てない。
さらに「希望の光」の確実な芽生えを一方で言いながら、その一方でその芽生えを阻害するいくつかの障害があることを後から提示している。最大の障害は人不足だと。
最初にいいことを言って、後から不足を言うのは情報操作による一種のゴマ化しであろう。最初に不足や不備を言って、次にそれをどのように解決していくかの対策なり政策なりを提示すべきが親切な姿であるはずだが、逆を行っている。
安倍首相「現場で不足をしているのは、『人』です。日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です。復興事業を担う自治体のマンパワーを増強するため、行政の経験者を積極的に活用します。高台移転の遅れには、土地買収や埋蔵文化財調査などの問題がありますが、これも専門家を投入して、加速させてまいります」――
「日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です」と簡単そうに言っているが、簡単にプロを集めることができれば、とっくに集めている。プロは現在の居場所に於いてもプロの人材として必要とされている存在であるはずだから、いくら復興のためとは言え、おいそれとは要望に応えることはできない。要望に応えて、本来の居場所で人出不足を起こしたら、本末転倒となる。集めるよりも、人材速成でいった方が早かったのではないのか。
地元の失業者の中には元々の自治体職員について歩くだけで仕事を飲み込んでいく柔軟な発想を能力とした者もいるはずである。そういった人材なら、学歴だ経験だを問わずに済むはずだが、如何せん、権威主義社会だから、柔軟な発想云々よりも学歴だ経験だを問う。
人出不足は前々から言われていた。2012年10月29日当ブログ記事―― 《会計検査院から復興遅れの原因の一つを指摘される政治の倒錯性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》にも書いたが、昨年12月の時点で会計検査院から、復興予算執行率48%余という低さの原因は公共事業急増に対する自治体職員不足によると指摘を受けている。
それを5カ月近く経過しても、「現場で不足をしているのは、『人』です。日本中からプロを集めることが復興を加速させる近道です」などと今後の課題だとしている。
このスピード感の無さは被災者一人一人の生活の不安や生活の不自由、生活の苦悩を掬い取って、そこから復興の全体像を政策していく方法ではなく、既に『希望の光』を見い出した者にさらに光を与えて復興を上から拡大していき、そのような復興の形を安倍政権の成果とするような国家主義的遣り方と考え併せると、地域間に応じて、あるいは被災者の置かれた環境に応じて、かなりの取りこぼしや格差をも成果とするように思えて仕方がない。