■彦根城址の滋賀縣護國神社
彦根と云えば彦根城、その天守閣の優美と機能美は世界へも誇れる近江の至宝ですが、この城址には滋賀縣護國神社が静かにこれまでの歴史と明日を見守っています。
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滋賀縣護國神社、彦根城を見上げる彦根市尾末町に位置する神社です。日曜日にブルーインパルス彦根城410年祭飛行展示を行いまして、彦根市内は大変な人出でした。なにしろ京阪神地区から新快速長浜行で一本、中京地区からも新快速を米原乗換で一駅ですから。
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彦根城410年祭に進出しながら、余りもの人出で天守閣へは登れなかった、という方も多いのではないでしょうか、当方も大群衆が帰路に就いたのちの時間帯へお城を久々に拝見しようと思いつつ、何しろあれだけの人出では彦根駅からお城へと進むことが出来ません。
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国宝天守閣は次の機会に改めて、と思われた方の多くが彦根との御縁を期して参拝されたという場所が滋賀縣護國神社、成程、自衛隊装備品展示が行われブルーインパルスという我が航空防衛力が上空で妙技を披露した御縁で滋賀縣護國神社、縁、というものと感じる。
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護國神社には殉国の兵士たちを祀ると共に、軍馬や軍用犬と伝書鳩の銅像が国家と国家という人間と人間の社会が激突する無関係な事態に巻き込まれた物言わぬ同胞たちも併せて祀っています。そして多くの遺族会が寄贈した柱が、19世紀から20世紀の激動を物語る。
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戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県出身戦歿者を祀っている滋賀縣護國神社、彦根駅から井伊直政の騎馬銅像を拝し、お城へと歩みを進めますと歴史街道、江戸幕府大老として国難に立ち向かい開国の決断と内政引締めの末に殉じた井伊直弼所縁の遺構等が並ぶ。
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彦根藩ですが意外にも大政奉還後にあって徳川譜代筆頭という重鎮ながら新政府側に藩論を転向させてしまいました。井伊の赤備えが泣きそうな実話でして、戊辰戦争では家老の岡本半介こそ幕府軍に呼号し大坂城守備に当りますが彦根藩主力は京都東寺を動きません。
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関ヶ原の戦いでは東軍の雄として井伊直政が徳川本陣に参陣していますが、歴史は江戸時代を経て幕末に大老を排出した彦根藩も、明治政府軍の一員として大垣侵攻の先鋒を担うとともに、小山や本宮を転戦し、果てはかの新撰組近藤勇捕縛という勲功を挙げています。
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井伊35万石、井伊家は伯爵となり元彦根藩主井伊直憲は華族に列し、御家は守る事が出来たのですが、旗本八万旗、という平時に維持費がかかるものの戦時に役に立たない無駄の代名詞という言葉を更に進め、旗本八万旗、徳川譜代筆頭転向という歴史を残してしまう。
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歴史の背景では、桜田門外の変にて大老井伊直弼が暗殺され藩主井伊直弼が志士を名乗る徳川御三家水戸藩士に討たれるという事態、その後の井伊直弼の政敵が幕府の権力を握るという状況に転じ、彦根藩は藩論を統一して官軍となる決断を一致して決めたといいます。
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明治9年西暦1876年に入り、元彦根藩主井伊直憲が戊辰戦争彦根藩士たちを護国の英霊として祀る決心をし、ここに神社を建立しました。明治政府は各地の城郭へ廃城令を発し破壊売却を進めていますが実はこの神社建立は結果的に天守閣を今日へ護ったのでしょうか。
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戊辰戦争小山の戦いでは彦根部隊2000の先鋒を務めた小隊長青木貞兵衛頼実が弾薬を撃ちつくし白兵戦闘に転じ全員戦死しました。官祭彦根招魂社として始まりました神社の歴史は昭和に入り、境内拡張工事が行われました。戦後一時進駐軍の干渉を受けるも今に至る。
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明治天皇巡幸に拝しました明治11年10月、彦根通過の折に城郭を見上げ、城の保存を命じた事で城郭が守られる転機となりました。廃城令は全国で相次ぐ反乱等の際に城郭を籠城等へ利用させぬという防衛上の配慮があった為、保存の勅令というべき配慮は奇跡です。こうした複雑な歴史を経て彦根の街並みは今に至ります。
北大路機関:はるな くらま
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彦根と云えば彦根城、その天守閣の優美と機能美は世界へも誇れる近江の至宝ですが、この城址には滋賀縣護國神社が静かにこれまでの歴史と明日を見守っています。
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滋賀縣護國神社、彦根城を見上げる彦根市尾末町に位置する神社です。日曜日にブルーインパルス彦根城410年祭飛行展示を行いまして、彦根市内は大変な人出でした。なにしろ京阪神地区から新快速長浜行で一本、中京地区からも新快速を米原乗換で一駅ですから。
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彦根城410年祭に進出しながら、余りもの人出で天守閣へは登れなかった、という方も多いのではないでしょうか、当方も大群衆が帰路に就いたのちの時間帯へお城を久々に拝見しようと思いつつ、何しろあれだけの人出では彦根駅からお城へと進むことが出来ません。
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国宝天守閣は次の機会に改めて、と思われた方の多くが彦根との御縁を期して参拝されたという場所が滋賀縣護國神社、成程、自衛隊装備品展示が行われブルーインパルスという我が航空防衛力が上空で妙技を披露した御縁で滋賀縣護國神社、縁、というものと感じる。
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護國神社には殉国の兵士たちを祀ると共に、軍馬や軍用犬と伝書鳩の銅像が国家と国家という人間と人間の社会が激突する無関係な事態に巻き込まれた物言わぬ同胞たちも併せて祀っています。そして多くの遺族会が寄贈した柱が、19世紀から20世紀の激動を物語る。
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戊辰戦争から第二次世界大戦までの滋賀県出身戦歿者を祀っている滋賀縣護國神社、彦根駅から井伊直政の騎馬銅像を拝し、お城へと歩みを進めますと歴史街道、江戸幕府大老として国難に立ち向かい開国の決断と内政引締めの末に殉じた井伊直弼所縁の遺構等が並ぶ。
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彦根藩ですが意外にも大政奉還後にあって徳川譜代筆頭という重鎮ながら新政府側に藩論を転向させてしまいました。井伊の赤備えが泣きそうな実話でして、戊辰戦争では家老の岡本半介こそ幕府軍に呼号し大坂城守備に当りますが彦根藩主力は京都東寺を動きません。
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関ヶ原の戦いでは東軍の雄として井伊直政が徳川本陣に参陣していますが、歴史は江戸時代を経て幕末に大老を排出した彦根藩も、明治政府軍の一員として大垣侵攻の先鋒を担うとともに、小山や本宮を転戦し、果てはかの新撰組近藤勇捕縛という勲功を挙げています。
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井伊35万石、井伊家は伯爵となり元彦根藩主井伊直憲は華族に列し、御家は守る事が出来たのですが、旗本八万旗、という平時に維持費がかかるものの戦時に役に立たない無駄の代名詞という言葉を更に進め、旗本八万旗、徳川譜代筆頭転向という歴史を残してしまう。
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歴史の背景では、桜田門外の変にて大老井伊直弼が暗殺され藩主井伊直弼が志士を名乗る徳川御三家水戸藩士に討たれるという事態、その後の井伊直弼の政敵が幕府の権力を握るという状況に転じ、彦根藩は藩論を統一して官軍となる決断を一致して決めたといいます。
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明治9年西暦1876年に入り、元彦根藩主井伊直憲が戊辰戦争彦根藩士たちを護国の英霊として祀る決心をし、ここに神社を建立しました。明治政府は各地の城郭へ廃城令を発し破壊売却を進めていますが実はこの神社建立は結果的に天守閣を今日へ護ったのでしょうか。
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戊辰戦争小山の戦いでは彦根部隊2000の先鋒を務めた小隊長青木貞兵衛頼実が弾薬を撃ちつくし白兵戦闘に転じ全員戦死しました。官祭彦根招魂社として始まりました神社の歴史は昭和に入り、境内拡張工事が行われました。戦後一時進駐軍の干渉を受けるも今に至る。
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明治天皇巡幸に拝しました明治11年10月、彦根通過の折に城郭を見上げ、城の保存を命じた事で城郭が守られる転機となりました。廃城令は全国で相次ぐ反乱等の際に城郭を籠城等へ利用させぬという防衛上の配慮があった為、保存の勅令というべき配慮は奇跡です。こうした複雑な歴史を経て彦根の街並みは今に至ります。
北大路機関:はるな くらま
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