■仁和寺の梅雨は水墨画の如く
梅雨時の京都、しかしそれも趣向を転じれば愉しみ方は溢れる、そう、屋根さえあれば。
仁和寺旧御室御所、金閣寺を衣笠山きぬかけの路へ歩みを進めますと壮大な伽藍が広がります。真言宗御室派総本山、大内山の山号を冠したこの寺院は建立を光孝天皇の勅願以て仁和4年、888年に遡ります。この寺院はかつて、法皇の御室御所として首都機能を担いました。
梅雨、本年は空梅雨ですが梅雨前線はいよいよ間近に迫ってまいりました。雨模様の散策は字面では詩的ながら困るのは雨滴、歩み進めるに重ね革靴に沁みる路上の露は達観と鬱陶しさが均衡を失い、時を経て諦観へと転じてしまう事も人の身の上致し方ありません。
旧御室御所は梅雨時を詩的な風景と共に愉しむ術を伝えてくれる風情を湛えた寺院です。元々は天皇を退位した法皇の門跡寺院、宸殿と宸殿の北庭を拝観しますと軒先には、雨煙に仄かに浮かぶ伽藍の遠景が水墨画の如く広がり、心地よく過ごす事が出来るでしょう。
光孝天皇の勅願以て建立された仁和寺は始まりを西山御願寺と冠し造営が進められましたが、落成を待たず光孝天皇は崩御します。後田邑小松山陵へと葬られた先帝は桓武天皇治世下の鷹狩を復興する等の朝廷文化継承継承に尽力した文武両道の文化人でもありました。
宇多天皇は先帝が落成を見ず御隠れとなった歴史を振り返り、寛平9年、897年に譲位をしますと仁和寺第1世宇多寛平法皇として西山御願寺を継ぐ決心を示します。併せて西山御願寺を仁和年間に建立した縁から仁和寺と改め、ここに今に至る寺院の歴史が始まります。
平安の御世から永くここ仁和寺は皇室出身者が代々門跡として住職を務め、鎌倉時代を通して門跡寺院として最高の格式を備えています。雨露を凌ぎ庭園を俯瞰する伽藍の広がりは梅雨時こそ詩情を際立たせる風情ですが、この伽藍はこうした歴史と共に広がりました。
応仁元年の1467年に戦端を開いた日本最大の騒擾、応仁の乱は、しかしこの広がる伽藍をも例外なく呑込み、荒廃させました。災厄に見舞われる最中にして、幸いにも御本尊として奉じられた木造阿弥陀如来及両脇侍像、寺宝木造薬師如来坐像等は遷座し難を逃れます。
戦災は忌むべき人災ながら、復興も人の御業、御本尊始め唐渡りの宝相華蒔絵宝珠箱三十帖冊子、北宋絹本著色孔雀明王像絵画、日本最古の医術所医心方写本、仁和寺由緒記した御室相承記、天皇の直筆に当たる宸翰等、戦災を努力で免れた文化財は史料として国宝に指定されました。
門跡寺院として現在の仁和寺に広がる伽藍は寛永年間の1624年からの元号下、江戸時代最初の皇居造営に際し、旧皇居紫宸殿と清涼殿及び常御殿といった朝廷建築の建物が仁和寺に下賜、移築されました。金堂は旧紫宸殿が用いられ、朝廷文化の気風が贈られたのです。
宸殿を雨の中に拝観しますと、宸殿の北庭には重文の五重塔と衣笠山を借景に回遊式庭園が広がり、五重塔も1644年に建立、和様建築の美麗が雨に煙り水墨画の如く浮かび、しかし歩み進めれば宸殿の南庭には勅使門と枯山水が無機質の美を醸しだしてくれるでしょう。
雨に煙る情景は、雨滴さえ凌ぐ伽藍から目を向ければ、薄絹の幕が如く情景を包み、そして何より雨滴が雑踏を抑え、静かな風景と出会う事が叶います。煩悩繋がる雑踏の喧騒も、ただただ雨音に空が満たされ静かな時間の甘味を堪能、梅雨時は散策の時機ともいえる。
御室桜として遅咲きの桜花が名高い仁和寺は、一段落した新緑の季節、そして梅雨時の今頃もこうして一つの見頃を供してくれるでしょう。仁和寺へは衣笠山をきぬかけの路へ、または京福電鉄北野線御室仁和寺駅、駅を出ればすぐに二王門が迎えてくれるでしょう。
北大路機関:はるな くらま
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
梅雨時の京都、しかしそれも趣向を転じれば愉しみ方は溢れる、そう、屋根さえあれば。
仁和寺旧御室御所、金閣寺を衣笠山きぬかけの路へ歩みを進めますと壮大な伽藍が広がります。真言宗御室派総本山、大内山の山号を冠したこの寺院は建立を光孝天皇の勅願以て仁和4年、888年に遡ります。この寺院はかつて、法皇の御室御所として首都機能を担いました。
梅雨、本年は空梅雨ですが梅雨前線はいよいよ間近に迫ってまいりました。雨模様の散策は字面では詩的ながら困るのは雨滴、歩み進めるに重ね革靴に沁みる路上の露は達観と鬱陶しさが均衡を失い、時を経て諦観へと転じてしまう事も人の身の上致し方ありません。
旧御室御所は梅雨時を詩的な風景と共に愉しむ術を伝えてくれる風情を湛えた寺院です。元々は天皇を退位した法皇の門跡寺院、宸殿と宸殿の北庭を拝観しますと軒先には、雨煙に仄かに浮かぶ伽藍の遠景が水墨画の如く広がり、心地よく過ごす事が出来るでしょう。
光孝天皇の勅願以て建立された仁和寺は始まりを西山御願寺と冠し造営が進められましたが、落成を待たず光孝天皇は崩御します。後田邑小松山陵へと葬られた先帝は桓武天皇治世下の鷹狩を復興する等の朝廷文化継承継承に尽力した文武両道の文化人でもありました。
宇多天皇は先帝が落成を見ず御隠れとなった歴史を振り返り、寛平9年、897年に譲位をしますと仁和寺第1世宇多寛平法皇として西山御願寺を継ぐ決心を示します。併せて西山御願寺を仁和年間に建立した縁から仁和寺と改め、ここに今に至る寺院の歴史が始まります。
平安の御世から永くここ仁和寺は皇室出身者が代々門跡として住職を務め、鎌倉時代を通して門跡寺院として最高の格式を備えています。雨露を凌ぎ庭園を俯瞰する伽藍の広がりは梅雨時こそ詩情を際立たせる風情ですが、この伽藍はこうした歴史と共に広がりました。
応仁元年の1467年に戦端を開いた日本最大の騒擾、応仁の乱は、しかしこの広がる伽藍をも例外なく呑込み、荒廃させました。災厄に見舞われる最中にして、幸いにも御本尊として奉じられた木造阿弥陀如来及両脇侍像、寺宝木造薬師如来坐像等は遷座し難を逃れます。
戦災は忌むべき人災ながら、復興も人の御業、御本尊始め唐渡りの宝相華蒔絵宝珠箱三十帖冊子、北宋絹本著色孔雀明王像絵画、日本最古の医術所医心方写本、仁和寺由緒記した御室相承記、天皇の直筆に当たる宸翰等、戦災を努力で免れた文化財は史料として国宝に指定されました。
門跡寺院として現在の仁和寺に広がる伽藍は寛永年間の1624年からの元号下、江戸時代最初の皇居造営に際し、旧皇居紫宸殿と清涼殿及び常御殿といった朝廷建築の建物が仁和寺に下賜、移築されました。金堂は旧紫宸殿が用いられ、朝廷文化の気風が贈られたのです。
宸殿を雨の中に拝観しますと、宸殿の北庭には重文の五重塔と衣笠山を借景に回遊式庭園が広がり、五重塔も1644年に建立、和様建築の美麗が雨に煙り水墨画の如く浮かび、しかし歩み進めれば宸殿の南庭には勅使門と枯山水が無機質の美を醸しだしてくれるでしょう。
雨に煙る情景は、雨滴さえ凌ぐ伽藍から目を向ければ、薄絹の幕が如く情景を包み、そして何より雨滴が雑踏を抑え、静かな風景と出会う事が叶います。煩悩繋がる雑踏の喧騒も、ただただ雨音に空が満たされ静かな時間の甘味を堪能、梅雨時は散策の時機ともいえる。
御室桜として遅咲きの桜花が名高い仁和寺は、一段落した新緑の季節、そして梅雨時の今頃もこうして一つの見頃を供してくれるでしょう。仁和寺へは衣笠山をきぬかけの路へ、または京福電鉄北野線御室仁和寺駅、駅を出ればすぐに二王門が迎えてくれるでしょう。
北大路機関:はるな くらま
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