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【京都発幕間旅情】加藤神社、熊本地震復興途上の熊本城内西出丸櫨方曲輪にて清正公を祀る

2017-06-14 23:01:39 | 旅行記
■加藤神社,熊本地震復興祈念
 熊本地震に見舞われ損壊した熊本城、その城郭にて天守閣を望む神社があります。

 加藤神社、熊本城城内に鎮座する加藤神社は熊本発展の礎たる加藤清正公を祀った神社です。熊本、九州防衛の要衝として西部方面総監部と第8師団司令部が置かれる現代の軍都は阿蘇山を遥拝し堅固な熊本城を盤石の構えと共に九州有数の都市圏を構成しています。

 熊本城には42の櫓と天守閣を有する江戸時代に在って規格外の巨大城郭を構成し、熊本の街がそのまま城郭の外線を形成するという総構の構造を有していますが、加藤神社に祭られる加藤清正は豊臣秀吉の腹心として九州中部を任されると共に巨大策源地を築きました。

 熊本地震で傷ついた天守閣、大天守と小天守を見上げ、そして宇土櫓の天守閣に匹敵する櫓に驚いた加藤神社は、しかし一歩視線を石垣に転じれば大坂城と並ぶ巨大な堀の深さが衝撃を与え、成程この城郭を構築した加藤清正が祀られる一つの意義を教えてくれるよう。

 加藤清正は城郭と共にこの熊本を支えるには熊本に営む人々という意味を理解していたのでしょう、農業開発へ必要な用水路整備や城下町の整備と併せ石高を高め街を強く広げました。江戸時代初期には細川氏が転封されましたが街の人々は加藤清正を思い続けました。

 明治4年、1871年に錦山神社として加藤清正を祀る神社が城内へ造営されました。元々は清正を祀った浄地廟が城内にありましたが1614年に本妙寺へ浄地廟は移されています。しかし明治時代に入り新政府の神仏分離令が下され本妙寺から神社を分ける必要が生じます。

 熊本城内に加藤神社は戻りましたが、陸軍熊本鎮台が城内に配置される事となり城外新堀町、現在の京町へ遷座します。ところが遷座したその年に西南戦争勃発、熊本市内の大半が廃墟となり京町も焼失、幸いご神体は健軍神社で難を逃れましたが錦山神社は全焼する。

 西南戦争の被害は熊本城にも大きく天守閣は焼失してしまいました。明治42年、1909年に錦山神社は加藤神社、今日の名称に名を改めます。しかし、加藤隠者は長く熊本城外の京町に縄張りを敷き、社格旧県社にあたる神社として広く熊本の崇敬を集めていました。

 昭和32年、1957年に京町の加藤神社は道路改修を行う為に遷座の必要が生じ、これを機に清正公の社を城内へ戻そうとの県民の熱い声が集まり、熊本城内の西出丸櫨方曲輪、現在地に遷座することとなります。社殿は1957年に遷座した際に建立されたもの、新しい。

 天守閣は加藤神社遷座とともに1960年の熊本城築城350年祭、そして熊本国体開催に併せ市民から広く寄付を募り再建されました。加藤清正が造営した五層の宇土櫓は威容を示し、並び再建された新しい天守閣は鉄筋コンクリート、耐震性も高く勇壮に再建されます。

 2016年4月14日深夜に熊本を巨大な地震が襲いました。九州中部は最大規模の噴火を引き起こせば冷戦時代全ての核爆弾を一度に爆破した熱量を数段上回る巨大火山、阿蘇山を冠しつつ巨大噴火は十万年単位で発生する為に大災害経験が無く完全に虚を突かれました。

 熊本城も天守閣が損傷し倒壊こそ免れたものの城内は夜間の発災故に人的損害は免れたのは不幸中の幸い、城内には自動車大の石垣崩落石が散乱し、実に広い城郭の石垣は50カ所、全体の三割が破損するに及び、櫓などの損壊も大きく全面復興には30年を要するとのこと。

 熊本地震の被害から53日間に渡り城域内への立ち入りが禁じられ、加藤神社へも立ち入りが制限される事となりましたが被災から一年を経て復興祭に城郭上をブルーインパルスが飛行する際に加藤神社を参拝しますと、清正公を慕う街の強さを垣間見る事が出来ました。

北大路機関:はるな くらま
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