■榛名山望む高崎城と満開の桜
榛名山見上げる高崎市、北関東と長野県が間近の街は歴史街道の一つ。ここには都市計画を生み、そして現代と融合した美しい城址があります。

高崎城、上野国群馬郡の、つまり現在の北関東群馬県は高崎市の高松町に位置する城址公園です。高崎駅から徒歩十分ほど、散策にはちょうど良い立地に位置する、しかし新幹線と在来線の拠点駅に近い意味で築城当時から現代までの交通の要衝に位置する城址です。

桜花満開の高崎城、この城址公園を知ったのは十年ほど前、高崎には“霧の榛名”という榛名を冠した銘酒があると知り、百貨店にて念願の一升瓶との対面を果たしたのちの意気揚々とした散歩道が此処でした。御堀がそのまま桜並木と共に見事な景観を醸成している。

輪郭梯郭複合式平城の城郭は御三階櫓として独立式層塔型三重三階の天守構造を冠した重厚な城郭を構成していましたが、明治6年に陸軍駐屯地となり歩兵第十五連隊本営となります。これにより城郭は破却されてしまいますが、堀と土塁は維持され、今日に至ります。

井伊直政が築城主として1597年に利根川水系烏川の自然防御を活用する形で造営しました、しかし遡れば和田城がこの地に在り、1590年豊臣秀吉小田原征伐に際し、城主和田信業は北条氏と共に対抗、和田城は呼号する前田利家上杉景勝連合軍により落城攻略されました。

徳川家康の関東入部に際し、井伊直政は北関東此の要衝に和田城址の再建を命じられ、特に上越方面からの上杉軍南下に備える要衝として徳川家康がこの地形に緊要地形を結ぶ策源地適地一つと理解していたことが分かります、策源地故、高崎は商都として繁栄します。

恵徳寺開山龍山詠譚和尚は和田という城郭を商都とする際、井伊直政へ和田を高崎とするよう進言を受け、上野国一円の寺社商家を集め商都を目指します、これは単なる城郭から政経中枢の、しかし必要ならば策源地となる城下町を備えた近代城郭への転換となります。

彦根城と云えば井伊直政、近江の彦根城は国宝天守閣として有名です。その通り、井伊直政が高崎城主を命じられたのは1597年、1600年に戦国時代に終止符を打つ関ヶ原の戦いが、その戦勝により徳川家康は勢力を強化し江戸幕府開府、天下泰平の江戸時代を迎える。

関ヶ原の戦いにて勲功を挙げつつ、島津氏との攻防により重傷を負った井伊直政は、関ヶ原に程近い豊かな近江国、佐和山城に移封され高崎を去りました。譜代大名がその後、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、藤井松平氏、入れ代わり立ち代わりつつ短期間城主を務めます。

安藤重信が1619年、高崎城主となりますと以後実に77年に及ぶ高崎改造計画の始りとなりました。安藤重信は小牧長久手の戦いや第二次上田合戦で活躍し、二代将軍徳川秀忠付老中として重用、大坂の陣での奮戦が評価、上野国高崎5万6000石へ加増移封なりました。

上野国高崎、高崎城改修は三代77年に及ぶ大規模なものとなりましたが三代安藤重博は老中として活躍し備中松山藩へ加増移封、大河内松平輝貞と間部詮房の治世の後、大河内松平輝貞が再び高崎藩主となり、以後幕末まで十代に続く大河内松平家の治世が続きました。

第12旅団司令部の置かれる相馬原駐屯地は高崎市に隣接する榛東村に所在し、北関東信越地方の防衛警備及び災害派遣を担当しています。冷戦時代には第12師団としてソ連軍の新潟侵攻と首都圏攻撃を警戒した師団で、高崎市の重要性は戦国時代も昭和期も変わらない。

御三階櫓として独立式層塔型三重三階が城下町を俯瞰した威容はその遺構さえ失われ、往時の繁栄はしのぶ事しかできませんが、商都を目指した高崎の繁栄はその散策の度に、これこそが高崎城の目指した将来の具現化であり、その継承者といえるのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
榛名山見上げる高崎市、北関東と長野県が間近の街は歴史街道の一つ。ここには都市計画を生み、そして現代と融合した美しい城址があります。

高崎城、上野国群馬郡の、つまり現在の北関東群馬県は高崎市の高松町に位置する城址公園です。高崎駅から徒歩十分ほど、散策にはちょうど良い立地に位置する、しかし新幹線と在来線の拠点駅に近い意味で築城当時から現代までの交通の要衝に位置する城址です。

桜花満開の高崎城、この城址公園を知ったのは十年ほど前、高崎には“霧の榛名”という榛名を冠した銘酒があると知り、百貨店にて念願の一升瓶との対面を果たしたのちの意気揚々とした散歩道が此処でした。御堀がそのまま桜並木と共に見事な景観を醸成している。

輪郭梯郭複合式平城の城郭は御三階櫓として独立式層塔型三重三階の天守構造を冠した重厚な城郭を構成していましたが、明治6年に陸軍駐屯地となり歩兵第十五連隊本営となります。これにより城郭は破却されてしまいますが、堀と土塁は維持され、今日に至ります。

井伊直政が築城主として1597年に利根川水系烏川の自然防御を活用する形で造営しました、しかし遡れば和田城がこの地に在り、1590年豊臣秀吉小田原征伐に際し、城主和田信業は北条氏と共に対抗、和田城は呼号する前田利家上杉景勝連合軍により落城攻略されました。

徳川家康の関東入部に際し、井伊直政は北関東此の要衝に和田城址の再建を命じられ、特に上越方面からの上杉軍南下に備える要衝として徳川家康がこの地形に緊要地形を結ぶ策源地適地一つと理解していたことが分かります、策源地故、高崎は商都として繁栄します。

恵徳寺開山龍山詠譚和尚は和田という城郭を商都とする際、井伊直政へ和田を高崎とするよう進言を受け、上野国一円の寺社商家を集め商都を目指します、これは単なる城郭から政経中枢の、しかし必要ならば策源地となる城下町を備えた近代城郭への転換となります。

彦根城と云えば井伊直政、近江の彦根城は国宝天守閣として有名です。その通り、井伊直政が高崎城主を命じられたのは1597年、1600年に戦国時代に終止符を打つ関ヶ原の戦いが、その戦勝により徳川家康は勢力を強化し江戸幕府開府、天下泰平の江戸時代を迎える。

関ヶ原の戦いにて勲功を挙げつつ、島津氏との攻防により重傷を負った井伊直政は、関ヶ原に程近い豊かな近江国、佐和山城に移封され高崎を去りました。譜代大名がその後、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、藤井松平氏、入れ代わり立ち代わりつつ短期間城主を務めます。

安藤重信が1619年、高崎城主となりますと以後実に77年に及ぶ高崎改造計画の始りとなりました。安藤重信は小牧長久手の戦いや第二次上田合戦で活躍し、二代将軍徳川秀忠付老中として重用、大坂の陣での奮戦が評価、上野国高崎5万6000石へ加増移封なりました。

上野国高崎、高崎城改修は三代77年に及ぶ大規模なものとなりましたが三代安藤重博は老中として活躍し備中松山藩へ加増移封、大河内松平輝貞と間部詮房の治世の後、大河内松平輝貞が再び高崎藩主となり、以後幕末まで十代に続く大河内松平家の治世が続きました。

第12旅団司令部の置かれる相馬原駐屯地は高崎市に隣接する榛東村に所在し、北関東信越地方の防衛警備及び災害派遣を担当しています。冷戦時代には第12師団としてソ連軍の新潟侵攻と首都圏攻撃を警戒した師団で、高崎市の重要性は戦国時代も昭和期も変わらない。

御三階櫓として独立式層塔型三重三階が城下町を俯瞰した威容はその遺構さえ失われ、往時の繁栄はしのぶ事しかできませんが、商都を目指した高崎の繁栄はその散策の度に、これこそが高崎城の目指した将来の具現化であり、その継承者といえるのかもしれません。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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