■快晴祝う岐阜基地航空祭祝賀会
岐阜基地航空祭はF-2飛行展示と共に祝賀会へと進みます。そして祝賀会職と同時に救難飛行展示も実施され、並行して異機種大編隊飛行展示も準備が進む。

岐阜基地実験航空隊は1960年の時点でF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、各種航空機による評価試験を実施していました。

日本は第二次世界大戦中にジェット機開発には成功していました、日本は精神論重視といわれますが、それも技術の裏付けがあって。ドイツからの技術導入が大きな原動力とはなりましたが、中島飛行機の橘花は、一応の完成したジェット攻撃機として完成しています。

橘花は高速飛行に適した後退翼構造を採用し、中島飛行機、のちの富士重工で現在のスバルにより開発されていましたが、特殊攻撃機の名の通り、この日本初の実用ジェット機は特攻専用機となっていました。ジェットエンジン、キ20エンジンは今も現存しています。

搭乗員の内情を考えますと、特殊攻撃機が最初の実用機であったのは残念ですが、当時の戦況を考えますと、国内の戦闘機量産網は航空攻撃とシーレーン途絶により激減、少数のジェット機を活かし最大戦果を目指すには特攻の非情戦術しか、消去法で残っていません。

そこまでして戦争継続を行った当時の政府に非難を集める歴史教育の手法もありますが、決死の航空攻撃を継続したことで地上戦は沖縄と満州や北方領土、それに南洋諸島に止められました。技術開発の努力が辛うじてこの状況で抑えた、といえるかもしれませんね。

県民の三割が死亡した沖縄戦の悲劇を思い出せば、外地居留民含め一億の人口、その三割が死亡していてもおかしくありません、太平洋戦争での日本の戦死者犠牲者350万、悲壮な特攻作戦を筆頭に文字通りすり切れるまで航空攻撃と海上攻撃を継続した結果は。

東京や大阪を戦場とする戦闘はありませんでした、パリが戦場となったフランスやベルリン陥落後も占領地域での最後までの戦闘は勿論、国土全域での戦闘を継続したドイツを考えますと、航空戦力の意味と大量の戦死者はせめて、無駄ではなかった、といいたい。

日本の航空技術開発が目指したのは、技術立国として国産戦闘機はじめ高度な航空機開発能力を整備することで、二度と国土を戦場とせず、特攻のような悲壮な航空作戦のほかに選択肢がないとの状況に追い込まれないように、という願いも込められているのでしょう。

草創期の飛行開発実験団、実験航空隊はF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、という陣容、バンパイアは地上試験用でした。

ここからF-104戦闘機やF-4EJ戦闘機と飛行開発実験団の航空機は順次増強され、同時に各種実験機材からF-1支援戦闘機やF-2戦闘機と技術が実り、X-2実験機による評価試験やF-35戦闘機導入、長射程AAM-4空対空ミサイルやASM-2空対艦ミサイルが生まれた。

岐阜基地飛行開発実験団は日本独自の航空機開発技術を維持し、抑止力として戦争を回避すると共に万一の際には戦闘を極力短期間で終息させ、平和的生存権を護る為の技術の要塞、特に戦闘機の能力を最先端とする事で他国に付け入る隙を与えない事に在ります。

しかし、戦闘機という装備はシステム化されており、単純に高出力のエンジンを機動性に配慮した燃料タンクを内蔵する機材に搭載、もしくは積載し、それに機関砲を搭載して完了、という簡単なものではなく、エンジン一つとっても機械工学と電子光学の結晶です。

強い戦闘機は期待とエンジンの組み合わせ、そんな単純な戦闘機設計で対応できた時代は、それこそ航空転換期に日本が航空機開発を封じられていた十年間で過ぎ去ってしまいました。もちろん、現在でもその手法は可能ですが、設計に無駄が生じる事も否めません。

草創期のジェット機は珍奇な構造のものが多く、試行錯誤の苦闘がその設計や写真からかいま見得ます、ジェットエンジンの推力が足りないのでターボプロップエンジンと併用した設計というものもありましたし、ロケットエンジンを搭載したものさえありました。

これ、海上自衛隊のP2J哨戒機を思い出しますが、P2Jが緊急用に補助エンジンを搭載したのにたいし草創期は巡航飛行の際にプロペラとジェットエンジンを併用しているものもおおく、しかもジェットエンジンとプロペラエンジンを搭載した戦闘機があったほど。

ジェットエンジン単体では巡航飛行が限度であるので翼にロケット弾と並べてロケットエンジンを轟々と噴出し推力不足を補った事例はある意味凄い発想で、一回使えばその加速手段が無くなりますが、当時の運用思想ではそうしてでも航空戦に対応しようとしたもの。

日本の航空機開発は、飛行機の草創期のような、この試行錯誤が続いた時代に航空機開発から隔絶されていたことで、不思議な航空機は開発されませんでしたが、技術から起き去られたことで失敗から拾得できる貴重な技術情報に連接することができなかったわけです。

その技術を追いつくことが目下のところの、そして草創期から続く飛行開発実験団の責務でもあります。ただ、防衛予算が限られる中、航空機開発に投じることのできる予算は極めて限られており、そのなかで我が国では創意工夫により部分部分を開発してゆきました。

自衛隊は専守防衛を国是としており、このために可能であればすべての装備品を自給自足し、国際関係の影響による装備品調達の影響を回避するという壮大な希望がありました。こうした発想は現代のスウェーデン、昔のスイスの兵器開発に通じるものといえましょう。

実のところ、日本の防衛はアメリカとの同盟関係により国土総力戦を専守防衛政策が不可避であるところを、目理科の抑止力に依存することで国土戦を回避しつつ、しかし日本本土への限定侵攻は我が国がその独力で排除するという、難しい防衛政策を採用しています。

この施策は、一方で必ずしも一国平和主義を放棄したわけではなく、極力国際情勢に距離を置きつつ、しかし国際社会の一員としてその発展に参画したいという矛盾する政策への我が国が導きだした一つの方法論でもあり、そのために技術開発を行っている訳ですね。

国産装備開発ですが、大きな影響を与えたのは武器輸出三原則です。もともとは共産圏や紛争当事国と国連制裁対象国への武器輸出を禁じた限定的な武器輸出制限政策でしたが、拡大解釈に拡大運用が悪循環を招き、法的な線引きがその都度不明確となってゆきます。

防衛産業も折角輸出を考えた場合でも生産設備を強化したとしても最後に通産省や外務省が輸出禁止を突き付ける可能性もあり、長期的に輸出計画を構築できない、また最先端装備を欲する国もいつ供給が止まるか分らない装備は頼まれても欲しくは無いでしょう。

実際問題、例えばスウェーデン等は武装中立政策を採る一方で国産兵器の輸出を積極的に行ってきました、スウェーデン居奥では防衛産業を維持するだけの装備調達を行えない為ですが、紛争当事国へ輸出しない政策を採っていました。実際輸出を停止した実例もある。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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岐阜基地航空祭はF-2飛行展示と共に祝賀会へと進みます。そして祝賀会職と同時に救難飛行展示も実施され、並行して異機種大編隊飛行展示も準備が進む。

岐阜基地実験航空隊は1960年の時点でF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、各種航空機による評価試験を実施していました。

日本は第二次世界大戦中にジェット機開発には成功していました、日本は精神論重視といわれますが、それも技術の裏付けがあって。ドイツからの技術導入が大きな原動力とはなりましたが、中島飛行機の橘花は、一応の完成したジェット攻撃機として完成しています。

橘花は高速飛行に適した後退翼構造を採用し、中島飛行機、のちの富士重工で現在のスバルにより開発されていましたが、特殊攻撃機の名の通り、この日本初の実用ジェット機は特攻専用機となっていました。ジェットエンジン、キ20エンジンは今も現存しています。

搭乗員の内情を考えますと、特殊攻撃機が最初の実用機であったのは残念ですが、当時の戦況を考えますと、国内の戦闘機量産網は航空攻撃とシーレーン途絶により激減、少数のジェット機を活かし最大戦果を目指すには特攻の非情戦術しか、消去法で残っていません。

そこまでして戦争継続を行った当時の政府に非難を集める歴史教育の手法もありますが、決死の航空攻撃を継続したことで地上戦は沖縄と満州や北方領土、それに南洋諸島に止められました。技術開発の努力が辛うじてこの状況で抑えた、といえるかもしれませんね。

県民の三割が死亡した沖縄戦の悲劇を思い出せば、外地居留民含め一億の人口、その三割が死亡していてもおかしくありません、太平洋戦争での日本の戦死者犠牲者350万、悲壮な特攻作戦を筆頭に文字通りすり切れるまで航空攻撃と海上攻撃を継続した結果は。

東京や大阪を戦場とする戦闘はありませんでした、パリが戦場となったフランスやベルリン陥落後も占領地域での最後までの戦闘は勿論、国土全域での戦闘を継続したドイツを考えますと、航空戦力の意味と大量の戦死者はせめて、無駄ではなかった、といいたい。

日本の航空技術開発が目指したのは、技術立国として国産戦闘機はじめ高度な航空機開発能力を整備することで、二度と国土を戦場とせず、特攻のような悲壮な航空作戦のほかに選択肢がないとの状況に追い込まれないように、という願いも込められているのでしょう。

草創期の飛行開発実験団、実験航空隊はF-86F昼間戦闘機5機、F-86D夜間戦闘機1機、T-33A練習機3機、T-28練習機1機、T-34練習機1機、C-46D輸送機1機、最新の国産T-1A練習機1機、バンパイア戦闘機1機、という陣容、バンパイアは地上試験用でした。

ここからF-104戦闘機やF-4EJ戦闘機と飛行開発実験団の航空機は順次増強され、同時に各種実験機材からF-1支援戦闘機やF-2戦闘機と技術が実り、X-2実験機による評価試験やF-35戦闘機導入、長射程AAM-4空対空ミサイルやASM-2空対艦ミサイルが生まれた。

岐阜基地飛行開発実験団は日本独自の航空機開発技術を維持し、抑止力として戦争を回避すると共に万一の際には戦闘を極力短期間で終息させ、平和的生存権を護る為の技術の要塞、特に戦闘機の能力を最先端とする事で他国に付け入る隙を与えない事に在ります。

しかし、戦闘機という装備はシステム化されており、単純に高出力のエンジンを機動性に配慮した燃料タンクを内蔵する機材に搭載、もしくは積載し、それに機関砲を搭載して完了、という簡単なものではなく、エンジン一つとっても機械工学と電子光学の結晶です。

強い戦闘機は期待とエンジンの組み合わせ、そんな単純な戦闘機設計で対応できた時代は、それこそ航空転換期に日本が航空機開発を封じられていた十年間で過ぎ去ってしまいました。もちろん、現在でもその手法は可能ですが、設計に無駄が生じる事も否めません。

草創期のジェット機は珍奇な構造のものが多く、試行錯誤の苦闘がその設計や写真からかいま見得ます、ジェットエンジンの推力が足りないのでターボプロップエンジンと併用した設計というものもありましたし、ロケットエンジンを搭載したものさえありました。

これ、海上自衛隊のP2J哨戒機を思い出しますが、P2Jが緊急用に補助エンジンを搭載したのにたいし草創期は巡航飛行の際にプロペラとジェットエンジンを併用しているものもおおく、しかもジェットエンジンとプロペラエンジンを搭載した戦闘機があったほど。

ジェットエンジン単体では巡航飛行が限度であるので翼にロケット弾と並べてロケットエンジンを轟々と噴出し推力不足を補った事例はある意味凄い発想で、一回使えばその加速手段が無くなりますが、当時の運用思想ではそうしてでも航空戦に対応しようとしたもの。

日本の航空機開発は、飛行機の草創期のような、この試行錯誤が続いた時代に航空機開発から隔絶されていたことで、不思議な航空機は開発されませんでしたが、技術から起き去られたことで失敗から拾得できる貴重な技術情報に連接することができなかったわけです。

その技術を追いつくことが目下のところの、そして草創期から続く飛行開発実験団の責務でもあります。ただ、防衛予算が限られる中、航空機開発に投じることのできる予算は極めて限られており、そのなかで我が国では創意工夫により部分部分を開発してゆきました。

自衛隊は専守防衛を国是としており、このために可能であればすべての装備品を自給自足し、国際関係の影響による装備品調達の影響を回避するという壮大な希望がありました。こうした発想は現代のスウェーデン、昔のスイスの兵器開発に通じるものといえましょう。

実のところ、日本の防衛はアメリカとの同盟関係により国土総力戦を専守防衛政策が不可避であるところを、目理科の抑止力に依存することで国土戦を回避しつつ、しかし日本本土への限定侵攻は我が国がその独力で排除するという、難しい防衛政策を採用しています。

この施策は、一方で必ずしも一国平和主義を放棄したわけではなく、極力国際情勢に距離を置きつつ、しかし国際社会の一員としてその発展に参画したいという矛盾する政策への我が国が導きだした一つの方法論でもあり、そのために技術開発を行っている訳ですね。

国産装備開発ですが、大きな影響を与えたのは武器輸出三原則です。もともとは共産圏や紛争当事国と国連制裁対象国への武器輸出を禁じた限定的な武器輸出制限政策でしたが、拡大解釈に拡大運用が悪循環を招き、法的な線引きがその都度不明確となってゆきます。

防衛産業も折角輸出を考えた場合でも生産設備を強化したとしても最後に通産省や外務省が輸出禁止を突き付ける可能性もあり、長期的に輸出計画を構築できない、また最先端装備を欲する国もいつ供給が止まるか分らない装備は頼まれても欲しくは無いでしょう。

実際問題、例えばスウェーデン等は武装中立政策を採る一方で国産兵器の輸出を積極的に行ってきました、スウェーデン居奥では防衛産業を維持するだけの装備調達を行えない為ですが、紛争当事国へ輸出しない政策を採っていました。実際輸出を停止した実例もある。
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