■鎮魂8.15終戦記念日特集2
岐阜市名画座ロイヤル劇場にて今週金曜日まで一週間限定で公開中の映画“激動の昭和史-沖縄決戦”は今改めて沖縄戦を考える多くの問いをみせてくれます。
関ヶ原の戦い、沖縄で成果を挙げたのは1600年の大会戦にて敗北した西軍の一陣を担った島津義弘が採った遅滞戦術が捨て兵戦術といい、火縄銃一丁に弓と槍を持つ3名一組の小部隊を分散配置し、文字通り死守させる事で時間を稼いだもの。牛島中将は、歩兵砲や速射砲に重機関銃と擲弾筒の何れか重装備一つと分隊を組み合わせ粘り強い遅滞戦闘を展開、命で時間を稼ぎました。
島津義弘の戦術を現代に転用させ、米軍に多大な出血を強いた第32軍、特に火力拠点を分散し狙撃と対戦車火力を駆使し、複合化された陣地を地形に織り込み、全体を反射面陣地という脅威正面から地形防御に遮蔽する陣地帯は非常に大きな戦果を、米軍に出血を強要しました。しかし、第32軍は持久戦だけで一枚岩では無かった、大本営も決戦を求めた。
長勇参謀長は丹波哲郎が演じ、特にこちらも天才的な軍人であったと。実は決戦論者であった為に持久戦を放棄し第32軍瓦解早めたとの評価が定着している参謀長ですが、朝鮮軍歩兵第74連隊長時代に若手将校へ作戦要務令図解勉強会を主催する等教育を重視、一方で演習場に本格的な永久築城を行い実地訓練から作戦要務令の限界を教育する等、話が残る。
サイパン島逆上陸作戦へ関東軍機動第1旅団長を打診され気球空挺作戦の検討を行う等、奇想天外な戦術も実用性あれば忌憚なく受け入れる度量があるとともに、連隊長時代には父親の長蒼生が刀剣収集家であった為、野戦訓練や営内業務に頑張りを見せた将兵には日本刀を与えて褒める等、名物指揮官であったという。映画でも豪放磊落と紹介されました。
長勇参謀長の豪放磊落を伝える一つの事例が1938年の張鼓峰事件の現地停戦を命じられソ連側と停戦を画定した後、細部は参謀に任せて休もうとソ連陣地内でソ連軍第一線指揮官を促し、実際自身も雨衣を広げソ連陣地のど真ん中で大の字になって高鼾、という話もあれば、少し前には桜会の発起人の一人で226事件が成功した際には警視総監に着任の予定という危ない話もあります。
八原博通高級参謀を演じるのは仲代達矢、徹底した持久戦を南方戦線や欧州戦線での米軍運用や火力と指揮系統を念頭に提唱し、実際、第32軍の長期間の戦闘継続を実現させた立役者です。1981年まで存命されていましたので、1971年に公開された本作を実際に見ていたのでしょうか、仲代達矢と丹波哲郎、二百三高地の怒鳴り合いを先取りする迫力でした。
八原大佐は米国留学経験が、と劇中でも紹介されますが、米国工業力の大きさから平時の米軍軍事力と戦時動員の増強や、大学教育における予備将校養成課程が日本における大学での歩兵教練とは根本から異なる、当時日本陸軍を悩ませていた指揮官不足の問題と相まって彼我戦力の差異と我が方の劣勢を冷静に受け入れた現実的な戦術に持久戦を挙げます。
激動の昭和史-沖縄決戦、劇中でも総力戦として陣地を出て総攻撃に移行を主張する長参謀長と、彼我戦力の格差から持久戦貫徹を譲らない八原高級参謀の怒鳴り合いに近い議論が展開します。総攻撃は短期決戦でも短期間で一定の戦果が示せるとして第10方面軍も大本営も求めていた一方、物量差から不可能であり自滅であるとの冷静な分析での反対である。
英雄たちの選択、NHK歴史検証番組がありますが、一度真剣に現在の識者に選択を検証してもらいたいと思うのは、長参謀長案が通っていれば、沖縄本島での戦闘は一ヶ月程度で日本軍の敗北により終結していたのでしょうが、沖縄県民、特に3個師団が配備され首里城に司令部が置かれた事で疎開思い留まった県民が巻き込まれる事はなかったのでは、と。
英雄たちの選択、政治的に難しい話題は扱わない昨今のNHKらしい番組ですが、牛島司令官の視点から長参謀長の短期決戦総攻撃続行案と、八原大佐の持久戦により敵の出血強要に並行して非戦闘員の被害拡大、という状況をどう考えるべきか。実のところ非常に興味がある命題です。昨今の沖縄を見ますと、長参謀長案も一考の余地は。しかし沖縄が台風シーズンまで時間を引き延ばしたお蔭で本土決戦は回避されたがこれをどう考えるか、と。
長参謀長ですが首里城の一大地下司令部を構築したのは参謀長案です。八原高級参謀は野戦築城を優先し司令部地下壕は簡易なもので充分、としていましたが、実際に地上戦が始まりますと首里城へも艦砲射撃が降り注ぐこととなり、堅固な地下壕により司令部機能を最後まで維持でき、長参謀長の慧眼に助けられた、と八原高級参謀は戦後語っています。戦後生残った八原高級参謀は、冷徹を通すも情に脆く戦艦大和出撃を知って感極まった、と述懐しているのですね、感極まる瞬間は劇中でもところどころ、しかし高級参謀の職責と板挟みになる様子は観ていて悲しい。
嘉手納海岸に上陸した米軍、奇しくも嘉手納海岸は薩摩の琉球侵攻に際し琉球要塞陣地突破を断念した薩摩が火縄銃と日本刀による近接戦闘へ転換するべく上陸地点とした場所であり、1973年にはゴジラ対メカゴジラでブラックホール第三惑星人がゴジラとメカゴジラの決戦場とし、沖縄にとり象徴的な場所ですが、日本軍は首里まで防衛線を維持しました。首里から嘉手納までは実はそれほど距離が大きくは無く50万近い正規軍を投入した米軍を此処まで持久した、行ってみると驚きを禁じ得ません。
嘉手納基地へ那覇空港から現在行く際には、モノレールで那覇市を通過し首里から路線バスに乗り換え、嘉数の高台を眺めつつ普天間飛行場の隣を読谷村へそして嘉手納方面へと向かいます。第32軍司令部は首里城の地下にありましたので、要するにモノレールをバスに乗り換えてから全て激戦地です。しかし、大本営も第10方面軍も沖縄県地図を見れば主力温存の第32軍が何故首里から嘉手納まで突撃し奪還しないのか、と思った事が意見具申という名の督励に反映されています。しかし、防御でこそ威力を発揮出来たのが彼我戦力の格差で、嘉数高地の激戦は米軍戦史にも歩兵戦闘の極致とある。
見敵必殺-玉砕御免を掲げた第62師団がこの正面を防衛していましたが、師団砲兵を欠く軽装備の二個旅団を基幹とする師団でしたが、師団そのものは精強、中国大陸での大陸打通作戦、1000kmの長距離機動を果たし中国内陸部から九州を空襲するB-29基地を直接破壊する作戦、この経験を持つ第62師団は陣地と高地戦闘にて多大な出血を米軍へ強いてゆく。
九九式軽機関銃、映画では日本軍の自動火器が多数様々なところで射撃している様子が強調されます。これは元々第10方面軍経由でレイテ決戦へ送られる大量の自動火器がレイテ玉砕により沖縄で足止めされていたものを第32軍が用いたもの。レイテ決戦では破壊された航空機の機銃が取り外され火力を大幅に高めた事で陸戦で米軍を苦しめており、やはり第一線火力は重要ですね。
M-1ガーランド小銃と九九式小銃、半自動小銃とボルトアクション式小銃という日米差異がよく太平洋戦争の日米の国力差に挙げられますが、九九式軽機関銃と八九式重擲弾筒にM-1918BAR分隊支援火器と60mmロケットランチャー、沖縄戦での第一線火力はこうした違いも。一方、米軍M-1トンプソン短機関銃の近接戦闘での威力も劇中強調されていた。
第32軍は軍砲兵だけで300門の火砲を有していまして、陸上自衛隊の火砲定数を考えますと異例なほどの大火力といえるのですが、映画ではこの総攻撃における威力も、勿論東宝映画ですので本物の火砲を多数並べる訳にはいかず、予算の関係で描写に限界はあったのですけれども、強調されています。しかし、大本営と第10方面軍の督励や海軍の九州からの特攻による総攻撃に呼号するかたちで、持久戦を総攻撃に転換し、第32軍に限界が。
首里城地下司令部を最終防衛線として持久戦と決戦を繰り返した第32軍は、しかし更なる持久作戦の展開へ首里城放棄を決定し沖縄本島南部へ撤退してゆきます。ところが、この本島南部への撤退は多くの県民が避難している本島南部が戦場となる事を意味しました。劇中では島田知事が牛島司令官へ県民をまもる方法は無いか哀願しますが、劇中でも史実の通り、惨劇が始まり居住する県民の三人に一人が死亡したという沖縄戦の地獄絵図が展開してゆきます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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岐阜市名画座ロイヤル劇場にて今週金曜日まで一週間限定で公開中の映画“激動の昭和史-沖縄決戦”は今改めて沖縄戦を考える多くの問いをみせてくれます。
関ヶ原の戦い、沖縄で成果を挙げたのは1600年の大会戦にて敗北した西軍の一陣を担った島津義弘が採った遅滞戦術が捨て兵戦術といい、火縄銃一丁に弓と槍を持つ3名一組の小部隊を分散配置し、文字通り死守させる事で時間を稼いだもの。牛島中将は、歩兵砲や速射砲に重機関銃と擲弾筒の何れか重装備一つと分隊を組み合わせ粘り強い遅滞戦闘を展開、命で時間を稼ぎました。
島津義弘の戦術を現代に転用させ、米軍に多大な出血を強いた第32軍、特に火力拠点を分散し狙撃と対戦車火力を駆使し、複合化された陣地を地形に織り込み、全体を反射面陣地という脅威正面から地形防御に遮蔽する陣地帯は非常に大きな戦果を、米軍に出血を強要しました。しかし、第32軍は持久戦だけで一枚岩では無かった、大本営も決戦を求めた。
長勇参謀長は丹波哲郎が演じ、特にこちらも天才的な軍人であったと。実は決戦論者であった為に持久戦を放棄し第32軍瓦解早めたとの評価が定着している参謀長ですが、朝鮮軍歩兵第74連隊長時代に若手将校へ作戦要務令図解勉強会を主催する等教育を重視、一方で演習場に本格的な永久築城を行い実地訓練から作戦要務令の限界を教育する等、話が残る。
サイパン島逆上陸作戦へ関東軍機動第1旅団長を打診され気球空挺作戦の検討を行う等、奇想天外な戦術も実用性あれば忌憚なく受け入れる度量があるとともに、連隊長時代には父親の長蒼生が刀剣収集家であった為、野戦訓練や営内業務に頑張りを見せた将兵には日本刀を与えて褒める等、名物指揮官であったという。映画でも豪放磊落と紹介されました。
長勇参謀長の豪放磊落を伝える一つの事例が1938年の張鼓峰事件の現地停戦を命じられソ連側と停戦を画定した後、細部は参謀に任せて休もうとソ連陣地内でソ連軍第一線指揮官を促し、実際自身も雨衣を広げソ連陣地のど真ん中で大の字になって高鼾、という話もあれば、少し前には桜会の発起人の一人で226事件が成功した際には警視総監に着任の予定という危ない話もあります。
八原博通高級参謀を演じるのは仲代達矢、徹底した持久戦を南方戦線や欧州戦線での米軍運用や火力と指揮系統を念頭に提唱し、実際、第32軍の長期間の戦闘継続を実現させた立役者です。1981年まで存命されていましたので、1971年に公開された本作を実際に見ていたのでしょうか、仲代達矢と丹波哲郎、二百三高地の怒鳴り合いを先取りする迫力でした。
八原大佐は米国留学経験が、と劇中でも紹介されますが、米国工業力の大きさから平時の米軍軍事力と戦時動員の増強や、大学教育における予備将校養成課程が日本における大学での歩兵教練とは根本から異なる、当時日本陸軍を悩ませていた指揮官不足の問題と相まって彼我戦力の差異と我が方の劣勢を冷静に受け入れた現実的な戦術に持久戦を挙げます。
激動の昭和史-沖縄決戦、劇中でも総力戦として陣地を出て総攻撃に移行を主張する長参謀長と、彼我戦力の格差から持久戦貫徹を譲らない八原高級参謀の怒鳴り合いに近い議論が展開します。総攻撃は短期決戦でも短期間で一定の戦果が示せるとして第10方面軍も大本営も求めていた一方、物量差から不可能であり自滅であるとの冷静な分析での反対である。
英雄たちの選択、NHK歴史検証番組がありますが、一度真剣に現在の識者に選択を検証してもらいたいと思うのは、長参謀長案が通っていれば、沖縄本島での戦闘は一ヶ月程度で日本軍の敗北により終結していたのでしょうが、沖縄県民、特に3個師団が配備され首里城に司令部が置かれた事で疎開思い留まった県民が巻き込まれる事はなかったのでは、と。
英雄たちの選択、政治的に難しい話題は扱わない昨今のNHKらしい番組ですが、牛島司令官の視点から長参謀長の短期決戦総攻撃続行案と、八原大佐の持久戦により敵の出血強要に並行して非戦闘員の被害拡大、という状況をどう考えるべきか。実のところ非常に興味がある命題です。昨今の沖縄を見ますと、長参謀長案も一考の余地は。しかし沖縄が台風シーズンまで時間を引き延ばしたお蔭で本土決戦は回避されたがこれをどう考えるか、と。
長参謀長ですが首里城の一大地下司令部を構築したのは参謀長案です。八原高級参謀は野戦築城を優先し司令部地下壕は簡易なもので充分、としていましたが、実際に地上戦が始まりますと首里城へも艦砲射撃が降り注ぐこととなり、堅固な地下壕により司令部機能を最後まで維持でき、長参謀長の慧眼に助けられた、と八原高級参謀は戦後語っています。戦後生残った八原高級参謀は、冷徹を通すも情に脆く戦艦大和出撃を知って感極まった、と述懐しているのですね、感極まる瞬間は劇中でもところどころ、しかし高級参謀の職責と板挟みになる様子は観ていて悲しい。
嘉手納海岸に上陸した米軍、奇しくも嘉手納海岸は薩摩の琉球侵攻に際し琉球要塞陣地突破を断念した薩摩が火縄銃と日本刀による近接戦闘へ転換するべく上陸地点とした場所であり、1973年にはゴジラ対メカゴジラでブラックホール第三惑星人がゴジラとメカゴジラの決戦場とし、沖縄にとり象徴的な場所ですが、日本軍は首里まで防衛線を維持しました。首里から嘉手納までは実はそれほど距離が大きくは無く50万近い正規軍を投入した米軍を此処まで持久した、行ってみると驚きを禁じ得ません。
嘉手納基地へ那覇空港から現在行く際には、モノレールで那覇市を通過し首里から路線バスに乗り換え、嘉数の高台を眺めつつ普天間飛行場の隣を読谷村へそして嘉手納方面へと向かいます。第32軍司令部は首里城の地下にありましたので、要するにモノレールをバスに乗り換えてから全て激戦地です。しかし、大本営も第10方面軍も沖縄県地図を見れば主力温存の第32軍が何故首里から嘉手納まで突撃し奪還しないのか、と思った事が意見具申という名の督励に反映されています。しかし、防御でこそ威力を発揮出来たのが彼我戦力の格差で、嘉数高地の激戦は米軍戦史にも歩兵戦闘の極致とある。
見敵必殺-玉砕御免を掲げた第62師団がこの正面を防衛していましたが、師団砲兵を欠く軽装備の二個旅団を基幹とする師団でしたが、師団そのものは精強、中国大陸での大陸打通作戦、1000kmの長距離機動を果たし中国内陸部から九州を空襲するB-29基地を直接破壊する作戦、この経験を持つ第62師団は陣地と高地戦闘にて多大な出血を米軍へ強いてゆく。
九九式軽機関銃、映画では日本軍の自動火器が多数様々なところで射撃している様子が強調されます。これは元々第10方面軍経由でレイテ決戦へ送られる大量の自動火器がレイテ玉砕により沖縄で足止めされていたものを第32軍が用いたもの。レイテ決戦では破壊された航空機の機銃が取り外され火力を大幅に高めた事で陸戦で米軍を苦しめており、やはり第一線火力は重要ですね。
M-1ガーランド小銃と九九式小銃、半自動小銃とボルトアクション式小銃という日米差異がよく太平洋戦争の日米の国力差に挙げられますが、九九式軽機関銃と八九式重擲弾筒にM-1918BAR分隊支援火器と60mmロケットランチャー、沖縄戦での第一線火力はこうした違いも。一方、米軍M-1トンプソン短機関銃の近接戦闘での威力も劇中強調されていた。
第32軍は軍砲兵だけで300門の火砲を有していまして、陸上自衛隊の火砲定数を考えますと異例なほどの大火力といえるのですが、映画ではこの総攻撃における威力も、勿論東宝映画ですので本物の火砲を多数並べる訳にはいかず、予算の関係で描写に限界はあったのですけれども、強調されています。しかし、大本営と第10方面軍の督励や海軍の九州からの特攻による総攻撃に呼号するかたちで、持久戦を総攻撃に転換し、第32軍に限界が。
首里城地下司令部を最終防衛線として持久戦と決戦を繰り返した第32軍は、しかし更なる持久作戦の展開へ首里城放棄を決定し沖縄本島南部へ撤退してゆきます。ところが、この本島南部への撤退は多くの県民が避難している本島南部が戦場となる事を意味しました。劇中では島田知事が牛島司令官へ県民をまもる方法は無いか哀願しますが、劇中でも史実の通り、惨劇が始まり居住する県民の三人に一人が死亡したという沖縄戦の地獄絵図が展開してゆきます。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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