■五穀豊穣へ祈る
五穀豊穣というよりはお米の方ばかり向いている印象がある私とその周りなのですがここ稲荷社は五穀豊穣の祈りの場所だ。
伏見稲荷大社、伏見区深草薮之内町の稲荷山をご神体としました全国稲荷社の総本山となっています社殿です。その創建は8世紀初頭の和銅年間、西暦では708年から715年頃に造営されたといいまして、当時伏見の地名はまだなく、稲荷社と呼ばれた。
奈良線の稲荷駅から直ぐ。稲荷駅というのは伏見稲荷という名前ではなく元からの稲荷社としての名前をそのまま大事に継承している、とも解釈できるのですが、同時に駅前にいきなりどんと大きな鳥居と、その向こうに耐震補強中の鳥居が迎えてくれるのです。
御香宮、伏見稲荷大社とは言いますが実のところ伏見の中心部というのは京阪電車でもう少し行きました御香宮のあたりがその中心部となります。いや実際、JR奈良線で伏見稲荷大社といえば京都駅を出て東福寺駅の次が稲荷なので近いなと思うところですが。
紀伊郡稲荷村となっていましたのが福稲村となり深草村とそしてのちに深草町、1931年に京都市伏見区となりました歴史が。御香宮が中心部なのか、と言われるかもしれませんが、あの辺りは大坂城に並ぶ規模の伏見城があった、といえば中心部たる所以だ、と。
大坂城に並ぶ伏見城、といわずとも御香宮といえば名水、名水といえば酒造、伏見といえば酒です。だいぶん頓智のような言い方になってしまいますが、それは歴史上、もともと稲荷社とだけ呼ばれていた社殿を明治以降無理に名前を変えたためとも言えまして。
稲荷は稲成り、という語源があるとも数多言われる社殿の歴史には一説として考えられていまして、その社殿はむかし祭神が稲荷山の山頂に降臨したという縁から長らく山頂に構えられていましたが、室町時代中期に山麓へと遷座しまして、いまにいたります。
宇迦之御魂大神、祭神はまた数多ならぶところでありまして、宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社、と神々が並びます。この独特の信仰は更に明治維新の廃仏毀釈までは神域に神社と寺院が並び、信仰の多様性を示していた。
東寺の鎮守社、こんな関係を示しますとどう思われるでしょうか、と一筆思い浮かべつつ、いや京都駅から東寺へ向かう途中に伏見稲荷大社の御旅所があることから、これ京都散歩の際には常識なのかもしれませんが、この時代からかかわりがありました。
空海と稲荷神が田辺でであったという鎌倉時代末期に記された東寺の寺伝稲荷大明神流記眞雅記云ゝには記載があり、田辺というのは京田辺でははく熊野の田辺をしめすのですけれども、教王護国寺である東寺でも当時、稲荷社の影響は大きかったということ。
五穀豊穣を司る神、として信仰が広まりました稲荷社は全国に三万柱が奉じられているとともに、その創建の頃の大衆は農耕振興こそが第一であり最大の願いではあったのですが、農耕の安定化と共に殖産や商売繁盛が願われるようになり、その移ろいを経て。
清少納言が枕草子に当時の参詣の様子を記すとともに蜻蛉日記や今昔物語集といった古典文学にもその様子が描かれるところから、もっとも当時山頂の社殿詣では大変だったでしょうが、社会や文化とのつながりの深さを感じさせるところではあるのですね。
拝殿と本殿前には、もう国籍豊かな方々の祈りといいますか、祈りというよりは本殿での作法と共に詣でることが目的ではないのかな、という方も見受けられるのですが、それにつけても境内はもう賑やかであり、今も社会や文化とのつながりを感じられるのだ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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五穀豊穣というよりはお米の方ばかり向いている印象がある私とその周りなのですがここ稲荷社は五穀豊穣の祈りの場所だ。
伏見稲荷大社、伏見区深草薮之内町の稲荷山をご神体としました全国稲荷社の総本山となっています社殿です。その創建は8世紀初頭の和銅年間、西暦では708年から715年頃に造営されたといいまして、当時伏見の地名はまだなく、稲荷社と呼ばれた。
奈良線の稲荷駅から直ぐ。稲荷駅というのは伏見稲荷という名前ではなく元からの稲荷社としての名前をそのまま大事に継承している、とも解釈できるのですが、同時に駅前にいきなりどんと大きな鳥居と、その向こうに耐震補強中の鳥居が迎えてくれるのです。
御香宮、伏見稲荷大社とは言いますが実のところ伏見の中心部というのは京阪電車でもう少し行きました御香宮のあたりがその中心部となります。いや実際、JR奈良線で伏見稲荷大社といえば京都駅を出て東福寺駅の次が稲荷なので近いなと思うところですが。
紀伊郡稲荷村となっていましたのが福稲村となり深草村とそしてのちに深草町、1931年に京都市伏見区となりました歴史が。御香宮が中心部なのか、と言われるかもしれませんが、あの辺りは大坂城に並ぶ規模の伏見城があった、といえば中心部たる所以だ、と。
大坂城に並ぶ伏見城、といわずとも御香宮といえば名水、名水といえば酒造、伏見といえば酒です。だいぶん頓智のような言い方になってしまいますが、それは歴史上、もともと稲荷社とだけ呼ばれていた社殿を明治以降無理に名前を変えたためとも言えまして。
稲荷は稲成り、という語源があるとも数多言われる社殿の歴史には一説として考えられていまして、その社殿はむかし祭神が稲荷山の山頂に降臨したという縁から長らく山頂に構えられていましたが、室町時代中期に山麓へと遷座しまして、いまにいたります。
宇迦之御魂大神、祭神はまた数多ならぶところでありまして、宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社、と神々が並びます。この独特の信仰は更に明治維新の廃仏毀釈までは神域に神社と寺院が並び、信仰の多様性を示していた。
東寺の鎮守社、こんな関係を示しますとどう思われるでしょうか、と一筆思い浮かべつつ、いや京都駅から東寺へ向かう途中に伏見稲荷大社の御旅所があることから、これ京都散歩の際には常識なのかもしれませんが、この時代からかかわりがありました。
空海と稲荷神が田辺でであったという鎌倉時代末期に記された東寺の寺伝稲荷大明神流記眞雅記云ゝには記載があり、田辺というのは京田辺でははく熊野の田辺をしめすのですけれども、教王護国寺である東寺でも当時、稲荷社の影響は大きかったということ。
五穀豊穣を司る神、として信仰が広まりました稲荷社は全国に三万柱が奉じられているとともに、その創建の頃の大衆は農耕振興こそが第一であり最大の願いではあったのですが、農耕の安定化と共に殖産や商売繁盛が願われるようになり、その移ろいを経て。
清少納言が枕草子に当時の参詣の様子を記すとともに蜻蛉日記や今昔物語集といった古典文学にもその様子が描かれるところから、もっとも当時山頂の社殿詣では大変だったでしょうが、社会や文化とのつながりの深さを感じさせるところではあるのですね。
拝殿と本殿前には、もう国籍豊かな方々の祈りといいますか、祈りというよりは本殿での作法と共に詣でることが目的ではないのかな、という方も見受けられるのですが、それにつけても境内はもう賑やかであり、今も社会や文化とのつながりを感じられるのだ。
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