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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,稲荷がどのように変容を辿ったのか愛染寺と浄安寺と西光寺と

2024-10-16 20:22:36 | 写真
■豊臣秀吉の楼門寄進
 稲荷社を象徴する壮大な楼門はかの豊臣秀吉が寄進したもの。

 伏見稲荷大社がどのように変容を辿ったのか、大きな起点は、やはり豊臣秀吉なのかなあ。天下餅という、織田がつき-羽柴がこねし天下餅-座りしままに食ふは徳川、なんて信長と秀吉と家康の三者三葉を謳った歌がありますが、京都では秀吉の人気が。

 豊臣秀吉はこの近くに伏見城を造営した際、大病に冒された母の大政所の平癒を祈願したのが稲荷社でして、神威成って病気平癒が実現、この際に秀吉は楼門を造営して寄進するとともに稲荷社その際大規模な寄進をしています。秀吉はこういう事が多い。

 京都大改造を行いました秀吉は御土居を筆頭に多くの公共物や寺社仏閣の再建を主導、この際に京都は応仁の乱からの復興を漸く終えた、という表現が当て嵌まりまして、そう、楼門もようやく、今に至る優美なすがたとともに当地に再建されたということ。

 楼門は天正17年こと西暦1589年に豊臣秀吉により再建された重要文化財です。ただ、本殿の、これも重要文化財なのですが再建されたのは明応3年こと西暦1494年に再建されたもので、土一揆からそれほど時を経ていない中にあの五間社流造を再建している。

 内拝殿、曲線が妙に美しい、参拝の際にはここで賽銭を投じて柏手を叩くのですけれども、ここは明応年間の再建よりはもう少し後の造営となりまして、外拝殿が天保11年こと西暦1840年に再建されているというので、この際に神域の様相が大きくかわって。

 仙洞御所を後水尾上皇が下賜されたというのは御茶屋、とこう神域の社殿の歴史を少し紐解きますと、応仁の乱では更地になったものの、そのあとの本殿復興は、直ぐにと今の感覚では言えないものの応仁の乱のあった15世紀中には実現しているのだ、と。

 愛染寺、浄安寺、中世の稲荷社の歴史を紐解きましたものの、もう一つ今とは根本から風景が変容しているものとしまして、神域に寺院が複数並んでいたという。これらは廃仏毀釈の際にすべて失われていましたが、稲荷山は神仏習合の聖地でもあった構図で。

 赤い鳥居、応仁の乱の時代にはすでにあったと前述しましたが、千本鳥居と同一なのかは議論の余地があるようでして、この背景には神仏習合と関係が出てきます、こういいますのも江戸時代の大御所さま、浄土宗に帰依に帰依していました。

 浄安寺も浄土宗寺院なのですが、浄土宗は民衆信仰を集めており承認も例外ではない、そして満願成就、結願の礼として赤い鳥居を奉納することが為されたといいますので寺院とともに鳥居、これぞ神仏習合、千本と言わず膨大な数を揃えるようなったとも。

 廃仏毀釈、伏見稲荷大社はこの際に社領を四分の一まで削られてしまいましたが、この際に愛染寺や浄安寺と、続いて造営された西光寺といった寺院もご本尊共々破却されてしまったといい、これにより大きく姿を変容した事もわすれてはなりません。

 鳥羽伏見の戦い、もう一つは幕末動乱の際に錦の御旗が示され一気に日本は内戦へと戊辰戦争へ進んでゆくのですが、この鳥羽伏見の戦いでの戦火の直撃は幸い免れることは出来たものの、社領全体で見れば大きな被害に見舞われ、風景は一変してしまう。

 伏見稲荷大社参拝、歴史と共に巡ればおぼろげにもかつての姿が見えてくるのではないかと、いつもよりも空を見上げつつ神域を巡ったのですが、長い歴史とともに変化の幅もやはりものすごく、稲荷社の歴史の奥深さを改めて感じることと、なったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】伏見稲荷大社,古地図で巡る旅を阻む土一揆と応仁の乱に廃仏毀釈と京都大改造

2024-10-16 20:00:47 | 写真
■古地図で巡る散策
 稲荷山まで登ってみようかと思ったのですが余りに人が多過ぎるところでちょっと断念です。

 伏見稲荷大社、その昔は稲荷社と呼ばれていたというのはこれまでも幾度か触れたところではありますが、東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とします稲荷信仰の御本社となっています。伏見の地名というのは明治以降この稲荷社に冠せられたという。

 稲荷社が本来の名前であったのだ、というところは驚くところではあるのだけれども、そもそもここは神社ではあったのだが、空海とそして真言密教とのつながりを持つこととなり、それは東寺の鎮守社となったという、寺社仏閣の一体化された歴史も持ち。

 東山三十六峰最南端の稲荷山をご神体とするゆえに元々はこの山頂にあった社殿が室町時代中期に山麓に遷座したという歴史もありますと、まずまず不思議といいますか関心度、好奇心というべきか、生まれてきますのは昔の稲荷社がどんな風景であったか。

 神仏習合がすすんだのは平安時代の空海の時代からというけれども、山城国風土記、年中行事秘抄、といった歴史書には祭神の多様化が記されていまして、宇迦之御魂大神を祀っていた社殿はいつの間にか稲荷大神として四神の総称を祀る様になっている。

 千本鳥居は神域を代表する風景ではあるのだけれど、さてこれ、少なくとも農業信仰として崇敬を集めていた時代にはその千本鳥居は無く、しかし室町時代には一応、応仁の乱より前から商売繁盛の信仰とともに当地に広がっていた風景なのだという。

 一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰、ご神体の稲荷山は三つの峰にわかれている、そしてそれはもともとの祭神が3柱であったともいえるのですが、稲荷社として勢力とを増すとともに社殿の維持費にも高騰する部分が相応にあり、すると社領を広げてゆく。

 藤尾社こと藤森神社境内までその社領は伸びていたのですが、その神域の広さとともに社殿が絢爛豪華となることは、応仁の乱の時代には一種の重要施設として機能した事を意味する。応仁の乱は陣地とした寺社が一つ一つ焼失することで戦火が広がった。

 応仁の乱より前から千本鳥居があった、というのは応仁の乱にて東軍細川勝元の足軽大将骨皮道賢が稲荷山日本人を構えた際に西軍山名宗全の度重なる攻撃により千本鳥居を含めて全て山頂まで焼失したという記録が残っているためでした。

 山名宗全にせめられたならば仕方ないといいたいところですが、記録は残っていても肝心の建物は残らなかったのでは意味がないのですが、少なくともこの戦火により風景は更地へ一変してしまった構図、応仁2年こと西暦1468年のはなしとなります。

 土一揆、もう一つ追い打ちをかけたのが文明18年こと西暦1486年の土一揆騒動でして、この際には東寺の伽藍も焼かれてしまい、それはこの時代の寺社は復興の名目に寺社領の農民に重税を課したためという事情はあるのだけれども、改めて更地となった。

 古地図で巡る旅、という楽しみ方が観光地にはあるようですが、応仁の乱の後の古地図はどうなっているのだろうか、洛中絵巻などはある程度民衆に余裕がある時代に製図されるものなのだから応仁の乱直後の古地図というのは、そもそも存在したのかなあ。

 いまの伏見稲荷大社が過去の稲荷社の姿ではない、という事は簡単に理解できます、何しろ応仁の乱で山頂まで更地になったのだから。けれどもその復興過程などではどのように変容の歩みを綴ったのかということは、神域を巡るとともにふと思うのです。

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防災庁を考える,衆院選挙の政権公約が目指すのは大規模実動機関か都道府県庁と省庁間の調整機関か

2024-10-16 07:00:13 | 国際・政治
■自衛隊と防災庁
 防災庁というと二十年前に提案されていたのはアメリカのシービーズ海軍工兵隊を髣髴させる組織でしたが。

 防災庁は防災行政のデジタル庁を目指すのか。自民党と共に昨今ではれいわ新撰組が提案している防災庁について、もともと自衛隊を国際サンダーバード隊に改編すべきという、憲法学者の意見など、いわば防災能力に特化した組織を創設する事で、国家リソースにおける防衛省の人的リソースなどを奪いかねない存在であると理解されていました、が。

 デジタル庁、防災庁が目指すのは国家リソースにおける防災能力の集約ではなく、デジタル庁がデジタル行政分野において示しているような調整機関的な役割ではないのか、と考えるのです、特に自民党が提案しているものについては。実際デジタル庁はデジタル制作を示すだけで、例えば自衛隊が保有しているデジタルリソースを奪ったりはしていない。

 消防庁や防衛省が保有するリソースを奪うのではなく調整機関ではないか、こういいますのは仮に防災リソースの集約基幹として防災庁を想定するならば、地方整備局単位で工兵旅団や通信群や無人偵察機隊が必要になり、予備役という概念をここにも当てはめるかは未知数ですが、新たに三万から五万規模の人員を確保する事と成り現実的ではありません。

 ナイキミサイルを陸上自衛隊から航空自衛隊に移管した様な方式は有得ないのか、と問われますと、例えば方面隊の施設団などを防災庁に移管した場合、その稼働率を維持するために後方支援隊を移管する必要があり、しかし防災任務に戦闘工兵としての機能は不要ですが、移動は方面輸送隊の支援も必要など、不可分の組織を分割する事は機能不随を生む。

 調整機関として、防災庁を考えるならば、例えば能登半島地震を視れば分かりやすいのですが、被災地に関する情報が不明であり、この為に防災の主導を担う石川県庁がどの協力をどの機関に要請するのかがまず初歩で動けず、かといってRQ-4を石川県が航空自衛隊へ貸与を要請する事も出来ません、何が足りないのかの情報集約にたどりつけなかった。

 能登半島地震を例に出せば、能登空港を自衛隊が初動の段階で活用できるならば、その後の展開を大きく左右させられたのですが、能登空港の所管は第三種空港であり国土交通省の所管、国土交通省は軍用基地としての復旧、応急マットなどによる復旧ではなく旅客機を運行できる水準まで復旧させる事が管理者責務であり、結果的に時間がかかりました。

 地方自治法が憲法の地方自治に関する条文に基づき制定されていますので、国も石川県の対応に限界があったとしても国が石川県を無視して防災政策を主導する事は憲法上問題があり、現行憲法では非常事態法制や緊急事態法制度が整備されていないため、石川県の指揮機能と情報収集機能の想定を超えた災害には法律の面で対応出来なかったのです。

 超法規措置、こうした選択肢は有得たのかもしれませんが、一度でも超法規措置を国が主導してしまいますと、南西有事や周辺地域での重要影響事態に良くない前例を残す事と成り、被災地住民と憲法という、本来事前に緊急事態法制を整備していたら避けられた、かけるべきではないはかりを使わざるを得なかった、と解釈すべきなのかもしれません。

 しかし、防災庁が調整機関として設置されるならば、自衛隊のリソースと都道府県庁の権限に国土交通省や消防庁に警察庁やDMATなどのリソースを、一元集約する事までは出来なくとも、調整する事が出来ますし、担当大臣を置くことで、責任を取る立場が必要となった場合は政治責任を担当大臣が担う事が出来る。防災庁、どう実現するのか、関心事だ。

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