■五穀は魔や魑魅魍魎を祓う
いまの節分の季節は旧暦では大晦日に当る、だからこそ特別な行事となるのですが古来の様式を今に伝える吉田神社の節分大祭は三日間執り行われます。
節分、平安時代の豆まきというものは今のように東京マルイのM-4A1と6mmBB弾なんてものはありませんでした、当時はツヅミ弾が主力でマルゼンのKG-9とか今では考えられないような古臭いエアガンが主流だったのです、という時代より更に千年前だ。
ヤティマティックにキャレコ、後者はかろうじてFate-ZEROという作品で認識度を改めた印象ですが、よくぞまあ正規軍の制式を外れた装備が流行した一億総ゲリラ時代を迎える千年前の節分、一応追儺式以外に古代中国には魔除けで小豆を撒いていたらしい。
神事などで五穀は魔を祓うという効果が日本でも信じられていたため、米を撒くという神事は、同じことをやって没落した事が伏見稲荷大社の歴史で知られていますが、行われて、大豆を撒くほかに木炭を撒くとか、幾つかの事例は古来記録はあるも節分となると。
豆まき、日本では基本的に大豆を撒きますが、藤原道綱母が著した千年前の蜻蛉日記には、追儺式が転じた鬼ごっこのような遊戯に宮中の人が興じる様子が描かれているものの、豆をまいている様子などは描かれていません、豆まきは一般的ではなかった。
鞍馬寺だけは、例外となっていたようで、宇多天皇の御世には深泥池の付近に住み着いた鬼を討伐するために祈祷した大豆を鞍馬寺の僧正が投げつけて追い払ったという。ただ、そんな昔話があった、と室町時代の壒嚢鈔という辞典の節分項目に記されたのみ。
節分大豆打役、としましてようやく室町時代の宮中記録には大豆らしいものを投げていた様子が記されていて、なんでも、マメとは魔目に通じて魔物の目を投げるのと同じ効果があったという。室町時代には魔物の目を集め投げる残酷な発想があったのか。
臥雲日件録という相国寺の僧侶瑞渓周鳳ののこした日記によれば、文安年間の記述に、散熬豆因唱鬼外福内、要するに鬼は外福は内と唱えて豆を投げたという記録があります。もっとも、文安年間というと一寸後に応仁年間、応仁の乱が相国寺に来るのですが。
戦前は、昭和初期の時点で豆を撒こうにも食糧難が始まり、福豆と称して寺社参詣の方々へ福豆の袋を手渡した時代もあるという。大豆も食べられないのに戦争を始めたのもどうかと思うのですが、戦後また日本は豊かになり、豆を撒けるようになったのは幸い。
京都の節分、しっかりと最後まで見ている方には幼少の頃に結構怖い思いをしたという実録恐怖体験を聞くことがあるのですが、この吉田神社の節分は、追儺式を昭和初期に氏子たちの発案で再現した事が始まりという、比較的新しい祭事であったりします。
疫神祭、追儺式、火炉祭、と三つの祭事から成りまして、これを節分大祭という。故に、節分といえばセッツブーンでダンケダンケとか、セツブンガーでチャオチャオ的な祭事ではなく、古いお札の焚き上げ式など、みんなで豆まき式とは違うものとなる。
大祭、節分大祭と称されていますが様式は室町時代の様式を踏襲しているといい、もっとも、鬼やらい、という節分神事を全部しっかり見ていますと、やはり子供には怖い思いをするという。大豆を持ち込んであてても全く効果がない鬼が来るので要注意だ。
春分の日、実はこの節分大祭は節分の翌日に当たる春分の日まで執り行われます。そしてもう実は暦の上では春となりまして、実際梅花などは咲き始めているのですが、旧暦の正月を超えて、また一年がすこしすこしと、進んでゆくのを実感するのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
いまの節分の季節は旧暦では大晦日に当る、だからこそ特別な行事となるのですが古来の様式を今に伝える吉田神社の節分大祭は三日間執り行われます。
節分、平安時代の豆まきというものは今のように東京マルイのM-4A1と6mmBB弾なんてものはありませんでした、当時はツヅミ弾が主力でマルゼンのKG-9とか今では考えられないような古臭いエアガンが主流だったのです、という時代より更に千年前だ。
ヤティマティックにキャレコ、後者はかろうじてFate-ZEROという作品で認識度を改めた印象ですが、よくぞまあ正規軍の制式を外れた装備が流行した一億総ゲリラ時代を迎える千年前の節分、一応追儺式以外に古代中国には魔除けで小豆を撒いていたらしい。
神事などで五穀は魔を祓うという効果が日本でも信じられていたため、米を撒くという神事は、同じことをやって没落した事が伏見稲荷大社の歴史で知られていますが、行われて、大豆を撒くほかに木炭を撒くとか、幾つかの事例は古来記録はあるも節分となると。
豆まき、日本では基本的に大豆を撒きますが、藤原道綱母が著した千年前の蜻蛉日記には、追儺式が転じた鬼ごっこのような遊戯に宮中の人が興じる様子が描かれているものの、豆をまいている様子などは描かれていません、豆まきは一般的ではなかった。
鞍馬寺だけは、例外となっていたようで、宇多天皇の御世には深泥池の付近に住み着いた鬼を討伐するために祈祷した大豆を鞍馬寺の僧正が投げつけて追い払ったという。ただ、そんな昔話があった、と室町時代の壒嚢鈔という辞典の節分項目に記されたのみ。
節分大豆打役、としましてようやく室町時代の宮中記録には大豆らしいものを投げていた様子が記されていて、なんでも、マメとは魔目に通じて魔物の目を投げるのと同じ効果があったという。室町時代には魔物の目を集め投げる残酷な発想があったのか。
臥雲日件録という相国寺の僧侶瑞渓周鳳ののこした日記によれば、文安年間の記述に、散熬豆因唱鬼外福内、要するに鬼は外福は内と唱えて豆を投げたという記録があります。もっとも、文安年間というと一寸後に応仁年間、応仁の乱が相国寺に来るのですが。
戦前は、昭和初期の時点で豆を撒こうにも食糧難が始まり、福豆と称して寺社参詣の方々へ福豆の袋を手渡した時代もあるという。大豆も食べられないのに戦争を始めたのもどうかと思うのですが、戦後また日本は豊かになり、豆を撒けるようになったのは幸い。
京都の節分、しっかりと最後まで見ている方には幼少の頃に結構怖い思いをしたという実録恐怖体験を聞くことがあるのですが、この吉田神社の節分は、追儺式を昭和初期に氏子たちの発案で再現した事が始まりという、比較的新しい祭事であったりします。
疫神祭、追儺式、火炉祭、と三つの祭事から成りまして、これを節分大祭という。故に、節分といえばセッツブーンでダンケダンケとか、セツブンガーでチャオチャオ的な祭事ではなく、古いお札の焚き上げ式など、みんなで豆まき式とは違うものとなる。
大祭、節分大祭と称されていますが様式は室町時代の様式を踏襲しているといい、もっとも、鬼やらい、という節分神事を全部しっかり見ていますと、やはり子供には怖い思いをするという。大豆を持ち込んであてても全く効果がない鬼が来るので要注意だ。
春分の日、実はこの節分大祭は節分の翌日に当たる春分の日まで執り行われます。そしてもう実は暦の上では春となりまして、実際梅花などは咲き始めているのですが、旧暦の正月を超えて、また一年がすこしすこしと、進んでゆくのを実感するのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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