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【京都幕間旅情】梅宮大社-観梅,奈良時代橘氏氏神の社は檀林皇后橘嘉智子の手で京都へ遷座した歴史ある社殿

2024-03-06 20:00:22 | 写真
■梅花咲く酒造の神社
 熱い冬とさえ言われた暖冬を越えて立春の先に来ましたのは寒い春でしたがそんな最中に梅宮大社さんへ散策に行った話題をひとつ。

 四条通といえば京都の中心部を通るところではあるのですが、その四条通は延々と嵐山の方まで伸びています、その先に至るのは松尾大社という、阪急嵐山線の松尾大社前駅の隣なのですが、四条通の中心部は阪急河原町駅などがあり、ちょっと不思議に思う。

 梅宮大社は、そう四条通を延々と西へ進みまして、しかし桂川の手前あたりに鎮座している社殿です。もちろんその歴史は阪急は勿論鉄道技術さえ完成する遥か前の交通手段の主流が徒歩か牛車であった時代までさかのぼる連綿とした歴史を湛えています。

 右京区梅津フケノ川町、創建は奈良時代とされているのですが社殿ではなく歴史研究の視座からは平安時代初期とも伝えられている、すくなくとも千数百年の歴史を有します社殿が、四条通から鳥居をのぞかせていまして、その北に向けて静謐な神域を湛える。

 梅花の季節、というものですからその名を冠しました梅宮大社へは歩み進むところです。いや若干早かったか、と思うのは嵐山と保津川の冷涼な空気が開花時期を北野天満宮程は止めなかった故でしょうか、しかしもう見ごろと言える風景が迎えてくれました。

 酒解神、酒解子神、大若子神、小若子神。ご祭神はその名の通り、もう呑むしかない、というほどにお酒の名前を冠していまして、しかし酒の名字や酒を冠した地名が全員呑兵衛というわけではないではないか、という注釈を差し置き、此処は酒造の神の社だ。

 橘が神紋となっていますので、ますます梅とは無関係に思われるのかもしれませんが、連綿たる歴史と共に古い社殿を包む鎮守の森には数多花々花木が植えられ整備、そうその神苑には梅林さえ整備されていまして、参道からして梅花が迎える春のおももち。

 山城国葛野郡梅宮社、六国史という日本の律令制度を記した国史にはこの梅宮大社は承和3年こと西暦836年に神階叙位を賜ったとされています、平安時代初期の記録ではあるのですが、ただ梅宮大社の記録は散逸しており確認が困難という。もとは氏神の社で。

 県犬養三千代、このひとは橘三千代とも呼ばれていました奈良時代の女官なのですが、橘三千代さんの呼びかけにより橘氏の氏神を祀る社殿を造営することになった、それは梅宮大社の始まりであるとともに神紋が橘の花を冠している背景ともなっています。

 綴喜郡井手町、ただこの橘三千代さんの呼びかけにより造営されました社殿は京都府南部の綴喜郡井手町あたりとなっていまして、ここには多賀という地名もあり、いやしかし有名な近江鉄道沿線の多賀大社とは別の地名なのですけれども歴史ある土地といい。

 檀林皇后橘嘉智子、橘氏の氏神が平安遷都を経て京都に遷座しましたのは平安時代初期、檀林皇后橘嘉智子さんの手によるものでした。興味深いのはその遷座の在り方で、具体的には神霊を井手寺から当時当地にあった円堤寺の境内に祀ったというものでして。

 仁明天皇の時代、この天皇さんは平安朝初期の頃の方なのですが、皇太后橘嘉智子さんが、円堤寺に祀られる神霊は一応は外戚神となったのに大幣大社として扱われていない事に立腹したということで、遷座した円堤寺に祀られる神霊を延喜式に列したのがはじまり。

 山城国葛野郡梅宮社の神階はこの際に賜れたとのことでして、なにかこう歴史だけ聞きますと神々の崇高なる神話以前の神話を構成する際の俗っぽさを感じるところなのですけれども、この社殿にはいつも活気と朗らかさと厳粛な機運が隣り合っているのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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