若いころは、退屈で時間の無駄に見えた祈り。中年のころ困難に遭遇して祈りに気付き、今は結構身近になった。
幼いころ、母方の実家に行っても、父方の実家に行っても、仏壇に手を合わす祖父母がいた。私の母はカトリックで、毎週日曜日に教会に行き私もついて行った。父は、どちらかというと不可知論者であったが、晩年祖母の死のあと小さな仏壇を買って、時々祈っているようだった。自分の生育史での祈りの体験、やはり重いものである。
今は、七夕がもうすぐなので、先日も七夕の飾りを見かけ、なんとなく短冊を読んでみると、明らかに子供の字で「あたまが良くなりますように」、次に明らかに大人の字で「課長になれますように」とあった!人の願いは、なんて微笑ましいものだろうか・・・そんな印象を持ちつつ。わたしも、同じように書いて見たくなった(時間がなくできなかったのが残念)。
しかし、七夕のような年に一度のイベントと違い、日々のいのりはちょっと性格が違うようだ。お願いも当然あるが、それ以外の要素も祈りにはあるようだ。以前知人に教えていただいて、「脳はいかにして<神>を見るか」(アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ローズ著 PHP研究所)を読んだ。確かチベット僧、カトリックの修道女が実験に協力し、深い瞑想時の脳の働きを研究していたもので、何で人間の脳は不思議なのだとあらためて感じた。
その本にこんな<落書き>と称する文書が載っていた。
神は死んだ
ニーチェ
ニーチェは死んだ
神
神秘体験と脳科学。本当におもしろいテーマであるが、同時に祈りの世界の深さを科学を通してあらためて知る。簡単に神は死なないようだ。
さて、祈りを「生き甲斐の心理学」でいつものように考えてみよう。U先生のブログを拝見していると、祈りを防衛機制の「補償」と見ることもできるようだ。それも、もっとも建設的な防衛機制として。
因みに、「生き甲斐の心理学」では補償を次のように説明している。
補償: 劣等感感情を克服する方法
祈りの外にも、いろいろ浮かぶものがある。プレゼントや贈与、アラスカのネイティブの奇妙な習慣だったといわれるポトラッチもそうかもしれない。でも、何か祈りに似ている。補償について2-3日考えてみたい。
のんびり暮らす 4/10