イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

行動にはその人の真実がある!(みんなの性格形成理論 6/10)

2012-07-19 | 第三章「無意識の世界」

 ロジャースの19の命題(どんな人にも当てはまるよう作られた)を知っていて助かった!そう感じたのは、毎日認知症の方のお世話をする介護の仕事をしている時であった。ロジャースは19の命題のうち行動については5つの命題で触れている。そして、それを理解すると、認知症の方の行動を恐れたり、馬鹿にすることなく、自然に寄り添うことができるようになる。次の命題はその代表的命題である。

 命題5:行動とは、基本的には、知覚されたままの場において、有機体が、経験されたままの要求を満足させようとする、目標志向的な企てである。

 これを知っているだけで、随分違った。勿論行間のロジャースの人間を大切にする人間観を読むことが大切であるが。

 さて、一房の葡萄でも、これらの命題を知っていると理解を深められるポイントがいくもある。絵具を手に入れるために情動が沸き起こる心理。「僕」が絵具を盗み、それを友達によって発覚される経緯。そして、女教師が「僕」にやぼな質問をせず、「僕」の真実を的確に掴むのも「僕」の行動からである。次の、女教師の言葉は、この小説の山場の部分であるが、「僕」の悔恨の行動(言葉が出ないのか、頷いたり、泣いたり)を掴み言葉かけをするところである。

 「あなたはもう泣くんじゃない。よく解わかったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私わたくしのこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。」

 みんなの性格形成論 6/10


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あなたもわたしもOKの思考!(みんなの性格形成論 5/10)

2012-07-18 | 第三章「無意識の世界」

 679年に天武天皇は、妻の後の持統天皇と6人の皇子たちをつれ吉野に行幸された。そして、そこで吉野の盟約をするのだが、その時の天武天皇の歌が万葉集に残されている。

 よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見つ

 複雑な政治情勢の中で、皇親政治を固めていく重要な団結の盟約であるが、天武天皇の嬉しさが伝わってくる。

 このケースは総勢8名の盟約であったが、結果的には大津皇子が謀殺されるなど、残念な部分があったが、その効果もあり日本の原型づくりが進んだと私は思う。

 さて、心理学の世界では、よく私とあなたの関係を4つのパターンで考察することが多い。

 1.自己肯定  他者肯定 (わたしもOK あなたもOK)  対等

 2.自己否定  他者肯定 (わたしはNO あなたはOK) 下から目線

 3.自己肯定  他者否定 (わたしはOK あなたはNO) 上から目線

 4.自己否定  他者否定 (わたしはNO あなたもNO)  カオス

 そして、自分の日常の思考の傾向をこの4つで分類すると、いろいろなことが見えてくる。ストレスがあまりないとき、ストレスが中くらいなとき、そして凄いストレスのとき。その各ケースでの思考が4つのどれに似ているかを分析してみる。世の中には利害関係など複雑に絡む問題があるが、私はやはり1の自他肯定が一番無駄なストレスがないようだ。

 これは、何となく倫理道徳と合致するのだが、最近の脳科学の本を読んだりすると、神経生物学的な生物としての合目的性から考えても同胞を大切にすることが自然なようだ。

ロジャースの命題4は次であるが、思考のスタンスとして2、3、4 より1の自他肯定が、現実化し、維持し、強化することが一番うまくいくケースではないかと思う。鳥の渡りがたとえば綺麗な編隊をくんだり、人間でもfacebookで和気藹々と情報交換していると結果も良いのと同じようかもしれない。

命題4:有機体は、一つの基本的な経験と渇望(striving)をもっている。すなわち、体験している有機体を現実化し、維持し、強化することである。(生き甲斐の心理学 140ページ参照)

 有島武雄の一房の葡萄では、心理的描写からすると「僕」は、絵具への想いと裏腹に、3から4のほうに思考がすすみ、最後にジムとの和解で1に到達する。盗むという行動の背景には、3,4に繋がる思考があったのだろう。

 そして、あまり目につかないがジムの思考も同じような軌跡をたどるように感じる(3から1のような)。和解とは、そういうものなのだろう。一方、短編に出てくる級で一番大きな、そしてよく出来る生徒や友達は物語の進行に一定の意味をもたらすが、当事者づらをしていても当事者ではない。結局何の経験もつまず、物語から去っていくのではないか。

 最後に、「僕」は女教師による劇的な和解により、前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなった・・・という変化が起こる。そして、ジムにも何か変化があったかもしれない。

 実は、一房のような経験は私にもある。7歳の時にアラスカで全く言葉の通じない小学校に行ったとき、そこのネイティブの女教師との出会いがあった(下に参考までに以前書いたブログを)。この小説も横浜の恐らく英語がベースの学校の話であるが、キリスト教文化の人間観が印象的だ。恐らく、この一房の葡萄も私の体験も、カウンセリングが普及してくる前の時代である。しかしそれにも拘わらず、傾聴の本質が成され、やはりキリスト教の人間観が裏にあると思う。私は、キリスト教だけが唯一の人間観とはいわないが、子供のいじめや自殺の問題を解決していくには、人間観の問題は抜きにできないと思う。

http://blog.goo.ne.jp/hiroyuki-mori051201/e/c6e5c6d3497e5480ce2db81cdd1a99ff

 みんなの性格形成論 5/10

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ヒトはそれぞれ、独自の反応をするもんだ!(みんなの性格形成論 4/10)

2012-07-17 | 第三章「無意識の世界」

 夕方、町田市の薬師池公園に立ち寄った。縄文時代の遺跡から発見されたハスの種から花が咲いた。そんなことで有名な大賀ハスも咲き始めているようだ。夕方なのでザリガニを採る子供たちの外は少ない。しかし、もう盛夏という感じの夕方はなかなか美しかった。

 薬師池の水面に映る傾きかけた日の光や美しい緑、そして青空。なかなか幻想的に美しく、この世のものとも思えなかった。

とても落ち着いたひと時を、楽しめた。東京にもこんなところがあるんですね!

さて、こうした落ち着いた時もあるが、そうでなく湧き起こる情動に翻弄される時もある。この数日とりあげてきた一房の葡萄を、ちょっと思い出してみよう。「僕」が美しいジムの絵具にとらわれる。そして、それを手にいれたいという情動がおこってくる。しかも、ジムに話してみるとか、両親に頼んでみるとかの選択肢をとらず、盗むということにとらわれる。当然それが、いいことではないと「僕」はどこかで考えているので、ある種の心理的緊張があり、こころの健康は急低下しプロセススケールは低になっているようだ。

このように、一房の葡萄はロジャースの人格形成論から様々に解釈できるのだが、まず、発端の絵具に囚われたところを考えてみたい。昨日、老婆と美女のだまし絵の話をしたが、Wikipediaにその画像があったので次に挙げてみる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Youngoldwoman.jpg

この画像は有名で、いたるところで紹介されているのでご存じの方も多いと思うが、この図を見ると一般におばあさんに見える人。美女がちょっと斜めの後ろ姿に見える人にわかれる。どちらに見えても別にどうだということがないが、普通いったんおばあさんに見えたら見えっぱなしになる。こういう現象があるのである。

ロジャースの性格形成論では命題3で有名である。

命題3:有機体は、一つの体制化された全体(an organized whole)として、この現象の場に反応する。

老婆に見える。美女に見えるが同時におこることはない。そういう命題と解釈しても間違いではないと思う。人間も有機体(生命体)であり、身体をもち生育史をもち、そして魂をもっている。時間と共に変わるものだが反応は不思議なことに一つ。そして、美女が見えるはずだと焦っても、なかなか見えなかったりする。

こうした命題3は、だまし絵のような、ちょっとした軽い話題の世界もあるが、宗教や哲学を信じて見える世界もある。ある人には説明してもなかなか理解してもらえない世界。また、その反対にこちらが理解できない世界もある。まあ、そういうことが人間の常としてある。そういう知恵は、とても大事だと思う。

昨日の薬師池は私にとっては、とても神秘的であった。

みんなの性格形成論 4/10

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嫌いな人が好きになる!(みんなの性格形成論 3/10)

2012-07-16 | 第三章「無意識の世界」

 「生き甲斐の心理学」の勉強会を八王子や多摩でもう8年続けているが(次の秋以降は、もっと新しい方をお呼びしたいと考えている)、その中で、「嫌いな人」の話が結構出てくる。苦労されている方も多いと思うが、私もその問題には昔から関心が高い。

 人は初めて他人に会うと、瞬間的に好きか嫌いかの感情を持つらしい。感情を意識に上げやすい人とそうでない人がいると思うが、いずれにしろ好悪の感情はどこかで働き、人はそれに翻弄されたりする。そして、通常はその好悪の感情はなかなか変わらない。心理学の教科書に載っている、だまし絵で一つの絵に、一枚の絵が老婆に見えたり美女に見えたりする絵がある。そして、いったん老婆に見えるとなかなか美女には見えないのが人間の常だ。

 嫌いな人を避けて生きることができればよいが、しがらみで避けられないこともある。仕事のしがらみ、組織のしがらみ、血縁のしがらみ・・・そして、自分が嫌っている嫌いという原初感情を抑圧・抑制しつつぎこちなく対応したりする。しかし、感情はリアルであり、他人から見ても結構判るものである。物事が上手くいかないのは当たり前である。

 さて、今回は嫌いな人が好きになっていく過程をちょっと考えてみよう。実は、「一房の葡萄」は熟読すると、そういう物語であるかもしれないと気付く。時間のある方は次をお読みいただければと思う(短い時間で読める児童文学です)。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html

 この短編の中に出てくる登場人物は、日本人の僕と、西洋人の友達ジム、そして西洋人の若い女教師である。そして、「僕」がジムに感じている感情はどうか。

 小説の冒頭には、ジムが身体が大きいとか二つ上だとかという説明はあるが抱く感情はよく判らない。そううち、ジムが素敵な絵具を持っているのに絵が下手だと書いてあり、何か嫉妬とか劣等感(嫌いの感情がベース)をもっているようだ。

 それが、絵具が欲しくなってくる情動の中で、ジムへの疑惑感(これも嫌いの感情がベース)が沸き起こってくるようだ。暗い感情が亢進していき、最後に絵具を盗んでしまう。

 絵具を盗んでから、物語はそれが見つかり、若い先生の部屋に少年たちに言いつけられに行くように急展開する。ジムが怒りの中で事実を話し、「僕」は後悔の中で泣く。その後、若い先生の適切な対応(心理療法に必要かつ十分のロジャースの6条件など)で、意外にも明るい感情も現れ、「僕」とジムの和解が成立していく。ただ、当初ジムに持っていた原初感情がどう変わったかは、はっきりわからない。若い女教師が主題なので、また当初のジムに対する感情が激しいものではなかったので、そんなものかもしれない。

 最後に、「僕」の感情の変化を考えるうえで、大事なロジャースの命題2を次に挙げたい。

 命題2:有機体は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(reality)なのである。

 客観的な事実というより、その人がどうとらえたかがリアリティであり、人類70億人が今いるとすれば、70億とおりのリアリティとその反応があるのだと思う。

 また、感情はリアリティそのものだと思う。

 みんなの性格形成論 3/10

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幸福追求で忘れてはいけない二つの側面!(みんなの性格形成論 2/10)

2012-07-15 | 第三章「無意識の世界」

 幸福をどう追及するのかという点で、50歳になってはじめて目からうろこで理解したことがある。それは、「生き甲斐の心理学」の勉強会でU先生から学んだ幸福の条件と幸福感の話である。

 幸福追求というと、自分なりの条件とか目標を思い描くようだ。年収2000万円の生活とか、世界の10指に数えられる大学を卒業するとか。素敵な男性と結婚するとか。大企業の社長や役員になるとか。偉大な野球選手になるとか。総理大臣になるとか。ノーベル賞をとるとか。僧侶や神父や牧師になり大僧都や枢機卿になるとか。毎日3時間は本を読むとか。国際正義のために貢献するとか。原発を日本から無くすとか。生き甲斐の心理学を世に知らしむとか。子供を3人産んで愛しみ成人させるとか。・・・

 そして、こころの底から、そうした追及をしていると、意外に夢は現実化するものでもある。ただ、それを条件を達成すれば至福の幸福感が得られるかというとどうだろう。幸せだと感じることもあるが、逆に空しくなることも(五月病?)。

 生き甲斐の心理学を勉強して、眼が開かれたのは、幸福感ということであった。先の幸福追求の仕方は具体的な目標とプロセスを伴うが、幸福感やそれに似た明るい感情は日々の生活の中でふっと湧き起こるだけである。幸福な感情は、いろいろある。美しい花やおいしい食事で平安感を味わったり、友や配偶者との会話から友好的感情得たりする。太極拳で汗を流した時の爽快な健康感。そして憂鬱な問題から解放された時の涙が出るような幸福感。さらに、サマリアの女を彷彿する統御感まで。

 さて、昨日「一房の葡萄」を取り上げたが、これは幸福感の話と考えることもできる。絵具を手に入れたい激しい情動(その思いは手段は間違っていたかもしれないが、本来美しい思いだった)で、絵具を盗んでしまう。そして、それが見つかったために、自分のしたことに対する過度の嫌悪や錯乱感。

 事件の次の日には、学校に行くことが憂鬱であったが、先生の言葉を思い出し登校する。ところが、登校すると先生の活躍で思いがけない展開があり、憂鬱が幸福感に転化する。憂鬱感が幸福感を得るための土壌であったのだ。美しい一房の葡萄に象徴される、真善美の追及、あるいは自他肯定の追及。その意味が何となく判る。

 これは小説の話であるが、自分の人生の中でも同じようなことがあった。

 写真は野に咲くヒメジョオン。雑草の典型で好む人は少ない(私もそうだったが)。ただ、昨日、上から見ていたら夜空の星のようで何ともいえない美しさを感じた。日々幸福感を味わうことも可能なのも、特徴のようだ。

 みんなの性格形成論 2/10

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