イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

こころの自由を得るために(1) (こころの自由 8/10)

2016-10-17 | 第一章「意識と知覚」

 二泊三日の町田での勉強会から帰って、のんびりと「こころの自由」のことを考えています。環境、時代、置かれた文化、成育史、身体の状態・・・様々な要因の中で「こころの自由」を確保するのはなかなか大変です。

 しかし、環境、時代、置かれた文化、成育史、身体の状態などが人の「こころの自由」を脅かす何かであると意識することは自分を俯瞰しこころの自由に近づくために、とても重要だと思うようになりました。

 そして、U先生の「生き甲斐の心理学」の理論を使うと、どのように状況に応じて「こころの自由」を獲得していくかが、見えてきます。ただ、それは厳しい訓練を伴う必要があるようです。

 写真は昨日の満月がのぼるときのものです。茜色というのでしょうか、想像を絶する見慣れぬ月がのぼる。縄文時代の祖先などはどのような解釈をしたのでしょうか?黄泉の国の光を浴びて登る月・・・そんな風に不吉を感じたかもしれません。今の人は科学的に密度の高い水平線付近の空気により月の光線が赤色化して・・・とかでしょうか。そして、傍観するのでしょうか。しかし、月の意味を傍観するだけではなく考えることは重要だと思うのです。

 月のありようを見るにつけても、こころは意外に不自由なものかもしれません。

 アインシュタインは常識を批判し「十八歳までに身に着けた偏見の寄せ集め」(宇宙創成 サイモンシン 新潮文庫42ページ)と鋭い批判を言ったようです。常識を批判することは苦痛を伴いますが、時に常識を疑い、謙虚になることはこころの自由を得る上で大事だと思います。

こころの自由 8/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 

 

 


好奇心旺盛、真理探究の楽しみ!(こころの自由 7/10)

2016-10-14 | 第一章「意識と知覚」

 縄文時代の4500年くらい前に、岐阜県の金山で太陽暦のための天体観測遺跡が発見され燃えています!できれば今年中にでも一度訪問したいと思っているくらいです。

 金山遺跡は縄文社会に必要な実用的な精度の高い暦という側面が大きいと思いますが、それでもグレゴリオ暦並みの精度といわれ、当時の真理追及のすごさに感動してしまいます。

 暦と関係することで、宇宙モデルの探究というのもあります。有名なところは地動説や天動説があるのですが、16世紀のコペルニクス以降に真理探究が始まったと昔はかってに思い込んでいたのですが、実はギリシャで紀元前300年くらいにすでに地球の直径や月や太陽までの距離などはある程度わかり、地動説も唱えている人がいたそうです。そんなことを考えると、縄文時代の太陽暦の存在も嘘ではないのかなと思います。

 私は、小学生くらいから好奇心旺盛で、顕微鏡を見たり天体望遠鏡を見たり本を読んだりし、なにかウキウキしました。疑惑・恥辱感、自律性、意志力の世界で、暗い気分を吹き飛ばすのも科学的な真理探究だったかもしれません。大学生の時に等価変換創造理論を知って猛烈に好奇心を得たのも、その延長だったようです。今の縄文小説も、その発端は遺伝子科学の影響が大きいと思います。何に好奇心を感じるかは、こころの健康で重要です。

こころの自由 7/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


晩年の絶望感に押しつぶされない!(こころの自由7/10)

2016-10-12 | 第十章「今ここでの恩寵」

 最近、健康診断で少し脅かされたこともあり、年相応の身体への気遣いなどをしている。さらに、縄文小説の結末(主人公の死やその後)あたりも何となく歯切れが悪く鬱々としていた。さらに、電子書籍やオンディマンド印刷など縄文小説の配布方法を考えると、やはり初めてのことでもありストレスを感じる(楽しいことも多いが)。

 エリクソンによると、60歳を越えると、知恵、自我統合性、絶望感の三つが重要な年齢となり、しかも今のようにストレス曲線が身体的症状あたりを彷徨うようになると、「生き甲斐の心理学」の知識がないと本当に絶望感に浸りきってしまうようだが、運よくこのストレス曲線も幸福への糧と習っているので、解決方法(今までの事例)を自己事例からいろいろ考えてみた。解決・解放すると理論的には幸福感にたどりつくはずだ。

 先日の、さきたま古墳群散策の旅であったが、写真は愛宕山神社のあった古墳は印象的であった。古墳(1400年前とか)の山頂に時代は異なるが、道祖神?お地蔵様が不思議な調和の中で祀られていた。多摩の縄文遺跡のそばにも道祖神等がよく祀られていて、聖地とされているところは祈りの文化が面々と続いてるんだなと不思議な気分になる。

 そして、昨日、今日に何となく気が付いたのだが、縄文小説を執筆する中で無意識に絶望感の問題を追及していたなと思った。特に昔のさまざまな神話に創造神をいろいろ模索していることだ。宇宙を創ったのは誰か、何かというテーマだ。一神教では「私はある」という神だったりするが、多神教とかアニミズムと呼ばれている地域の神話の中にも、それらしい神様が登場する。東南アラスカではワタリガラスが創造神だったりする。中国の盤古、日本ではなんだろうか。そして、それを思索することでちょっとした幸福感に浸ったりする。

 晩年とか終末の問題を考えていると、反対に誕生(例えば宇宙の始原も)に興味をもつようになるようだ。

 それから、昨日は老人ホームに母に会いに行ったが、私の生後6ケ月の孫を連れて行ったので、とても喜ばれた。老人と赤ちゃんという組み合わせは、幸福感を産む神秘的な組み合わせかもしれない。

 私の漠とした縄文小説の結末も昨日一応けりがついたようだ。知恵、自我統合性、絶望感、身体的症状、を幸福感に結び付ける知恵として、小説を脱稿することも関係が深いかもしれない。

 それから、私は創世記の次の言葉が大好きである。この言葉を読むといつでも幸せになる。

「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」

こころの自由 6/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


しのびよる停滞感を解放する!(こころの自由 5/10)

2016-10-10 | 第九章「愛」

 「生き甲斐の心理学」では、エリクソンの元型論(発達論ではない)を学ぶが、自分を知るうえでとても役立っている。その中で、今日ずっと考えていたのは停滞感の問題である。停滞感はエリクソンによると35歳から60歳で特に顕著になるようだが、運が良いことに私が所属していた会社では、当時ユニオンショップの労働組合があり、私も労働組合の仕事を一年かなりしたことがあった。

 サラリーマンの生活では、管理職になると停滞感で関係する部下の世話は出て来るものの、当時の私は専門職でもあり直接意識することは少なかった。その中の1年。世話を切り口にして、自分の創造性を発揮するチャンスをいただいた。停滞感は、世話、生殖性と関係しており、当時なんとなく体調も一つ(身体症状)の状態だったが、明るい幸福曲線の世界に入ることができた。

 こころの自由を、停滞感の日々の中から獲得したといってもよいかもしれない。そして、それが50歳代になり意外な時期に大きく花開いていく。あらためて、会社と同僚・先輩に感謝である。

 世話とは何か?なかなか哲学的な問いであるが、おそらく人それぞれ生育史によって意味合いが違い、その元型も違っているが、人生の中の停滞感を切り口にして考えてみると浮き出てくるように思う。

 写真は先日行った日本最大の円墳。その頂上での景色は実に素晴らしかった。頂上ではわんちゃんを連れて景色を眺めていた地元の紳士がいたが、愛犬と毎日眺められる場所に住みたいと羨ましかった。

こころの自由 5/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 

 


東国に住むアイデンティティ!(こころの自由 4/10)

2016-10-08 | 第七章「光と復活体」

 一昨日の晩に縄文小説の2回目の校正が終わったので、昨日は友人と楽しく埼玉県行田市の「さきたま古墳群」見学に行った。天気にも恵まれ、また友人も埼玉に詳しいこともあり、実に貴重な一日で今はシャキッとしている。

 世の中には職業病的なものがあるように思う。かつて、計画等を主な仕事としていた時期があったが、疑惑・恥辱感がやたらと刺激され、それが自分の基本的な傾向と重なって、過剰に神経質になったことがあった。今ではそういう職場だったかなと思う。反対にケアの仕事などは、自分の暗い側面を抑制するところがあるので、どこか自分の成長(悪い面を改善する)が削がれるところがあったように思う(人それぞれなので、他の人は違うと思うが)。職業と性格は結構深い世界と結びつく。

 縄文小説を書いていると、文字のない日常、実に多様性(食物などで)のある世界を受容する必要があるので、普通の歴史小説の世界と違って書いている本人は現実(文字を使って書いている)とのギャップにアイデンティティをかく乱される。おまけに、私の血の中には1/4が江戸っ子なのであるが、残りは関西・西国であり、自分のアイデンティティが東日本中心の縄文文化で混乱する部分があった(そのため、私の1/4の江戸っ子の祖父に同一化するところがあった)。

 ところで、写真の歴史好きの方ならご存じの、稲荷山古墳の鉄剣を初めて見学させていただいた。あまりに鮮明に文字が確認されたので、説明員の方に「これはレプリカですか?」とおもわずお聴きしてしまった。結果は正真正銘の本物・国宝でガラスの中は窒素ガスで錆が進行しないように保護されているとのこと。この金象嵌(金です!)115文字は、ガイドブックによると西暦471年に残された極めて貴重な文字。万葉集など爆発的な文字表現の250年前。万葉集などは、縄文時代からの文字の抑圧の反動とみることはできないのだろうか。

    

 日本最大の円墳。近くに石田堤。

 円墳の頂上から後北条の忍城跡(のぼうの城)が!

 

 さきたま古墳群は、飛鳥の山野辺の道にちょっと似たところがあり、多分縄文時代の人が独占していたすでに開拓した土地ではなく、沼地などを開拓して作った新しい土地のように思う。そして、たくさんの円墳や巨大な前方後円墳に圧倒されてしまった。ヤマトに対抗するムサシといってよいのだろう。しかし、こんな世界遺産候補が近くにあるのを知らなかったのはなんだろうか?

 今回の小旅行で、自分の中にある文字に関する無意識の世界が、何故か心を不自由にしていたことに気づいたようだ。それが、さきたま古墳と鉄剣ですっきり。

こころの自由 4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!