これは武谷三男がいつも強調していたことだったが、日本で何か新しいことを主張してもなかなか認められない。ところがヨーロッパの学者とかアメリカの学者が提唱した学説とかだとすぐに認めてしまうことが多い、それも日本の学者がそれと同じことを提唱していたとしても。
素粒子物理学で坂田モデルに関係して私たちの先生の方々が群論を導入したときにも日本の学会ではすぐに評価されたとはいいがたい。もちろん評価してくれた研究者もいたのだが。それだのにアメリカの物理学者ゲルマンがeightfold wayで成功するとすぐに飛びついた。もちろん、坂田モデルよりもeightfold wayの方が実験的成功もあったし、説得力があった。これは事実である。
もっとも私は坂田モデルの方がオリジナルだのにゲルマンだけがノーベル賞をもらうのは我慢できないという説には与しないが。
多分、外国の学者の方がプレゼンテーションが上手なのだろうか。それにしてもそういうことが多すぎるような気がする。
私のことで恐縮だが、小著『四元数の発見』で他であまり見ることの少ない議論を徹底的にしたつもりだが、それを素直に認めてくれる人などほとんどいない。皆無とまでは言わないけれども。日本の、それもあまり名も知られていない元研究者が書いた本など無視してもいい。これが外国の有名な学者の本とか論文にあれば、絶賛してすぐに提灯持ちをするのに。
ちょっとひがみぽいけれども、そんな感覚をもっている。武谷三男にしても放射線量に関して許容量という概念を提出したのに、そしてそれがICRPの基準に採用されて、いまではアメリカ由来のリスク・ベネフィット論として流通している。そうなるともう日本人の手を離れたということで堂々と学会とか世界の考え方の基準になっていたりする。
どうも若い学者たちの欠点もそういう日本固有の弱みをもっているのではないか。日本人でももう若くはない人にはそういう欠点はもっていないかもしれないけれども。
本当に独創的な思想なり、学説なり、研究なりなら、それは外国起源であろうと、日本起源であろうと同様に評価すべきなのであろうが、日本人の場合にはお互いによく知っていたりすれば、どうしてもいつも議論したり、つきあいがあったりして、その欠点もよく知っていたりするためにどうしても評価が低くなりがちであるのかもしれない。
それだから、私たちは自分を鑑みていつも自戒していなければならない。