にとりあげられなかった人として日本で思想的に一番影響があると思われる人はやはり遠山啓であろう。広い意味の科学思想史の中に遠山さんは入れてもらえなかったのだろうが、やはり金森修さんの目がどうかしている。
そういう意味でいえば、いまも存命の方では板倉聖宣がいる。二人とも教育界での活躍であるので、金森修さんのようなヨーロッパかぶれには視界に入らなかったのであろう。
武谷三男の著書としては最近の再版では『弁証法の諸問題』新装版とか『物理学入門』くらいしかないのだが、遠山さんの著作はものすごくたくさん新版が出版されている。これは遠山の専門が数学であったことを考えると驚嘆に値する。
武谷が簡単に忘れ去られていい思想家だとはもちろん思わないのだが、すくなくとも出版商業ベースでは遠山の勢いは没後30数年だというのにすごい。
板倉についてはこれは私は西村肇(東大名誉教授)さんのブログで知ったのだが、西村さんに星野芳郎が亡くなる前に敬意をもっている思想家で活動家として板倉さんの名をあげたというが、さすが星野さんはよく見ている。
板倉は世間的に有名になると風当たりが強くなるというためにか、名を求めず実質的な教育活動を仮説実験授業を中心として長年やり続けている。だから、金森修さんの目に留まらないのはしかたがないが、どこに目をつけているのだといわれてもしかたがあるまい。
を『昭和後期の科学思想史』で見た。これは武谷三男について書かれたところではなく、坂本賢三を取り扱ったところにあった。
瀬戸口明久さんの書かれた箇所だが、316頁に
戦時中の弾圧を経験した武谷は、非合理的な政治こそが諸問題の元凶であり、より科学的な精神を行きわたらせれば社会は進歩するという科学観をもっていた。だが、坂本は「ヘーゲルをきちんと読むようになってから」、次第に武谷の理論が「底の浅い、悪くいうと思いつきのようなもの」と感じるようになったという。
これは多分に坂本だけの感じではなく、関西に居住した、数人の若い科学史家たちの共通の感覚だったという。その中には広重徹も含まれている。
(2017.2.13付記)坂本さんの武谷三段階論観にケチをつけるわけではないが、思いつきにしてもなにかオリジナルなことを考えることは素晴らしいことである。それが私たちにはなかなか難しい。だから、オリジナルをちゃんと認めるところから話が始まるのである。それにいちゃもんをつけようとどうしようとかまわないのだが、やはりそのオリジナルさをまずはきちんと認識することから話がはじまるということを忘れてはならない。
はところどころに他人に引用されている。
一つは佐高信が書いている武谷三男と辛淑玉さんのやりとりである。これは前にもこのブログで書いたのだが、「もう少し前に知り合っていたら恋人になったのに」という、辛淑玉さんのジョークに対して武谷さんは「いまじゃダメなのかい」と返したという。武谷が亡くなる少し前のことだから、なかなかのユーモアである。
これは法政大学におられた西田勝さんとの武谷との時事漫談というのをある講演会の前座でやったとき、西田さんが「時事漫談ではなくて、じじい漫談だいう人もいるようですが」と言ったら、「じじいが頑張らなくてもいいようになればいいのだが」、と切り替した。
即座に反応できるところがすごい。頭の反応の速い人だったらしい。
いま、金山浩司さんとか岡本拓司さんとかの武谷論とか塚原東吾さんの武谷三男論を読んでいる。特に金山浩司さんの論文は3回は読んだ。
岡本さんの論文は3回目を読もうとしている。塚原さんのは国会図書館で走り読みをしたのだが、今回は昨年6月発行の雑誌「現代思想」を購入して読み返している。こちらは1回目がまだ終わっていない。
金山浩司さんの論文も主な記述ではあまり武谷批判はないのだが、結論というか終りの方にどうも批判的視点を持っているというような記述である。それは塚原東吾さんの論文も同じである。
最近読んだ武谷三男論ではもちろん八巻俊憲さんの論文もある。こちらは武谷は「科学主義とヒューニズム」とが2本の柱だとあった。
いずれもそれはそれとしてまちがいではないのだが、まだ十分に武谷に特質を捉えてはいないのではないかという気がしている。
金山浩司さんは武谷を模写説派ととらえており、これは構成主義派とちがって単純だという評価である。それは間違っていないけれども、それだけでは済まない何かがまだあるような気がしている。どこが足らないかということをここで書いてしまうとそれこそアイディアを取られてもいけないので、ここではあえて述べないでおく。
すくなくともいろいろな媒介を断ち切って、議論するのが武谷であり、そのために主張の強さもあるが、単純でもある。
武谷が科学万能主義というか、科学第一主義だという金山の主張は科学とは自然科学のことを意味しているのかどうか。もしそうとっているのから、武谷は自然科学第一主義ではないと思う。どうしてかの理由はここで述べないでおくが。
いずれにしてもこれらの論文をさらに読み込んで彼らと少し異なる、私の見解をどこかで発表したいと考えている。