物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

5月の子規の俳句

2020-05-14 17:42:01 | 本と雑誌
毎月一句だけ子規の俳句を紹介している。

今月は
  うつむいて何を思案の百合の花 (子規 1895)
  dropping lily
       what are its
       thoughts ?
である。

小学生のころ担任のY先生は絵が好きな先生でよく絵を描く授業時間があったので、百合も描かされたはずだが、覚えてはいない。

三角形の面積とテンソル解析の間

2020-05-14 12:10:42 | 数学
変なタイトルだが、実はこの2つは論理的な関係がない。

中学生君への教材の資料としてつくっているのが、三角形の面積についてであり、現在頭を悩ましているのが、昔書いた数学エッセイの改訂新版をつくろうとしているのが、テンソル解析だということしか脈絡がない。

どちらが簡単かというともちろん「三角形の面積」である。それで昨日の午後3時過ぎからこれについて書いた。それもその下敷きになる文書は私が高校のときに使った「解析II」のテクストである。

田島一郎先生の編集した好学社発行のテクストでもうボロボロになっている。あまりよくわからなかったところに赤線がいたるところに引かれたテクストである。それでも大事にもっている。もう60年以上まえのテクストである。

さすがにいまごろになれば、このテクストであまりわからないことが多くあるわけではない。これは高校生のころもわかりやすいテクストという感じをもっていたのだと思う。

「テンソル解析」のほうはいまでもなかなか難しい。もっともいま改訂しようとしているエッセイの初稿は1885年である。だから、これももう35年前のものである。

ということは、私は35年経ってもあまり進歩していないということの証かもしれない。

新型コロナウイルスの話題で

2020-05-13 11:15:59 | 本と雑誌
世の中は、新型コロナウイルスの話題でもちきりであるが、私はそれにはあまり煩わされないで、自分の仕事に集中している。
 
世の中から隔絶しているのはすくなくとも精神的にしかたがない。そうはいってもあまり超然としてもおられないのは私とて当然のことである。

明治維新のころのことである。世の中は騒然としていたときに福沢諭吉は超然として塾生を指導していたとはどこかで読んだことがある。

大砲の音が聞こえて、上野の山にたて籠った幕府軍の残党を政府軍が攻撃していたころである。

幸いなことにそういう騒音はしないのだが、それでも自粛でStay homeとか言われている。

ある中学生とのつきあいができて、彼の勉強する教材をつくるのが1週間前くらいの仕事であった。それからすこしはずれて自分の関心事に埋没している。

もっともこの中学生君への教材のヒントは一つ、二つ持っている。
 
それは一つは負数の入った数のかけ算の理解についての考え方であり、もうひとつは三角形の面積の求め方の二つである。これはへロンの公式を含んでいる。



F_{\mu \nu}には二つの定義があった

2020-05-12 10:56:49 | 物理学
名前があるのかどうかしらないが、F_{\mu \nu}というテンソルが電磁気学で出てくることがある。

昨日、Levi-Civitaの記号に悩んでいると書いたが、その悩みの一部にはF_{\mu \nu}のことがあった。

Schweberといえば、年長の素粒子研究者なら知っている、テクストがあるが、それに出ているF_{\mu \nu}の定義と他のテクストとの定義が符号だけちがっていることに気がついた。ひょっとしてまちがいかとも思ったが、たぶん他のテクストとちがうだけだろうと思った。

それで家に帰ってBjorken=Drellのテクストをみたら、なんとこちらはSchweberと同じだった。それでアインシュタイン選集の一般相対論の内山龍雄さんの日本語訳を見たら、F_{\mu \nu}の定義はSchweberとかBjorken=Drellと同じであった。

二つ定義があるような気が前からしていたのだが、はっきり調べたことがなかった。

Levi-Civitaの記号についての悩み

2020-05-11 11:48:47 | 物理学
Levi-Civitaの記号について悩んでいる。

これについてはもう論じつくしたつもりであったが、どうもそうでもなかったらしい。これはメトリックのとりかたとの関係での悩みである。

メトリックのとりかたが、私の年齢のものはds^{2}=dx^{2}+dy^{2}+dz^{2}-dt^{2}ととったいわゆるPauliメトリックであったが、これがいまでは普通にはds^{2}=dt^{2}-dx^{2}-dy^{2}-dz^{2}ととるのが普通であり、このメトリックの取り方の違いがLevi-Civitaの記号にどのように反映されるのか、そのことが私にはわからなくなっているからである。

単なる符号の問題で済むのかどうなのか。あまり書いてある本があまりない。一般相対論の本にはあまりこのLevi-Civitaの記号について書いていない。大学院のころのセミナーで成相先生の指導の下にメラーの『相対性理論』の本を読んだ。これにももちろん、Levi-Civitaの記号の説明はあるのだが。

これは実は昔書いたエッセイを改訂しているためである。うまく改訂できれば、またいつものように「数学・物理通信」に投稿するつもりである。


スピード違反

2020-05-09 10:59:25 | 本と雑誌
スピード違反はしたことはないが、したことのある人の話は聞いたことがある。

高速自動車道路で140キロでスピード違反したある方は警察から罰金をくらったのだが、100キロぐらいで納めてほしいと言われたという。

これはまた別の方だが、この人は免許停止をくったという。それは妻がその人から聞いた話だが、「僕いま免停なんです」と言われたので、「どうしましたか」と聞いたら、やはり高速自動車道路で160キロで飛ばしていて、さすがは罰金だけではすまず、免許停止になったらしい。

そのとき、すかさず妻が言ったという一言がすごい。「ずっと、つかまっていなさい」

いや、高速道路では飛ばせるのだが、スピードもほどほどにしておくのがよさそうですね。

正の数と負の数の乗除の規則

2020-05-08 12:31:02 | 本と雑誌
正の数と負の数の乗除の規則を学んだのは多分中学校に入ってすぐだったと思う。
それの理由などを追い求めるなどということはしたことはなかった。

頭から天下りに覚えたと思う。しかし、現在ではそれについてすこし納得できる理由があると知っている。

それでも数学教育に造詣の深い志賀浩二先生のテクストとか武藤徹先生の書かれたテクストを覗いてみたが、どうも私の知っているようなことは書かれていないようである。これはこのことを彼らが知らないからではなく、数学とか数学教育の専門家としての遠慮からなのであろう。

くりかえしになるが、これは教育の専門家ともなれば、むやみに何でも書いてもいいとは思わないのであろう。私はそういう数学教育の専門家ではないから、いくらか裁量の自由度がある。そのために自由な解釈を述べても許されるのであろう。

最近、つきあいのできた中学生君にはそれだから独自の見解を述べてもいいだろうと思っている。そうはいっても私の知識もすでに遠山啓先生とか藤森良夫先生の二番煎じである。

もっともそれを具体化したエッセイを書くのは結構重荷である。

erledigt

2020-05-07 12:00:17 | 本と雑誌
erledigtというのは日本語で言うと「済」とでもいうことだろうか。

これはドイツのマインツのドイツ銀行のある支店でお金を引き出したときだったか、支払いのお金を納めたときだったか、持っていた書類に漢字で「済」と書いたら、そこにいた女子銀行員に「ああ、erledigt(エアレーディヒト)だね」と言われたことを今朝思い出した。

erledigtはいわゆる過去分詞(完了分詞)であり、不定形でならerledigenとでもいうのだろう。

そういえば、フランクフルト空港だったかの駅で切符をどうやって買ったらいいのかわからなかったので、あるドイツ人に尋ねたとき、これはドイツにはじめて足を踏み入れた、その日のことであったが、「Automaten(アウトマーテン)で買えるよ」と教えてくれた。そのときAutomatenという語を知っていたわけではないが、ああ自動販売機だなとわかった。

そのときに切符を購入して、フランクフルトへ地下鉄で向かったが、地下鉄に乗るためにエスカレータを下りた、そのホームで誰かあるドイツ人女性からそのスーツケースは車輪がついていて便利だね。「どこで買ったの」と聞かれた。

「日本で(In Japan)」と答えたことを覚えているが、そのときに便利だねという表現にbequem(ベクベーム)という語が使われてその意味するところはわかったが、ちょっとbequemの使われ方に違和感を覚えた。

日本語の「便利な」にはpraktisch(実用的)というニューアンスがあると思う。このbequemという使い方はその後も一度も聞いたことがない。



連休が終わった

2020-05-07 11:50:59 | 本と雑誌
「連休が終わった」とはいっても何か新しいことが起こるわけではない。

病院に行けなかったのが、行くことができるようになったことくらいだろうか。妻も私もすぐに病院に出かけた。

とはいっても病気なわけではなく、定期健診的な検診のためである。それに世の中は新型コロナウイルスで重苦しいが、それでも季節はIm wunder Schoenen Monat Maiである。

松山の城山の緑も一年に1回の衣替えである。新芽がふいてきていつもは濃い緑の色だが、黄緑の色が強い。

しかし、まだタケノコのようなにおいが漂っては来ていない。これは多分に5月の終わりころに匂うのだたったろうか。

今日は連休の最終日

2020-05-06 12:37:41 | 本と雑誌
今日は連休の最終日である。

しかし、私は日曜日以外は休まないので、連日仕事場に詰めている。大学に勤めていたときにはきちんと祝日には休んでいたから、大きく現在は違っていることになる。

もっとも勤務をしてはいないので、精神的な緊張度は低い。それに好きなことしかしないというわがままぶりだから、自分にストレスがあまりかかっているとは思えない。

それでも他人との関係から義理にもしなければならない仕事もある。最近では中学生とのつきあいができているので、その中学生君の学習の資料となるエッセイの作成が毎日のしなければならないことの一つである。

できるだけ直観的な図を用いたエッセイを書こうとしている。そうでないと計算をするようなエッセイではなかなか読んでもらえないだろうと思う。

latexで文章をつくると、図の挿入が面倒である。しかし、このごろはtikzの使用ですこし図の挿入ができやすくなっている。

この数日思っていることは前に書いた「テンソル解析の学習上の問題点」というエッセイの改訂版をつくることである。

まだ、よくわからないことに

2020-05-05 12:43:57 | 本と雑誌
まだ、よくわからないことにベクトル解析でのストークスの定理とガウスの定理がある。

これらの腹の底からわかるような証明をあまりみたことがない。特に最近ではこれらの定理は微分形式との関係でも議論されており、これらの定理が微積分学の基本定理の一般化されたものだという説明も書かれた本も多くあるが、微積分学の基本定理との関係を深くイメージした証明はあまり見たことがない。そこのところがきちんと書かれないと私には納得したとはいかないだろう。

いや、これは私が読んだことがないだけでもうそういう記述がされた本もあるのかもしれない。

ベクトル代数のほうはある程度わかっているのだが、まだベクトル解析のこの部分が私には納得ができたというところまで行っていない。

それにちょっと関係したことだが、最近、またテンソル解析の書を拾い読みしたりしている。須藤靖さんの『一般相対論』(日本評論社)の共変微分の説明はよかった。これは物理学の研究者の中では有名なMTWとか電話帳とか呼ばれている、本の影響を受けた書らしい。

テンソル解析の書を拾い読みをしている理由はテンソル解析全体の俯瞰できるようになりたいという気が起きてきたからである。

具体的には「テンソル解析の学習におけるの問題点」(『数学散歩』『物理数学散歩』(国土社)所収)という数学エッセイの続きを書く必要性を強く感じているからである。


メルケルさんをアメリカ副大統領に!

2020-05-05 11:46:11 | 国際・政治
1か月の自分に課した処分をまだ10日ほど時日を残して解禁する。

それはとても面白い構想を聞いたから、もう書かずにはおれなくなった。メルケルさんはもちろんドイツ連邦共和国の首相である。

今回のコロナウイルス対策でもその冷静で合理的な対処のしかたとかドイツ国民に対する措置でも声明でもEU各国の首脳の対策と声明の中でも特に高く評価された方である。

それまでともすれば、ドイツ国内でメルケルさんの人気というか支持率が落ちそうだったが、今回の新型コロナ対策の適切さで支持を大きく取り戻したと言われている。

メルケルさんは旧東ドイツの出身であるが、その父親は西ドイツから布教のために東ドイツへ移住した牧師の子であり、大学では物理学を修めて、その後、物理学の研究者として過ごしていたという。

旧東独と西ドイツの統合があり、いつのころか政治家となった。そして、日本での福島第一原発の事故の後で、国内の世論を背景として原発を廃止する政策を主導したことでも知られる。

彼女は日本のような科学・技術先進国でもこのような原発事故が起こるのならば、ドイツでも同じようなことが起こるとの見解をもっていたという。

日本が科学・技術の先進国であるかどうかは少なくとも原発についてはどうだろうかと「疑問符なし」とすることはできないが、それでも判断の確かさは定評のあるところだ。

それで、もしアメリカが民主党のバイデン候補が大統領になれば、副大統領としてメルケルさんに就任をしてもらったらという法外な構想をもつ人が現れているということだ。

実現はとうていするまいが、人類の理性とか知性にたいする希望と期待を抱かせる話である。