物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

懐が深い

2024-04-03 12:12:29 | 本と雑誌
「懐が深い」という表現を聞いてすぐにその意味が分からない日本人はすくないだろう。

だが、その意味するところを精確に理解しているかどうか。そう思って広辞苑を引いてみた。辞書には単語の意味の説明はあるのだろうが、こういうちょっと熟語的な言葉遣いの説明はないかもしれないなと思いながらである。

予想に反して広辞苑ではこういうちょっと熟語的表現も説明があった。それによると「懐が深い」は相撲の用語以外に

 包容力がある。度量が広く、寛容である。

とあった。まさにその通りであろう。

懐が深いとは人となりの形容であろうが、私には大学院のころに指導を受けたYさんがそのような方であった。頭がいいのはもちろんであろうが、それだけではない。初期に指導をしてもらったSさんも頭のいい方であり、反応も早い方であった。

レスポンスの反応が早いのは頭のいい証拠であろう。Sさんの指導により私も研究が曲がりなりにもできるようになったかと思っている。だが、そこに懐の深さをあまり感じはしなかった。これはちょっと悪口のように聞こえたら、その点はお許しをいただきたい。悪口ではないのだ。

人柄の違いというか、与える感じが違うということだけ言いたいのである。願わくば、私も懐の深い人にはなりたいとは思うが、これはなかなか生まれつきなのでそれだけはどうしようもない。

私に比べると私の妻などは懐の深い人である。最後に、語るに落ちたかと言われそうだが。



何もする元気がわかない

2024-04-02 18:21:01 | 本と雑誌
「何もする元気がわかない」と書くと、そうお前は書いているではないかと言われそうである。いや、ここで言いたいのは知的な作業をする気が起きないということである。

文章を書くのもけっこう知的な作業でないかとまた追い打ちをかけられそうだ。じゃあ、言い方を変えて自分が努力を要すると思うことはする気が起こらないと言い換えたらいいだろうか。

どちらにしてもいいわけではあるが、どうも遅れてやってきた放心状態らしい。自分ではあまり感じてはいないのだが、やはりミニの雑誌でもその発行には気を使っているということだろうか。

いずれ数日すれば、元にもどるのであろうが、辛抱がいる。




「掉(さお)さす」

2024-04-02 10:56:05 | 本と雑誌
いつもの如く私のブログの検索されたものを私自身も見て、不備なところとか追加の情報を付加してから、今日のブログに来た。

今日は早くも4月2日である。つい先ほど新年を迎えたと思ったのに、時は早くめぐってくる。

「貧乏暇なし、死人に口なし」である。まあ、「死人に口なし」は余計であったが。今日は「掉(さお)さす」という語について書くつもりであった。

朝食後に妻が『「棹さす」とは前に進むということだったのだね』と話していたからである。私にしても「掉さす」の精確な意味など知ってはいなかったが、筏とか船を川で流す人が棹をさすことは知っていた。しかし、その正確な知識はなかった。

こういう成句のような言葉は辞書でも出ていないのではないかと思いながら、岩波国語辞典を引いたのだが、「掉さす」は動詞として出ていた。

船とか筏とかを前に進めるとあったと思う。漱石の草枕だかの冒頭の文句「情に掉させば、流される」とかも使用例として引用されてあった。

80数年長い間、日本人をやってきたが、日本語をすべてわかって使っているわけではないということを思い知った次第である。

ハイゼンベルクが日本にやってきたころ

2024-04-01 12:51:31 | 物理学
20人くらいドイツに関係した科学者について昔ある雑誌に書いた記事から転載したブログのうちでハイゼンベルクのブログが読まれていたので、先ほど読み直してかなり加筆修正をした。

昔、ハイゼンべルクが日本にやって来たとき、講演を聞いたと書いた。そのときの彼の講演の後で新聞記者が私の先生の一人のYさんにその内容を尋ねていたのを覚えている。H大学の大学会館のかなり広い部屋でその講演があった。

それは1967年だから私は博士課程の最上級生であったが、あまり話の中身は理解できなかった。それがいつごろであったか。もし秋であったのなら、私の学位論文の研究がだいぶん煮詰まってきて、まとまりつつあった時期だったろうか。

それがもし5月ころなら、まだ研究にとりかかって間がない頃であり、研究のために必要なkinematicsを習得しようとして四苦八苦していた時期になる。いずれの時期だったかは覚えていない。Goldberger-Watsonの両氏が書かれた本である”Collision Theory”のphoto-productionのプロセスに必要なkinematicsは、私には結構難しかったが、懸命にそれを習得しようとしていた。

その論文には南部陽一郎さんはあまり関係していないといわれるが、有名な南部(Nambu)さんの名前が入った通称CGLN(著者名のChew-Goldberger-Low-Nambuの頭文字をとった略称)と言われた論文の第2論文のkinematicsをCGLNの一人のGoldbergerが解説した本を読んでいた。

原論文のCGLNにもちろんそのkinematicsの要旨も出ているのだが、私には論文からその仕組みを読み取る力はなかった。

私がいまこれほどまでに異常にLevi-Civitaの記号に執着する元は実はphoto-pi-productionの研究を過去にしたことがあったのが、その理由である。

もっともそれは今関心のある、3次元のLevi-Civitaの記号ではなく、4次元のLevi-Civitaの記号とその縮約公式が研究には必要だったのだが。

参考までにいうと、Levi-Civitaの記号\epsilon _{ijk}はベクトル解析のベクトル代数を理解するときにとても役立つ記号である。

ベクトル代数やベクトル解析でこのLevi-Civitaの記号の有用性を知れば、ベクトル解析の面倒さ、不可解さの一部は必ず晴れるという魔法の杖のようなものである。

もっともこれになじむのはなかなか難しいかもしれない。私にとっても、もう何十年も昔のことだが、Bohmの『量子論』(みすず書房)の本にでていたLevi-Civitaの記号を見たときが、この記号を見た、生まれてはじめての機会だったと思うが、とてつもなく難しいものに思えた。

これはパウリ行列の間に成り立つ関係を示すために用いられたものであったのだが。

(2024.4.2付記) 
私のLevi-Civitaの記号との出会いは上にBohmの『量子論』であったと書いたが、その英語版を今見てみるとはパウリ行列の間に成り立つ関係はLevi-Civitaの記号を使って書かれていない。それでこれは私の記憶違いらしい。

どうも有名なSchweberの場の量子論のテクストの比較的はじめの方の記述を見たのをまちがって思い込んでしまったらしい。いずれにしても、これは私にはわからんなと思ったことだけは事実である。これは単に記号だけのことではあるのだが、私はギリシャ文字に心理的に弱いらしいことがわかる。

もっとも、私はSchweberの場の量子論の本を詳しく勉強したことがない。結局のところ、Bohmうんぬんという、上の記述はまちがっているのだろうが、あえてそのままにしておく。人の書くことをそのまま簡単に信用するなという教訓にしたいためである。