いつも利用している中央図書館大通カウンターから不可解な電話がかかってきました。「お求めの資料(本)が用意できました」という内容でした。
その時借りていた本以外に予約した覚えのない私でしたが、大通カウンターに行ってみました。
すると、ず~~っと以前に予約していた「不都合な真実」がようやく私のところへ回ってきたということでした。私は予約したことも忘れていたのですが、早速貸出手続きをして借りてきました。
この本は、映画「不都合な真実」の原作となったアメリカの元副大統領アル・ゴア氏が書き下ろしたものです。
映画はブログでもレポートしたように2度にわたって見ました。(その時のブログはこちら⇒① ②)しかし、アル・ゴア氏のテンポの良い説明に、すっかり硬化した私の頭では衝撃的な事実は把握できても、内容全体を理解するということでは消化不良の状態でした。
著書を読むことで、ゴア氏が訴えていること、主張していること、そして現実の地球の病理現象についてはかなり理解できたように思います。
しかし、その内容が多岐にわたっているため、私がどこまで、そしてどの程度理解できたのかははなはだ怪しいのも事実です。
ですから私がこの本の内容をコンパクトにまとめることなど到底できません。
※ 映画の画面にも出てきた大気中の二酸化炭素の上昇を示した衝撃的なグラフです。
そこで少々長くなりますが、ゴア氏の許可を得ないまま、地球温暖化と私たちの意識について述べられた一節を転写してみることにします。
私たちが気候の危機を考える際の最初の問題は、「この件については、何も考えないほうがラクだ」と思ってしまうことだ。「自分たちはこの件から一瞬たりとも目をそらせない」という状態にならないのは、なぜだろう?その理由の1つは、おなじみの“昔の化学実験”のお話で説明できそうだ。『沸騰しているお湯にカエルが跳び込むと、カエルは次の瞬間、ぴょんとお湯から跳び出します。瞬時に、その危険がわかるからです。同じカエルを生温かい水の入ったお湯に入れて、沸騰するまで少しずつ温度を上げていくとどうなるでしょう?ただじっと座っているのです。同じ危険があるというのに。---そして最後にカエルは・・・救出されるのでした』
(私は、かってこのカエルのお話を話す時、最後の一文は、先ほどの話とは違って、「そして、カエルはゆで上がってしまったのでした」と結んでいた。しかし、講演を終えると、少なくとも一人の聴衆が苦悩に満ちた表情で私のところにやってきて、「あのカエルは、そのあとどうなったのか」と心配してくれることが何十回もあった。そしてついに私は、カエルを救うことが大切だと理解したのだった)
※著書の中の衝撃的な写真の一枚です。「今ではアラル海そのものが、実質的にはなくなってしまった」というキャンプションが付いていました。
しかし言うまでもないが、この話のもっと大事な点は、私たちが自分たちの生存を脅かす差し迫った危険を認識する、集合体としての“神経系”が、先ほどのカエルの神経系と同じだということだ。
もし自分たちの身の回りで、重大な変化が少しずつゆっくり起こっているとしたら?---私たちは、手遅れになってしまうまで、ただじっと座っていて、起こっていることの深刻さに気づかずにいるだろう。あのカエルのように、突然の衝撃を受けないかぎり、つまり、自分たちの周りで警報レベルのスイッチを入れるような大きな変化が急展開しないかぎり反応しないことがあるのだ。
温暖化は、ひとりひとりの一生から見ていると、少しずつしか進んでいないように思えるかもしれない。しかし地球の歴史から見れば、実は電光石火のスピードで進んでいるのだ。今ではそのスピードが非常に加速しているので、私たち自身の一生の間でも、鍋が沸騰しかけていることを示す泡ぶくが見え始めている。
もちろん、私たちはあのカエルとは違う。私たちは、自分たちを取り巻いている危険を理解するために、鍋が沸騰するまで待つまでもない---そして私たちには、自分たちを救い出す力がある。
かなり長い引用になりましたが、翻訳文のため一部理解しずらいところもありましたが、私たちの温暖化に対する危機感の薄さを分かりやすい例えで表現されていたので紹介しました。
そしてアル・ゴア氏は最後に次のようなメッセージでこの本を締め括っています。
将来を守るため、私たちはもう一度立ち上がらねばならない。
※「もう一度」という部分については、少し説明が必要だと思います。アル・ゴア氏は地球温暖化を加速させている主役は母国アメリカだと断じています。そのアメリカは、過去にも国民全体で立ち上がり困難を克服してきた例があると説きます。奴隷制度の撤廃、公民権法の確立、ファシズムとの対決、などなど・・・。
その時と同じように、いやもっと大きな決意をもって「もう一度」立ち上がろうと訴えているのです。そしてこのメッセージは、アメリカだけに向けられたものでなく、私たち全世界の人に向けられたものと受け取るべきなのだと思います。
その時借りていた本以外に予約した覚えのない私でしたが、大通カウンターに行ってみました。
すると、ず~~っと以前に予約していた「不都合な真実」がようやく私のところへ回ってきたということでした。私は予約したことも忘れていたのですが、早速貸出手続きをして借りてきました。
この本は、映画「不都合な真実」の原作となったアメリカの元副大統領アル・ゴア氏が書き下ろしたものです。
映画はブログでもレポートしたように2度にわたって見ました。(その時のブログはこちら⇒① ②)しかし、アル・ゴア氏のテンポの良い説明に、すっかり硬化した私の頭では衝撃的な事実は把握できても、内容全体を理解するということでは消化不良の状態でした。
著書を読むことで、ゴア氏が訴えていること、主張していること、そして現実の地球の病理現象についてはかなり理解できたように思います。
しかし、その内容が多岐にわたっているため、私がどこまで、そしてどの程度理解できたのかははなはだ怪しいのも事実です。
ですから私がこの本の内容をコンパクトにまとめることなど到底できません。
※ 映画の画面にも出てきた大気中の二酸化炭素の上昇を示した衝撃的なグラフです。
そこで少々長くなりますが、ゴア氏の許可を得ないまま、地球温暖化と私たちの意識について述べられた一節を転写してみることにします。
私たちが気候の危機を考える際の最初の問題は、「この件については、何も考えないほうがラクだ」と思ってしまうことだ。「自分たちはこの件から一瞬たりとも目をそらせない」という状態にならないのは、なぜだろう?その理由の1つは、おなじみの“昔の化学実験”のお話で説明できそうだ。『沸騰しているお湯にカエルが跳び込むと、カエルは次の瞬間、ぴょんとお湯から跳び出します。瞬時に、その危険がわかるからです。同じカエルを生温かい水の入ったお湯に入れて、沸騰するまで少しずつ温度を上げていくとどうなるでしょう?ただじっと座っているのです。同じ危険があるというのに。---そして最後にカエルは・・・救出されるのでした』
(私は、かってこのカエルのお話を話す時、最後の一文は、先ほどの話とは違って、「そして、カエルはゆで上がってしまったのでした」と結んでいた。しかし、講演を終えると、少なくとも一人の聴衆が苦悩に満ちた表情で私のところにやってきて、「あのカエルは、そのあとどうなったのか」と心配してくれることが何十回もあった。そしてついに私は、カエルを救うことが大切だと理解したのだった)
※著書の中の衝撃的な写真の一枚です。「今ではアラル海そのものが、実質的にはなくなってしまった」というキャンプションが付いていました。
しかし言うまでもないが、この話のもっと大事な点は、私たちが自分たちの生存を脅かす差し迫った危険を認識する、集合体としての“神経系”が、先ほどのカエルの神経系と同じだということだ。
もし自分たちの身の回りで、重大な変化が少しずつゆっくり起こっているとしたら?---私たちは、手遅れになってしまうまで、ただじっと座っていて、起こっていることの深刻さに気づかずにいるだろう。あのカエルのように、突然の衝撃を受けないかぎり、つまり、自分たちの周りで警報レベルのスイッチを入れるような大きな変化が急展開しないかぎり反応しないことがあるのだ。
温暖化は、ひとりひとりの一生から見ていると、少しずつしか進んでいないように思えるかもしれない。しかし地球の歴史から見れば、実は電光石火のスピードで進んでいるのだ。今ではそのスピードが非常に加速しているので、私たち自身の一生の間でも、鍋が沸騰しかけていることを示す泡ぶくが見え始めている。
もちろん、私たちはあのカエルとは違う。私たちは、自分たちを取り巻いている危険を理解するために、鍋が沸騰するまで待つまでもない---そして私たちには、自分たちを救い出す力がある。
かなり長い引用になりましたが、翻訳文のため一部理解しずらいところもありましたが、私たちの温暖化に対する危機感の薄さを分かりやすい例えで表現されていたので紹介しました。
そしてアル・ゴア氏は最後に次のようなメッセージでこの本を締め括っています。
将来を守るため、私たちはもう一度立ち上がらねばならない。
※「もう一度」という部分については、少し説明が必要だと思います。アル・ゴア氏は地球温暖化を加速させている主役は母国アメリカだと断じています。そのアメリカは、過去にも国民全体で立ち上がり困難を克服してきた例があると説きます。奴隷制度の撤廃、公民権法の確立、ファシズムとの対決、などなど・・・。
その時と同じように、いやもっと大きな決意をもって「もう一度」立ち上がろうと訴えているのです。そしてこのメッセージは、アメリカだけに向けられたものでなく、私たち全世界の人に向けられたものと受け取るべきなのだと思います。