古文にも、和歌にも素養のない者が「万葉集」の講座を受講することは間違いなのかもしれないと思った。講師の流暢なる講義について行くのがやっとだった。というよりも落ちこぼれていたと称した方が適切かもしれない…。
道新ぶんぶんクラブ主催の教養講座はできるだけ応募することにしている。
これまで何度も受講していた国学院大・国学院道短大主催の「いにしえの日本を探る」講座シリーズを今回も応募したところ受講券が舞い込んだ。
今回のテーマは「萬葉集巻十七を読む-贈答歌から文学へ」と題して国学院道短大の月岡道晴准教授の講座だった。

まず、冒頭からやられてしまった。「巻十七」は「まきじゅうしち」と月岡氏は称した。私には「じゅうななかん」という言い方しか知らなかったので、冒頭から異次元に彷徨いこんだ感じだった。
巻十七から巻二十までは大伴家持を中心とした歌日誌が中心になっている。
まずは天平十八年の正月に宴を催したときに詠われた歌「肆宴歌(しえんか)」の紹介があった。
講師の月岡氏の歌を詠む流暢さや弁舌さわやかな解説に、私の理解度はついていけなかった。「肆宴歌」は家持をはじめ多くの人が集い詠ったようである。そのうち五首が紹介されたが、それらの歌は先に詠われた歌のどこかにかけて詠われているということだけはなんとか理解することができた。
次いで私が多少は理解できたかな?と思われたのは、大伴家持と大伴池主の間で詠われた「贈答歌」のことである。
家持は天平十八年、都から遠く離れた越中の国守として赴任した。そのとき越中の掾(じょう)の任にあったのが池主である。「掾」とは国守の部下に当たる役人である。二人の関係は同族との見方もあるが定かではない。しかし、家持が赴任したことによって二人の間には交流が生まれた。
ある時、家持が病に倒れたのだが、都から遠いこともあってその心細さを歌に詠って池主に贈ったところ、それに対して家持を慰める歌が返ってきた。さらに両者の間で歌のやりとりが続くのだが、その際池主は和歌だけではなく漢詩も併せて贈った。すると家持もまたそれに倣ったのだが池主のそれには及ばなかったということだ。
それ以来、家持は漢詩文+和歌というスタイルを確立したということである。
理解できたとはいっても、それは月岡氏の解説を理解できたということであって、歌そのものを理解できたわけではないところが辛~い。
う~ん。いにしえの世界は深く、遠いの~。
道新ぶんぶんクラブ主催の教養講座はできるだけ応募することにしている。
これまで何度も受講していた国学院大・国学院道短大主催の「いにしえの日本を探る」講座シリーズを今回も応募したところ受講券が舞い込んだ。
今回のテーマは「萬葉集巻十七を読む-贈答歌から文学へ」と題して国学院道短大の月岡道晴准教授の講座だった。

まず、冒頭からやられてしまった。「巻十七」は「まきじゅうしち」と月岡氏は称した。私には「じゅうななかん」という言い方しか知らなかったので、冒頭から異次元に彷徨いこんだ感じだった。
巻十七から巻二十までは大伴家持を中心とした歌日誌が中心になっている。
まずは天平十八年の正月に宴を催したときに詠われた歌「肆宴歌(しえんか)」の紹介があった。
講師の月岡氏の歌を詠む流暢さや弁舌さわやかな解説に、私の理解度はついていけなかった。「肆宴歌」は家持をはじめ多くの人が集い詠ったようである。そのうち五首が紹介されたが、それらの歌は先に詠われた歌のどこかにかけて詠われているということだけはなんとか理解することができた。
次いで私が多少は理解できたかな?と思われたのは、大伴家持と大伴池主の間で詠われた「贈答歌」のことである。
家持は天平十八年、都から遠く離れた越中の国守として赴任した。そのとき越中の掾(じょう)の任にあったのが池主である。「掾」とは国守の部下に当たる役人である。二人の関係は同族との見方もあるが定かではない。しかし、家持が赴任したことによって二人の間には交流が生まれた。
ある時、家持が病に倒れたのだが、都から遠いこともあってその心細さを歌に詠って池主に贈ったところ、それに対して家持を慰める歌が返ってきた。さらに両者の間で歌のやりとりが続くのだが、その際池主は和歌だけではなく漢詩も併せて贈った。すると家持もまたそれに倣ったのだが池主のそれには及ばなかったということだ。
それ以来、家持は漢詩文+和歌というスタイルを確立したということである。
理解できたとはいっても、それは月岡氏の解説を理解できたということであって、歌そのものを理解できたわけではないところが辛~い。
う~ん。いにしえの世界は深く、遠いの~。