期待以上に興味深い講演だった。編纂開始から完成までに実に30数年の歳月をかけた世界最大ともいわれる漢和辞典が大修館書店刊行の「大漢和辞典」である。その編纂の過程には壮絶なストーリーがあったという。大修館書店勤務の経験がある講師が語った。
12月3日(土)夕刻、かでる2・7において、北海道漢字同好会が主催する講演会「大漢和辞典編纂ものがたり」と題して、著述業の円満字二郎氏が講演するのを聴いた。
私は講演題だけを見て受講を決めたため、講師の名前に注意を払っていなかった。会場に入り講師名を見たときに、あまりにも出来すぎているので「ペンネームなのでは?」と思っていたところ、講師から最初に「本名です」と言われて、「なんとまあ、仕事と名前が合致するなんて珍しいことだ」と呟いていたのだった。
その円満字氏は1991年大学を卒業以来、大修館書店に勤務し、2008年に退職して、現在はフリーの立場で活躍されているということだ。

※ 講演をした円満字二郎氏です。
さて、大修館書店刊の「大漢和辞典」だが、本巻だけで全12巻、収録漢字が約5万字、熟語は50万語以上という世界最大ともいわれる漢和辞典である。この大辞典を生涯をかけて完成させたのが諸橋轍次(もろはし てつじ)という漢学者である。
諸橋とともに、「大漢和辞典」の生みの親として忘れてはならないのが、大修館書店のオーナー鈴木一平だろう。彼は計画どおりには進まない諸橋の辞典づくりを辛抱強く支え続けたということだった。

※ 大漢和辞典の編纂責任者だった諸橋轍次氏の姿です。
「大漢和辞典」の編纂の歴史はこうだ。
1925(大正14)年、鈴木が諸橋を訪ねて、漢和辞典の編纂を依頼した。そして1928(昭和3)年、第1回の編纂会議が開かれたという。
編纂作業は諸橋の東京文理科大学(現筑波大学)、大東文化学院などの教え子など約100人が関わったという。その中には、大学を終えて北海道で教職に携わった方も数人いるということだった。
編纂開始から10年目の1937(昭和12)年、ようやく全巻の「棒組み」が完了したという。「棒組み」とは、活版印刷時代にページや体裁に関係なく、活字を組み上げることを差すそうだ。つまり、あとは体裁を整えて印刷するばかりの状態になったのだが、苦難はここから始まったという。
「棒組み」の完了した原稿を諸橋は、漢学に造詣の深いと諸橋が考えていた鎌田正と米山寅太郎という人に見せて、意見を求めたという。すると、鎌田と米山から多くの意見が出されたそうだ。
このことから円満字氏は、編者である諸橋は膨大な原稿の一字一句まで目を通していなかったのではないか、と推測した。そしてただちに修正作業を開始したという。
そして4年の修正作業を経て1942(昭和17)年、刊行準備に入るも戦時下となり資材の調達が困難を窮めたらしい。さらに、1945(昭和20)年、東京大空襲により「棒組み」の組版がすべて焼失してしまい、編纂作業は無に近い状態になったそうだ。
「棒組み」どころか、会社も工場もすべて失った大修館書店オーナーの鈴木だったが、その才覚を活かして経営を立て直し、3年後の1949(昭和23)年に鈴木は諸橋を訪ねて大漢和辞典再挙の相談を始めている。
「棒組み」を失っていた大修館だったが、戦後に写真植字の技術が開発された。その写植技術の先達であった石井茂吉が製版を手がけ、8年の歳月をかけてすべての原字を作成したそうだ。
大漢和辞典再挙の相談をはじめてから13年、1960(昭和35)年5月「大漢和辞典」全13巻が完結したそうだ。
それは「大漢和辞典」制作のための第1回編纂会議が開かれてから、実に36年の歳月が経っていたということだ。

※ 会場内に持ち込まれた大修館刊の「大漢和辞典」全13巻の縮写版です。
ここには紹介しきれない数々のエピソードを交えた壮大な「編纂ものがたり」は非常に聴き応えのある講演だった。

12月3日(土)夕刻、かでる2・7において、北海道漢字同好会が主催する講演会「大漢和辞典編纂ものがたり」と題して、著述業の円満字二郎氏が講演するのを聴いた。
私は講演題だけを見て受講を決めたため、講師の名前に注意を払っていなかった。会場に入り講師名を見たときに、あまりにも出来すぎているので「ペンネームなのでは?」と思っていたところ、講師から最初に「本名です」と言われて、「なんとまあ、仕事と名前が合致するなんて珍しいことだ」と呟いていたのだった。
その円満字氏は1991年大学を卒業以来、大修館書店に勤務し、2008年に退職して、現在はフリーの立場で活躍されているということだ。

※ 講演をした円満字二郎氏です。
さて、大修館書店刊の「大漢和辞典」だが、本巻だけで全12巻、収録漢字が約5万字、熟語は50万語以上という世界最大ともいわれる漢和辞典である。この大辞典を生涯をかけて完成させたのが諸橋轍次(もろはし てつじ)という漢学者である。
諸橋とともに、「大漢和辞典」の生みの親として忘れてはならないのが、大修館書店のオーナー鈴木一平だろう。彼は計画どおりには進まない諸橋の辞典づくりを辛抱強く支え続けたということだった。

※ 大漢和辞典の編纂責任者だった諸橋轍次氏の姿です。
「大漢和辞典」の編纂の歴史はこうだ。
1925(大正14)年、鈴木が諸橋を訪ねて、漢和辞典の編纂を依頼した。そして1928(昭和3)年、第1回の編纂会議が開かれたという。
編纂作業は諸橋の東京文理科大学(現筑波大学)、大東文化学院などの教え子など約100人が関わったという。その中には、大学を終えて北海道で教職に携わった方も数人いるということだった。
編纂開始から10年目の1937(昭和12)年、ようやく全巻の「棒組み」が完了したという。「棒組み」とは、活版印刷時代にページや体裁に関係なく、活字を組み上げることを差すそうだ。つまり、あとは体裁を整えて印刷するばかりの状態になったのだが、苦難はここから始まったという。
「棒組み」の完了した原稿を諸橋は、漢学に造詣の深いと諸橋が考えていた鎌田正と米山寅太郎という人に見せて、意見を求めたという。すると、鎌田と米山から多くの意見が出されたそうだ。
このことから円満字氏は、編者である諸橋は膨大な原稿の一字一句まで目を通していなかったのではないか、と推測した。そしてただちに修正作業を開始したという。
そして4年の修正作業を経て1942(昭和17)年、刊行準備に入るも戦時下となり資材の調達が困難を窮めたらしい。さらに、1945(昭和20)年、東京大空襲により「棒組み」の組版がすべて焼失してしまい、編纂作業は無に近い状態になったそうだ。
「棒組み」どころか、会社も工場もすべて失った大修館書店オーナーの鈴木だったが、その才覚を活かして経営を立て直し、3年後の1949(昭和23)年に鈴木は諸橋を訪ねて大漢和辞典再挙の相談を始めている。
「棒組み」を失っていた大修館だったが、戦後に写真植字の技術が開発された。その写植技術の先達であった石井茂吉が製版を手がけ、8年の歳月をかけてすべての原字を作成したそうだ。
大漢和辞典再挙の相談をはじめてから13年、1960(昭和35)年5月「大漢和辞典」全13巻が完結したそうだ。
それは「大漢和辞典」制作のための第1回編纂会議が開かれてから、実に36年の歳月が経っていたということだ。

※ 会場内に持ち込まれた大修館刊の「大漢和辞典」全13巻の縮写版です。
ここには紹介しきれない数々のエピソードを交えた壮大な「編纂ものがたり」は非常に聴き応えのある講演だった。