田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札響の第九 Ⅷ

2016-12-11 19:38:27 | ステージ & エンターテイメント
 偉大なるマンネリズムと言おうか、もはや私にとっては年末のルーティーンと化してしまったように今年も友人たちと「札響の第九」に足を運んだ。そしてこれまた恒例の忘年会になだれ込んだ私たちだった。記録を辿ると、実に8年連続ということになる。

     

 昨日(12月10日)、札幌は大変な大雪だった。12月の積雪が65センチを超える大雪は29年ぶりとか…。そんな大雪の中、会場のキタラ(札幌市コンサートホール)に向かった。
 大雪にもかかわらず大勢の人たちがキタラに詰めかけていた。

                    

 今年の「札響の第九」は、いつもと違い「第九」の前にヴィバルディの「ヴァイオリン協奏曲『四季』」の「春」と「冬」が演奏された。
 耳慣れた「四季」はいつ聴いても弦の響きが心地良い。ヴァイオリン独奏の札響コンサートマスターの田島高宏の安定した演奏が素晴らしかったが、その田島ともう一人のコンマスの大平まゆみとのヴァイオリンの掛け合いは際立っていた。
 また、チェンバロは秋山和慶が指揮と兼ねて演奏した。チェンバロはけっして音量の大きな楽器ではない。演奏のところどころで微かに聞こえてくる金属的な響きが効果的だった。

 さて、肝心の「第九」であるが、私にとっては指揮者が変わっても、ソリストが変わっても、それを聴き分けるだけの素養を持ち合わせていない。いつものように囁くような弦の響きから始まり、徐々に、徐々に会場内が高揚感に包まれながら、あの圧倒的な第九の合唱へと導かれていくさまは、いつ聴いても心が高揚し、一年の終わりを実感させてもらうことができた。
 合唱団の構成は、いつもの札響合唱団と札幌放送合唱団に加え、今年は札幌大谷大学芸術学部音楽科合唱団が加わっていた。学生が合唱に加わったせいだろうか、いつもより勢いのある合唱に聴こえてきたのは気のせいだろうか?

                    

 「札響の第九」も8度目ともなると、演奏だけではなく、他に目が移ってしまうところがある。
 この日の開演前、ステージ上に私にとってはちょっと不思議な光景が私の目に入ってきた。奏者たちの椅子がズラーッと並べられているのだが、その中に明らかに椅子の向きが反対になっている椅子を何個か見つけたのだ。「えっ?あれは何?」と思って見ていた。
 すると、奏者たちが入ってきたとき、その向きが反対になった椅子になにやら小物を置いているのが見えた。その椅子は奏者たちの小物を置く台となっていたのだ。
 よく見ると、その小物を置く台は違った形の椅子、あるいは木製のモノを置くための台など用意している奏者もいた。しかし、最も多かったのは奏者が座る椅子と同じ椅子を反対にしたものだった。
 もう少し子細に見てみると、そうした物置き台を用意しているのは、ピッコロ、フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット、ファゴットの奏者たちだけだった。
 なぜ、これらの奏者だけが物置き台を用意しているのか、私には分からない。一部の奏者たちは演奏中に台においてある別の歌口を交換しているようにも見えたのだが…。
 
 それにしても、あのキタラでプロである札幌交響楽団の正式なコンサートで、例え物置き用の台とはいえ、自分たちが座る椅子を代用しているとはどういうことだろう?それなりの専用の台を用意しても良いのでは、と思うのだが…。あるいは、本場においてもそうしたことがごく普通に行われているということだろうか? 面白い発見だった。

 「札響の第九」で年末を感じ、私たちはキタラを後にし、忘年会へなだれ込んだのだった。